白岩太郎

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小説無題#21 不在の声と残された痕跡

柳の部屋で彼を連れ戻す決意をした後の事を、奥村は断片的にしか覚えていない。なぜなら、その直後に過呼吸を引き起こし、気を失ってしまったからだ。 あの時の奥村は、完全に冷静さを欠いていた。自分が生来、感情的な人間であること。一度怒りに火がつくと自分では制御出来なくなる事を理解していたのは、奥村自身であったはずだった。それでも、ハンチング帽の男によって怒りや不安を煽られた結果、過呼吸で倒れてしまったのである。 過呼吸が始まった時点で、奥村は既に自分を制御出来なくなっていた。呼吸

    • 小説無題#20 決意

      奥村の頭の中は混濁していた。    それは、主にハンチング帽の男に思考や感情を掻き乱されているからだった。しかし、それだけではない。この空間に充満する煙管の副流煙もまた、奥村の判断能力を鈍らせているように思えた。煙を吸い込むたびに、まるで頭の中に煙が物理的に充満していくかのようだった。 「じゃあ柳さんは、東北自由戦線と何かしらの関わりがあるということなのか?」  朦朧とする意識の中で、奥村はハンチング帽の男に問いかけた。  ハンチング帽の男は、荒れ地にひっそりと佇む案山

      • 小説無題#19 『東北自由戦線』

        「じゃあ単刀直入に聞こう、柳さんはどこに居る」奥村はすかさず切り込んだ。 「そう焦らずとも今日いちにちはまだまだ長いでございますよ」ハンチング帽の男は質問をはぐらかす。 「無事なんだろうな」 「無事ですとも。少なくともここに住んでいたときよりも伸び伸びと過ごされているようです」  ハンチング帽の男はもう一度煙管を手に取り、葉を詰めて火を付けた。室内に充満する甘い香りが一層強くなる。 「何よりこんな堅苦しい都会よりもいい環境に居ますからね。きっと身を裂くような寒さの中

        • 小説無題#18 赤い煙管と嘘をつけない男

          「そこにおられるんでしょう? どうぞお入り下さい」  ドアの向こうから聞こえるその声で奥村は反射的に動きを止め、息を潜めた。 「とはいえここはわたくしの家では無いんですがね。どうです? 少しわたくしの話し相手になっていただけないでしょうか? こちとら人と話す機会がめっきり無くなって言葉を忘れてしまいそうなんです。どなたか存じあげませんが柳様の行方について興味がお有りでしょう?」  リビングから聞こえるその声は、あまり特徴の無い男の声だった。野太くもか細くも無い。言葉遣い

          小説無題#17 侵入者

           柳の家は北池袋にあり、首都高速道路を見下ろせる分譲マンションの二十三階、二三〇五室だ。建物内に入ると、広々したエントランスホールにはひな壇状のウォーターフォールがあり、ベルトパーテーションに守られるように置かれたグランドピアノはひとりでにショパンの幻想即興曲を奏でている。もしかしたら透明人間が実際にダンパーペダルを踏みながら鍵盤を鳴らしているのかも知れない。  照明にしろ音響にしろ空間を満たす香りにしろ全てが上品で、それでいてその上品さをひけらかしてくる感じが何とも憎らしか

          小説無題#17 侵入者

          小説無題 #16 行方知れず

           柳の弁護士である奥村唯人は頭を抱えていた。  実際のところ仕事用のデスクに座って肘をつき、左の拳を眉間に押し当てているだけなので物理的には頭を抱えていない事になる。『頭を抱えていた』というのはつまり奥村にとって吐き気がするような出来事が起こったという意味である。  奥村弁護士の個人事務所は高田馬場にあり、一階に焼き肉屋を構えているビル三階の、八畳ワンルームのオフィスだ。  現在オフィス内に居るのは奥村一人だけだった。本来であれば三十代半ばの女性事務員がいる事もあるのだが

          小説無題 #16 行方知れず

          小説無題#14メキシコ料理店

           「早く開けなさいよ、電話にも出ないし」  ホテルの部屋の前には美幸が立っていた。すっぴんのまま髪を後ろで束ね、蛍光ピンクのUVカットパーカーと白のロングスカートを着て黄色いモンベルの登山用リュックを背負っている。美幸がダイビングに行く時のいつものスタイルだ。美幸はうつむいた柳の顔をじっと覗き込んでいたが柳が想像していたよりも怒っていない様子だった。 「ごめん寝てた」  声が裏返り柳は軽く咳払いをした。喉の奥が乾燥していたが、それが煙草のせいなのか寝起きだからなのか柳には分か

          小説無題#14メキシコ料理店

          小説無題#13過去の記憶

           美幸は小さな頃から泳ぐのが好きだった。  中学、高校と水泳部に所属し、医大の看護科に入った後も大学水泳部で日々真面目に練習し、大会ではなかなか良い結果を残した。大学二年の夏季休暇でダイバーのライセンスを取得してからは海に潜るようにもなった。そこで美幸はこれまで見たこともない様な美しい景色と海中を漂う大量の海洋プラスチックを目の当たりにしたのだという。その頃から美幸は環境保護活動を熱心に取組み始めた。  その頃柳は美幸と既に交際関係にあったのだが、事ある毎にその活動の手伝いを

          小説無題#13過去の記憶

          小説無題#12ディープブルーの存在ついて

           田中が去った後、柳は三本目の煙草を吸った。とても不味い煙草だ。柳は自分でも予感した通り既にトラブルに巻き込まれつつあるようだ。柳はつけたばかりの煙草を灰皿に投げ喫煙所を後にした。相変わらず外は清々しく晴れ渡っていたが、今となってそれは嘘のように見える。ターポリンシートで作られた張りぼての青空を破くと、その向こう側に先の見えない闇が広がっている。そんな気がした。    柳はゲートラウンジのソファに座ってしばらくじっと考え込んでいた。奥村弁護士に電話をかけようか悩んだ末、正直に

          小説無題#12ディープブルーの存在ついて

          小説無題#11ハンチング帽の男

           電車に乗った後も動悸が収まることは無かった。今頃店主の死体が発見され、中年女性は警察に通報しているに違いない。そして女性の証言から柳を重要参考人として捜査を進めるだろう。柳は品川駅で一度降り、量販店でマウンテンパーカーを買い、それまで着ていたウィンドブレイカーを脱ぎ捨てた。ズボンと靴も色味の違うものに着替え、ニット帽を脱ぎサングラスをかけた。キャリーケースは宿泊先まで郵送にした。  どこまでこの変装が通用するかは分からない。なんと言っても柳は保釈中の身だ。身の潔白があったと

          小説無題#11ハンチング帽の男

          小説無題#10昨日見た夢

           前日にちゃんと用意した甲斐もあって身支度にはそれ程時間が掛からなかった。冷たい水で顔を洗い、電子レンジを使って蒸しタオルを作り、それを頭に乗せた。元々寝癖が付きやすい体質ではあったので蒸しタオルには長いことお世話になったし、それが柳にとって儀礼的な意味も含むようになっていた。特に物事の節目など重要な局面では蒸しタオルを頭に乗せる事が験担ぎの儀式と化している。実際、初めからニット帽を被るつもりだったので寝癖を直す必要はあまり無かった。しかしここ最近立て続けにおこる不気味な出来

          小説無題#10昨日見た夢

          小説無題#9真っ白な空間

           気がつくと柳は真っ白な空間に居た。その空間がどの程度の広さなのか全く検討もつかない。なんせ見渡す限り真っ白であり、かつ満遍なく光が行き届いているのか陰影も見当たらないのだ。見下ろすと自分の肉体はしっかりと確認出来る。しかし足は着地している感覚は無く身体は軽かった。試しに手足を動かすと何かしらの抵抗があり動きづらい。それはまるで水の中で動いている様だった。けれど息苦しくは無い(意識的に呼吸をしてみたが息が出来ない訳では無かった)。柳は平泳ぎの要領でくうを泳いだがその事によって

          小説無題#9真っ白な空間

          小説無題#8死と眠りの違い

           どのくらい時間が経ったのだろうか? 目を開けると辺りは真っ暗になっていた。柳は目を凝らして時計を見ると針は六時二十分を示している。もしや朝まで眠っていたのか? 柳は起き上がって窓へ寄り、目下に拡がる首都高を見下ろした。首都高速道路は交通機能が完全に麻痺している。大名行列の様な車列が下り方面へとゆっくり流れ、その始まりと終わりはここからだと見ることが出来ない。見慣れた帰宅ラッシュの風景だった。柳はほっと息をついた。良かった、昏昏と十五時間も眠り続けた訳では無いようだ。  とは

          小説無題#8死と眠りの違い

          小説無題#7クリスマス会

           柳は何時からか美幸と交際関係になっていた。何時からという明確な境界線は無いのだが、関係性が決定的となった出来事はあった。それは大学一年目のクリスマスイブの夜に開かれた『クリスマス会』だ。この会は柳と美幸との間で立案された。共通の友人達も誘う話になっていたのだが、用事があるなどの理由で誰一人集まらず一時開催を取りやめようかという話にもなった。しかし友人達の後押しもあって結局は二人きりで行う事になった。  会の当日、柳は美幸を自宅へ招いた。本当ならそれなりのレストランでディナー

          小説無題#7クリスマス会

          小説無題#6入学式の日

           柳は九州でそこそこ名の知れた高校を卒業した後、上京して都内にある私立大学の医学部に入った。実家は決して貧乏では無かったし柳自身、学校の成績も悪くなかった。そんな柳は親の強い勧めもあり、医者になることが何時からか自身にとって夢と形容出来るものになっていた。  大学の入学式の日、遅咲きの桜を横目に母親とキャンパスを跨いだ。せっかくのハレの日にも関わらず母は終始不機嫌そうに眉を寄せていた。後から聞いた話ではこの時、両親は離婚協議中だったらしい。柳は歳の離れた兄との二人兄弟で、柳が

          小説無題#6入学式の日

          小説無題#5リンスとボディソープを間違える

           柳は自分の部屋にたどり着くと、着ていた服を丸ごと洗濯機に放り込み熱いシャワーを浴びた。風呂にゆっくりと浸かるつもりでいたのだが、先程の全力疾走のせいで冷えきった体も汗をかく程に熱を持ち、それでもなお熱い風呂に入ろうなどと自分に追い討ちを掛けるような気分には到底ならなかった。  それにしてもさっきの出来事は一体なんだったんだ? 柳は髪に付けたシャンプーを泡立てながら考えた。ロシア帽の男は確かに追いかけて来た。ファミリーレストランの駐車場で柳を待ち伏せしていたのだ。しかし合点が

          小説無題#5リンスとボディソープを間違える