
「隣の部屋に咲く、小さな恋」
ぼくが彼女の姿をはじめて見かけたのは、春先のまだ肌寒い夕方だった。商店街を抜け、町外れの安いアパートが立ち並ぶ道を歩いて帰る途中、ふと隣の部屋のドアが開いて、そこに立っていたのが彼女だった。音がしたのか、彼女はほんの少しこちらを向き、柔らかい微笑みを浮かべたように見えたが、そのまま一言も発さず、ドアを閉めてしまった。
アパートの名前は「金鳳花荘(きんぽうげそう)」という。名前だけ聞けばなんとなく花が咲き乱れるイメージだが、実際には築数十年で外壁はすっかりくすんでおり、コンクリートには亀裂が走っていた。階段を登るたびにぎしぎしときしむ音がして、どこか不安を煽る。しかし家賃が極端に安かったので、高校二年の春になって実家を出たいと思っていたぼくにとっては、絶好の物件だったのだ。両親との折り合いが悪いわけではない。むしろ、ぼくには仲のいい両親がいる。しかし、親元を離れてひとりで暮らしてみたいという気持ちはずっとあった。自分の力でどこまでやっていけるか、試してみたかったのだ。
実家から近いので通学時間はあまり変わらない。けれど誰にも干渉されない生活は、想像以上に自由で、そして想像以上に不安を抱かせるものだった。ガスの開栓手続きに始まり、電気や水道の名義変更、安い家具の調達、初めての食材の買い出し——そのひとつひとつが新鮮でありながら、どこか緊張を伴う。毎日学校が終わってからバイト先のコンビニへ直行し、閉店作業を終えて深夜に帰宅する。そんな日々を続けていると、心がざわざわと落ち着かないのだ。
最初に彼女の存在をしっかりと認識したのは、ぼくが夜中のバイト帰りで廊下の電気が消えかかっているときだった。電球は古く、センサー式ではなくタイマー式らしく、階段をのぼりきる頃には豆電球程度の明かりしか残っていない。その薄暗い廊下を、彼女は小学生くらいの子どもの手を引きながら歩いていた。そのときも、やはりぼくを見て少し笑いかけたように感じた。挨拶しようか迷ったが、相手には子どもがいたし、何よりこちらから声をかける勇気がなかった。躊躇しているうちに部屋のドアがそっと閉まる。ぼくはその残り香のような余韻を感じながら、自分の部屋のドアを開けた。
ぼくの住む部屋は二階の奥まった場所にあって、狭いワンルームだ。間取りは六畳とキッチン、バストイレ付きとはいえユニットバス。壁も薄い。深夜に隣室の音が聞こえるときもある。あの日もまた、ドア越しにかすかな話し声が聞こえた。女性と小学生くらいの子がなにやら笑っている。その笑い声は暗い廊下に響くようで、ぼくは少しだけ心が和んだ。
翌朝、学校へ行く支度をしていると、また廊下から話し声が聞こえた。どうやら子どもを送り出すタイミングなのだろう。部屋の扉に耳を澄ませると「はい、行ってらっしゃい」という彼女の声がかすかに届く。ひどく優しそうな声だった。ぼくがこっそり扉を開け、廊下へ顔をのぞかせると、そこには見送り終えた彼女の姿があった。
「おはようございます」
不意に彼女が声をかけてきた。黒い髪を肩より少し長めに伸ばし、清潔感のある服装。その指先にはスーツケースのようなキャリーバッグが見えた。
「あ……おはようございます」
ぼくも慌てて返事をする。近づいてよく見ると、彼女は少し疲れた表情をしていたが、その瞳の奥には柔らかな輝きがあるように感じた。
「夜遅くまでアルバイトしてるんですよね? いつもお疲れさま。大丈夫? ちゃんと眠れてる?」
唐突にそんなふうに心配されて、ぼくは面食らった。しかしそれが嫌な感じではなく、どこか母性的な安心感を伴う声掛けだった。
「ありがとうございます。なんとか……慣れてきました」
それしか返せなかった。彼女は小さくうなずくと、「何かあったら声をかけてね、私、この隣の部屋だから」と言って、笑った。
その日の学校生活は、普段とまったく変わらなかったはずなのに、ぼくの心だけは落ち着かないままだった。あのときの柔らかな声色、そして控えめな笑顔が頭の中をぐるぐる回って離れない。帰宅後、アルバイトに向かうまでの短い時間を使い、ほんの少し料理の練習をする。といっても玉子焼きを焼く程度だが、油の量を失敗し、黒焦げにしてしまった。
結局その日は忙しく、隣の部屋の彼女と顔を合わせることもなく、帰ってきたら日付が変わっていた。アパートの中はしんと静まり返っている。彼女の部屋からは物音ひとつしなかった。
一人暮らしの孤独と、かすかな支え
時間がたつにつれ、新しい生活の緊張感は少しずつ薄れ、大学ノートに家計簿をつける習慣や、休日にはまとめ買いをする、といった「生活の型」が身についてきた。料理はまだまだ下手だけれど、なんとか卵を焦がさずに調理できるようになった頃、ぼくは隣に住む彼女の事情を少しだけ知ることになる。
廊下で時々会釈を交わすうちに、彼女が「海外出張中の夫」がいる既婚者であること、そしてまだ小学生の子どもがいることがわかった。小学生の子は普段は夫の実家がサポートしてくれていて、しかし夫が長期不在になるときは実家だけに頼りきれないため、この安いアパートで暮らしながら子どもも一緒に学校へ通わせているのだそうだ。
子どもを寝かしつけた後は、彼女自身も夜中まで仕事をしているという。「通訳や翻訳の在宅ワーク」がメインらしく、昼間はバタバタと子どもの世話をしながら仕事も進めているらしい。経済的に大変だ、と愚痴めいたことは言わないが、長期の海外出張を続ける夫にはなかなか相談できないようだった。
「本当はもうちょっと快適なマンションとかに住みたいんだけどね。でも、今は貯金の時期なの。一人でやっていくためにも、慣れておかないとね」
彼女がそんなふうに話してくれたのは、ある日、ぼくが廊下で鍵をなくして困っていたときだ。彼女は「合い鍵、大家さんに一応持ってもらってるはずだよ。連絡してみようか?」と親身になって心配してくれた。ほんのささいなやりとりだったけれど、そこには確かにあたたかな思いやりがあった。ぼくは彼女を「母性がある人だな」と感じたが、不思議と心はそれだけに収まらない。自分でも意識しないまま、彼女の髪の揺れや、優しい声のトーン、さりげなく伸びたまつげの影にドキッとする。相手は既婚者であり、子どももいる。ぼくはまだ未成年の高校生だ。そんな「理屈」は頭の中で警鐘を鳴らすように響いているのに、胸の奥には彼女をもっと知りたいという気持ちが膨らんでいく。
自分でもどうにもできない感情。最初は「ただ尊敬しているだけ」「優しくしてくれるお姉さんみたいな人だから」という言い訳をしていた。だが夜、布団の中でふと彼女の笑顔を思い出すと、息が詰まるような熱い衝動が胸を満たすのだ。それがいわゆる「恋」というものなのかどうか、はっきりと言葉にはできない。ただひたすら、この不可解な感情に翻弄されていた。
幸福の香りと、彼女の存在
そんなある日曜日、珍しくぼくはバイトの休みをもらっていた。天気の良い休日だったが、特に予定もなかったので部屋でごろごろしている。お昼前、カーテンのすき間から見える空があまりにも青くて、なんとなく外に出ようと決めた。そのとき、廊下に出たら、ちょうど彼女も部屋の扉から顔を出したところだった。
「あら、今日はお休み?」
彼女が少し驚いたように目を丸くしている。ぼくが「はい、久しぶりに……」と答えると、彼女はエコバッグを片手にくすっと笑った。
「よかったら一緒にスーパー行かない? 車で行くところがあるんだけど、歩きだとちょっと遠いのよね」
彼女の誘いはあまりに自然で、ぼくも断る理由が思いつかなかった。むしろ胸が高鳴った。
「あ……いいんですか?」
「もちろん。ちょっと運んでほしいものもあるし。子どもは今日は実家で遊んでるから、私一人だと荷物が重たくて」
彼女はパートタイム用に借りている小さな軽自動車をアパートの敷地に止めている。助手席に乗り込むのは初めてだった。車内には淡い柑橘系の芳香剤の香りが漂っていたが、それ以上に感じたのは、彼女がいつも纏っている柔軟剤の匂い。隣でハンドルを握る彼女の横顔に、どうしようもなく胸が締め付けられる。
「ちょっと遠いんだけど、品ぞろえがいいスーパーがあってね。あそこだと野菜が安いのよ」
そう言いながら微笑む彼女。結婚指輪がはめられた指が視界に入るたび、ぼくの心は複雑な疼きを覚える。それでも、この時間が続けばいいと願ってしまう自分がいる。平日はぼくも学校とバイト、彼女も家事と在宅仕事で忙しい。だからこそ、こうして二人で出かけるというシチュエーション自体が特別に感じられた。
車の中で流れていたラジオからは、一昔前のアイドルソングが流れ、彼女は口ずさんでいる。ぼくはその歌を知らなかったが、彼女が少し照れくさそうに「ごめんね、つい口ずさんじゃった」と言う姿がなんだか可愛らしくて、どう返事をしたらいいかわからなくなった。
スーパーでは、カートいっぱいに野菜や日用品、洗剤などを詰め込み、ぼくも手伝う。会計を終えて駐車場に戻るとき、彼女はふと「ありがとう。すごく助かった」と顔をほころばせた。その笑顔を見ると、ぼくは「いつでも声かけてください」なんて大人びた言葉を口にしてしまう。
「じゃあ今度、恩返しってわけじゃないけど、夕飯でもごちそうするわね。あなたはバイトもあるし忙しいだろうから、都合の合うときでいいわ」
彼女の言う「夕飯をごちそうする」という響きに、ぼくの心は大きく揺さぶられた。家に上がり込んで二人きりで食事、そんな状況を想像してしまうだけで、いけないことをしている気分になる。相手は既婚者で、子どももいる女性。理性が「やめとけ」と警告を発しているようだったが、その魅力に引き寄せられている自分を止められない。
風鈴と夏の到来
季節は初夏から夏へと移り変わっていった。部屋を締め切っていると熱気がこもるので、窓を開け放していると、隣の部屋からカランコロンという風鈴の音が聞こえる。アパートの周りにはそうした風雅を楽しむ余裕のある家はあまりないのだが、彼女がどこかで買ってきたのだろう。おそらく子どものためかもしれない。昼下がりにはガラスの風鈴が涼やかな音を奏でる。その音に耳を傾けていると、不思議と心が落ち着くのだ。
しかし、ぼくは気づけばその音を待つようになっていた。学校の帰り道、バイトがない日はわざと寄り道せずにアパートへ直行する。風鈴の音が聞こえてくると、彼女の気配を感じ取れるような気がして、なんとなく幸せな気分になれるから。
ある土曜日の昼下がり、窓を開けたまま課題のレポートを書いていると、ドアをコンコンと叩く音がした。インターホンもない古いアパートなので、直接ノックをしに来るのだろう。ドアを開けるとそこには彼女がいた。
「今、お時間ある?」
迷い込んだ夏の陽光を背に、彼女は少し申し訳なさそうな顔で立っている。聞けば、ちょっと重い荷物を二階まで運ぶのに手伝ってほしいということらしい。もちろんぼくは「はい、わかりました」と快く答える。階段下に降りてみると、飲料水やら日用品の大きな段ボール箱が二つほど積み上げられていた。通販サイトでまとめ買いしたらしく、思った以上に大荷物になってしまったのだという。
「ごめんね。ほんと助かるわ」
そう言いながらも、彼女も一緒になって段ボールを抱えようとする。
「僕が持ちますよ、無理しないでください」
「あ、大丈夫。これくらいなら平気だから」
結局、二人で一箱ずつ運ぶことになった。階段がギシギシと軋む音が響く。彼女と並んで二階へと上がっていくそのわずかな時間すら、ぼくにとっては特別に感じられた。
箱を無事、彼女の部屋へ運び込み、入口に下ろす。小さな玄関には子どもの靴が揃えて置かれていた。
「本当にありがとうね。よかったら、お茶でも飲んでいく?」
彼女にそう誘われ、初めて隣室に足を踏み入れることになる。部屋の間取りはぼくの部屋とほとんど同じワンルームだが、子どものものやキッチン道具が整然と並び、どこかアットホームな印象を受ける。畳の上に敷かれたラグマット、その上には低いテーブルがあって、テーブルクロスには小さな花柄。やわらかい色合いのカーテンから差し込む光が部屋を暖かく照らしていた。
「散らかってるけど……どうぞ」
そう言いながら、彼女は部屋の中をぱたぱたと片づけはじめる。洗濯物らしきものは目に入らず、むしろ綺麗に整理されていて、主婦の底力を感じる。ぼくは玄関で靴を脱ぎ、そっと中へ入る。
彼女は急須とお湯を用意し、ぼくの前に冷茶を出してくれた。コップ越しに目が合うと、なんとも気まずいような、でも心地よい緊張が広がる。
「……ありがとうございます。いただきます」
冷たい茶を口に含むと、喉が潤される。さっきまで外は炎天下だったし、大きな段ボールを抱えて汗をかいていたから、その冷たさが体にしみわたるようだ。
「なんか、いつも助けてもらってばっかりね。困ったことがあったら遠慮なく言ってね。お礼するから」
「そ、そんな、僕は全然……。むしろこうしてお茶もらってありがたいです」
彼女はふっと笑みをこぼす。ゴクンと唾を飲み込む自分の音まで聞こえそうな沈黙が、数秒流れた。
「……そういえば、ご飯をごちそうするって言ってたけど、今日の夜はバイトかな?」
それを聞いて、ぼくの胸は跳ねるように高鳴った。
「今日は休みなんです」
「じゃあ、良かったら夕飯を食べていって。こっちも子どもが帰ってくるし、あまりごちそうという感じじゃないかもしれないけど」
もちろん「行きます!」と即答したい気持ちはあった。でも、彼女に失礼にならないか、一瞬逡巡してしまう。
「……いいんですか? お子さんもいらっしゃるのに、ぼくがいたら邪魔かなって」
「そんなことないよ。せっかくお手伝いしてくれたんだもの。私だって、あなたに感謝してるし、子どももきっと喜ぶよ。あなたがうちに来てくれれば、子どもだって話し相手が増えて嬉しいと思う」
彼女の言葉に、断る理由は見当たらなかった。むしろ心は高揚し、「一緒に夕飯を食べられる」という事実だけで、世界が明るく色づくように感じられた。
初めての隣室での食卓
夕方、彼女が買い置きしていた食材を使って食事を作りはじめる頃、彼女の子どもが実家から戻ってきた。小学校四年生だと聞いていたが、とても人懐っこい子だ。最初は「だれ?」と警戒気味だったが、母親である彼女が「いつも手伝ってくれるお兄ちゃんだよ」と紹介すると、すぐに打ち解けてくれた。
「ねえねえ、お兄ちゃん、今何年生? え、高校二年生? 野球部? サッカー部?」
子どもらしい好奇心で矢継ぎ早に質問をしてくるのを、ぼくはなんだかくすぐったい気持ちで受け止める。子どもが楽しそうにしているのを見て、彼女も嬉しそうに笑う。その笑顔を見るだけで、ぼくの心は満たされていく。
食卓には彼女が手際よく作った家庭料理が並んだ。味噌汁、焼き魚、ほうれん草のおひたし、そして卵焼き。どれも素朴だけれど、栄養バランスがしっかり考えられている。子どもは「ママの卵焼き、すっごく美味しいんだよ!」と自慢げに言う。
「いただきます」
ぼくは子どもと一緒に手を合わせてそう言い、箸をつけた。口に入れた瞬間、やさしい甘さが広がる卵焼きと、だしの効いた味噌汁がまるで家庭の味の象徴のようで、ぼくは泣きそうになる。もちろん実家でも母親の作るご飯は食べてきたが、ひとり暮らしをはじめてからこんなに「ちゃんとした家庭の料理」を食べることがなかった。
「美味しい……です」
ぼくが思わず漏らした言葉に、彼女は少し頬を紅くして笑った。そういう照れた表情をするんだ、と新鮮に感じる。一方、子どもは「でしょー」と得意気に頷いている。
食事のあとは、子どもと一緒に簡単なゲームで遊んだりした。子どもも飽きないよう、学校のことや好きな漫画のことなどいろいろ質問してくる。彼女は「もう少し勉強しなさいよ」と言いながらも、楽しそうに二人を眺めている。こんなひと時がずっと続けばいいのに、とさえ思う。
夜も更けてきて、そろそろぼくが自分の部屋に戻ろうかという頃、彼女は子どもを先に布団へ行かせた。玄関先で「今日はありがとうね、またいつでも来て」と言われ、ぼくはどぎまぎしながら部屋を出る。もう隣なのに、なぜか帰り道が遠く感じる。廊下を歩く数歩の間に、嬉しさと後ろめたさ、奇妙な高揚感が入り混じる。
ドアを開けて、自分の部屋の暗さに包まれた瞬間、あまりの静けさに戸惑った。隣の部屋で感じた温かさが、ここにはない。しかし、これがぼくの「ひとり暮らし」の現実なのだと、妙に納得した。
ゆれる心と遠い存在
翌週からは学校の定期テストが始まり、バイトも休みを減らせず、慌ただしい日々が続いた。次に彼女とまともに顔を合わせたのは、テスト期間が終わって少し落ち着いた頃、夜のコンビニバイトの帰り道だった。
ぼくがアパートに着くと、彼女が階段を降りてきたところだったらしく、思わず顔を合わせる。
「あら、お帰りなさい。遅かったね。今日もバイト?」
いつもの優しい笑顔で迎えてくれる。ぼくは心に溜めこんでいた想いが一気にあふれ出しそうになるのをこらえながら、なるべく平静を装う。
「はい、今日は残業みたいなものがあって……」
「そう。お疲れさま。ちゃんとご飯食べた? 無理しすぎないようにね」
その「気遣い」が、時に心を締め付ける。彼女が見せる優しさは「大人としての母性」なのだと思うときもあるし、その一方で、どこか「一人の女性」としての微かな色気を意識してしまう瞬間もある。自分の年齢を考えれば、こういう恋心は望ましくないのかもしれない。それでも、気づいてしまったからにはどうしようもない。
「はい……ありがとうございます。あ、そうだ、どうしてこんな遅い時間に……?」
「あ、ちょっとコンビニに行こうと思って。アイスクリームが食べたくなったの」
彼女はそう言って照れくさそうに笑う。この時間にアイスクリームを買いに行く——そんな些細なことも、彼女がすると妙に可愛らしく映る。
「そっか。気をつけて、行ってきてくださいね」
「うん。おやすみなさい」
彼女のスカートの裾が階段の踊り場でふわりと揺れるのを見届けると、ぼくは自分の部屋のドアを開け、暗い部屋へと足を踏み入れた。少し前までは感じなかったはずの孤独が、今は強くのしかかる。
部屋の灯りをつけ、鞄を床に置き、制服をハンガーにかける。食事はコンビニで済ませてきたけれど、やはり家の中で何か温かいものを欲している自分に気づく。冷蔵庫を開けてもたいしたものは入っていない。思い切ってシャワーだけ浴びてベッドに潜り込むと、彼女の笑顔や声が頭から離れない。
「……会いたいな……」
そう呟いてから、自分で顔が赤くなる。まるで子どもっぽい片想いだ。でもその気持ちは日に日に強まっているのだから、もうどうしようもない。
夏休みと、短い逢瀬
やがて夏休みが訪れた。高校生にとっては部活や宿題で忙しい時期でもあるが、ぼくの場合、部活は入っていないのでバイトと宿題がメインだ。昼間はエアコンもつけずに部屋で宿題を進め、夕方からはバイトに出る生活。そんな中、彼女の子どもは夏休みを利用して夫の実家にいることが多いらしく、彼女も在宅の仕事に集中しているという噂を廊下で立ち聞きした。
ある昼下がり、ぼくがコンビニバイトのシフトに行く前にアイロンがけをしていると、隣のベランダから「バサッ」という音が聞こえた。どうやら洗濯物を取り込もうとして落としてしまったらしい。ぼくがそっとベランダから身を乗り出すと、彼女も気づいて「ごめんね、ちょっと洗濯物が落ちちゃって!」と声をかけてきた。
結局、落ちた洗濯物は下の階のひさしに引っかかっていて、ぼくがベランダから身を乗り出してなんとか拾い上げることに成功。やや危険ではあったけれど、手伝わずにはいられなかった。
「ありがとう、助かったわ。怪我しなかった?」
「大丈夫です。そんなに高くないし……」
彼女はホッとしたように笑みを浮かべる。その笑顔を見た瞬間、ぼくはたまらない衝動に駆られた。「ちゃんと気持ちを伝えたい」と、理屈ではなく感情が先に走る。
「……あ、あの、ちょっと今時間ありますか……?」
「時間? うーん……あと30分くらいなら大丈夫かな。お昼休憩みたいなものだし」
気づけばベランダ越しに、二人だけの空間が生まれていた。下の階の住人も留守のようで、セミの鳴き声が遠くに聞こえるだけ。
「……よかったら、少しだけでいいんで、お話ししませんか」
自分でも何をどう話すのか整理がつかないまま言葉が出ていた。彼女は少し驚いた顔をしたが、「いいよ」と頷いてくれた。
それから、ベランダに腰かける形で、隣同士で話し始める。冷たい麦茶を二人で飲みながら、どうでもいい日常のことを語り合う。エアコンの話、洗濯の話、子どもの勉強の話。そんな取り留めもない会話を交わすうちに、ぼくの胸の高鳴りはおさまるどころか強くなる。自分の気持ちを伝えようか——だが、その前に彼女がぽつりと呟いた。
「ほんと、不思議な縁だよね。こんな安いアパートでまさか近所の高校生と仲良くなるなんて、思わなかった。あ……ごめん、なんか変な言い方しちゃって」
「いえ……。……僕は、嬉しいです」
彼女の瞳が夏の陽に照らされて、キラキラと輝く。その美しさに、ぼくは一瞬息を呑む。背徳感を覚えながらも、どうしようもなく惹かれている。
「……あの、伝えたいことがあって……」
言葉を選びかけたところで、彼女のスマホが振動し、着信音が鳴る。
「あ、ごめんね。仕事の電話かも」
彼女は立ち上がって部屋の中へ戻り、電話に出る。そうだ、当たり前だ。彼女には仕事も、子どもも、そして海外にいる夫もいる。ぼくが一瞬でも「告白」なんて考えたのは、あまりにも身勝手だったかもしれない。
電話を終えた彼女が再びベランダに戻ってきたとき、ぼくはもう何も言い出せず、空笑いでごまかした。彼女も「ごめんね、急ぎの要件で……」と申し訳なさそうにしている。
「いえ、気にしないでください。僕、そろそろバイトの時間なんで」
会話の続きは、結局そこで途切れた。ぼくは心に渦巻く想いを抱えたまま、バイト先へ向かう。
夕立と涙のような雨
夏も終盤に差しかかる頃、急な夕立が増えてきた。真っ暗な雲が一気に広がり、激しい雨がアパートの屋根を叩く。そんな夕立の日、バイト先から帰ろうと外に出ると、傘が役に立たないほどの横殴りの雨に見舞われた。なんとかびしょ濡れでアパートへたどり着き、階段を駆け上がって自分の部屋へ戻る。
玄関で靴を脱ぐと、足元から水が滴る。ここ最近は、彼女と顔を合わせる機会がめっきり減っていた。彼女も子どもの夏休みが明けるまで忙しいらしく、ぼくもバイトを増やして貯金をしたいという思いがあったためだ。
シャワーを浴びて一息つき、何気なく携帯をチェックすると、LINEに彼女からメッセージが届いていた。
「雨、大丈夫? もし風邪ひきそうならタオルとか貸すから言ってね」
短い一文。だけど、胸が温かくなる。ぼくはありがとうとだけ返事をした。すると、少し間をおいてまた返信がきた。
「もしお腹減ってたら、カレーがあるけど食べる?」
そう言われると、実は腹ペコなのだった。バイト先で軽くパンを食べただけで、雨に打たれてすっかり体力も奪われている。
「お願いします」
ぼくはそんな素直な返信を送ってしまう。そして、ずぶ濡れの髪をタオルでざっと拭きながら、隣の部屋へ向かう。
インターホンもノックもない古いアパートなので、ドアの前で「すみません、来ました」と声をかけると、ドアがそっと開いた。中から漂ってくるスパイシーで甘いカレーの香りが、胃袋を刺激する。
「どうぞ、あがって。お風呂は入った?」
「はい、ざっとシャワー浴びてきました」
「そっか。よかった。風邪ひいちゃ困るもんね」
部屋の中では、子どもが夏休みの宿題を広げていた。「やだーお兄ちゃんくるの? ぼくの宿題手伝って!」などと元気よく言ってくる。彼女は苦笑いしながら「自分でやりなさい」と嗜めるが、ぼくは喜んで少しだけ手伝ってあげた。
そのあと、キッチンで用意してくれたカレーを一口食べると、スパイスの香りと野菜の甘みが程よくマッチしていて、とても美味しかった。雨音の中で食べる温かい食事は、心を落ち着かせる。あの夕立の苛立ちや不安がすうっと溶けていくようだ。
「ほんと、美味しいです」
「ありがとう。たくさん食べて、元気つけてね」
子どもが「ずるいー、ぼくの方が食べるの早いのに」と文句を言いながらおかわりをする。彼女は「はいはい」と笑顔で応じて、鍋からカレーをよそってあげる。ぼくはそれを横目で見ながら、なぜだか涙が出そうになる。
「家族」という温かさがそこにはあった。彼女の家庭にはもちろん夫がいる。海外にいる夫の帰国はまだ先らしい。子どもと二人きりで頑張っている。でも、少なくともここには母と子の絆が存在しているのだ。ぼくはその世界に、ほんの少しお邪魔させてもらっているだけ。
食事を済ませて、子どももまた宿題に戻る。ぼくも「それじゃあ、今日はありがとうございました」と帰ろうとすると、彼女がふいに言った。
「……なんだか、あのね。あなたがこうして時々うちに顔を出してくれるの、私の方こそ救われてるのよ。夫がいないと、やっぱり不安になったり、心細かったりすることもあるし。あなたは若くて元気があるし、何より話していて落ち着くのよ」
その言葉に、ぼくは胸を締め付けられる。「あなたといると落ち着く」という一言が、まるで甘い毒のように体の中を回っていく。ここで「好きです」と言葉にできたなら、どんなに楽になるだろう。でもそれは、彼女を困らせるだけかもしれない。
「僕も……助けてもらってます。だから、少しでも恩返ししたいっていうか……」
そう言ったまま、ぼくは何も付け加えられなかった。言葉にしてはいけないことがある。自分と彼女の立場を考えれば、それが一番わかっているのに、心は揺れ続ける。
秋の足音と、遠ざかる気持ち
夏休みも終わり、セミの鳴き声から秋の虫の音へと変わる頃。ぼくの高校は文化祭シーズンに突入し、クラスメイトたちは準備に追われていた。ぼくも実行委員を頼まれ、放課後に学校に残ることが増える。バイトもあるし、睡眠時間は削る一方だ。それでも若さなのか、なんとか体がもっている。
アパートに帰るのが遅くなり、彼女と顔を合わせる機会もめっきり減ってしまった。彼女も在宅ワークや子どもの学校行事などで忙しいらしく、廊下で会っても「おはよう」「お疲れさま」と挨拶する程度だ。
そんなある夜、ぼくが遅くに帰宅すると、ちょうど隣室のドアが少し開いていて、中から声が聞こえた。どうやら電話中のようだ。子どもの寝息も聞こえないから、子どもは実家に預けているのかもしれない。
「……そうだね、うん、そろそろ帰ってきてもいいんじゃないかな……ううん、別に怒ってるわけじゃないよ。ただ……そう……そうだね……」
言葉から察するに、夫と電話しているのだろう。特に盗み聞きするつもりはなかったけれど、ドアの隙間から聞こえてくる彼女の声が、なんだか沈んでいるように感じた。
「……私も早く会いたいよ。子どもも、パパに会いたがってるし……」
そう呟いた直後、彼女はドアの向こうで小さくため息をついたのか、苦しそうに息を飲み込む音が聞こえた。ぼくは思わずその場に立ち尽くす。彼女が夫のことを想う声。ぼくはそれを聞いて、心の中に強い嫉妬が湧いてくると同時に、自分の存在が無力に思えて仕方なくなる。
そっと足音を忍ばせて自分の部屋へ入り、ドアを閉める。布団に倒れ込んでも寝つけず、ぐるぐると感情が渦巻いた。彼女が夫に対して感じている切なさ、寂しさ、愛情——ぼくには踏み込めない領域だ。これでいいのだとわかっていても、もはや引き返せないところまで自分の気持ちは来てしまっている。
遠回りな視線と、一瞬の交錯
文化祭の準備で休日返上の日が続き、ぼくはろくに部屋でくつろぐ時間もなかった。そんなある日の夕方、ようやく少し早めに帰宅すると、珍しく彼女と子どもがアパートの前でタクシーを待っているのを見かけた。大きなスーツケースがひとつ。どうやら実家へ行くか、あるいは夫の実家へ行くのだろう。
彼女はぼくを見つけると微笑み、「やっほー、お疲れさま」と手を振る。子どもも「あ、お兄ちゃん!」と駆け寄ってくる。
「こんにちは。これからどこか行かれるんですか?」
「うん、ちょっと夫の実家へ。向こうで用事があるみたい。あ、そうだ、よかったらこれ、持っていってくれない?」
そう言って手渡されたのは、子どもが食べ残したお菓子の箱や、使い切れなかった野菜など。どうやら冷蔵庫を整理しているうちに余ったものをぼくにあげようとしているらしい。
「ありがとうございます。助かります……」
彼女は「こっちこそ、いつも手伝ってもらってるし」と笑う。その笑顔に、ぼくは胸がいっぱいになる。だけど、スーツケースを横目に見ていると、彼女がどこか遠くへ行ってしまうような気がして、たまらなく不安になる。
結局、タクシーが到着し、彼女と子どもは乗り込んでいった。後部座席から手を振る子どもの笑顔の横で、彼女もまた穏やかな笑顔で手を振ってくれる。タクシーがゆっくり走り去るのを見送って、ぼくはしばらくアパートの前で佇んだままだった。
「……帰ってくるよな」
そう自分に言い聞かせるように呟いてから、部屋へ戻る。今さらながら、彼女がいつかアパートを出ていくかもしれない未来が頭をよぎる。あくまで夫が海外出張の間の住まい。いずれは一緒にどこか別の場所で暮らすかもしれない。そう思うだけで、心がかき乱される。
冬の足音と、ささやかな再会
文化祭が終わり、秋が深まると、ぼくは受験生に向けての準備や学校行事が重なって気が休まらなかった。そんな中、彼女は夫の実家にしばらく滞在していたようで、アパートの隣室は空き家のようになっている時期が続いた。
「帰ってこないのかもしれない」——そんな不安が頭を過ぎるたび、胸が苦しくなる。でも、どうしようもない。メールアドレスやLINEを交換しているわけでもなく、彼女の連絡先を深く知らないぼくには、心配することすらできない。ひとりで夜道を帰ってきて、廊下を通るたびに、隣のドアを横目で見てしまう。そして暗い部屋の扉を確認しては、ため息をつく日々だった。
やがて11月の初め、風が冷たくなりはじめた頃、ふと隣の部屋の前を通ると、ドアが開いていて、中から慌ただしく荷物を運び込む姿が見えた。彼女と子どもの声がして、ぼくは思わず立ち止まる。
「……あ、ただいま。ごめんね、急に戻ってきちゃって」
彼女と目が合ったとき、ぼくの胸は高鳴りを抑えられなかった。何日ぶりだろう。彼女は少し痩せたように見える。疲れた顔をしているが、やはりそこには優しさがにじみ出ていた。子どもは「お兄ちゃん、久しぶり!」と元気に手を振る。
「お帰りなさい。……よかった、帰ってきてたんですね」
ぼくはそのまま素直な言葉を口にしてしまった。彼女は少し驚いたように目を開き、それから表情を和らげる。
「うん。ただいま。夫の実家の用事が長引いちゃって、なかなか戻れなくて……でもあまり長くお世話になるのも気まずくてね」
子どもを学校に通わせるため、やっぱりこのアパートが拠点になるらしい。ぼくはその事実に安堵する。
「荷物、運ぶの手伝います」
「ありがとう。お願いしちゃおうかな」
そう言って、一緒に段ボールを部屋に運び込む。夏に比べると空気は乾燥し、手先がかじかむ。だが、彼女がそばにいるというだけで、なんだか心は温かくなる。
すれ違う不安と、冬支度
冬が深まってきて、アパートの古い建材から隙間風が吹き込むようになった。ぼくはバイトで稼いだお金で電気ストーブを買い、何とか暖をとっている。彼女の部屋からもファンヒーターの音が時々聞こえる。
年末が近づき、学校も冬休みに入る。冬休み明けには受験生としての準備が本格的になるので、今のうちに少しでも勉強しておきたいと思いつつ、年末年始はバイトで稼げる時期でもあるから、シフトを増やしている状態。さすがに体力的にきつく、部屋に戻るとそのまま眠り込む日が続いた。
彼女とあまり顔を合わせなくなったのは、その生活リズムのすれ違いも大きい。朝はぼくがまだ寝ているうちに子どもを送り出し、夜はぼくがバイトで帰ってくるころには子どもと一緒に就寝しているのかもしれない。何度か廊下で気配を感じたが、タイミングが合わず話す機会を逃してしまった。
そんなある晩、バイト帰りに廊下の電気が切れていた。真っ暗な中、アパートの古い階段を上がると、二階廊下の奥にある小さな蛍光灯も点いていない。月の光を頼りにぼくがドアノブを探していると、隣の部屋のドアがすっと開いた。
「あ、あなた? おかえり。電気、やっぱり切れてるよね……」
そこには彼女が立っていた。パジャマ姿で、手には懐中電灯。
「お疲れさま。危ないから気をつけてね。もしかして遅いから、帰ってこないのかと思ってた」
「すみません、バイトが忙しくて……」
久しぶりにちゃんと顔を見て話せた。薄暗い懐中電灯の光に照らされた彼女は、なんだか儚げに見える。
「体、大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
いつもの優しい声かけ。ぼくは、それだけでどっと疲れがとれたように感じた。
「正直、あんまりちゃんと食べてないかも……でも大丈夫です」
そう答えると、彼女は少し眉をひそめる。
「もう、無理しちゃダメだよ。あなたが倒れたら大変なんだから……」
その言葉に胸が詰まる。「あなたが倒れたら大変」という言い方は、彼女にとってぼくの存在が少しは大きくなっているのかもしれない、という期待を抱かせる。
「ありがとうございます。……あの、近々、少しゆっくり話しませんか」
自然とそんな言葉が出てきた。彼女は意外そうな顔をしたが、すぐに微笑んでくれた。
「そうね。年末年始はちょっとだけ余裕があるかも。子どもが実家に泊まりに行く日もあるし……そのときなら少しゆっくりできるかな」
闇夜の廊下で交わされた小さな約束。その一言が、胸を熱くした。
大晦日の夜に
年末。大晦日になって、ぼくはようやくバイトから解放され、部屋でのんびりテレビを見ていた。実家には帰らないのかと何人かに聞かれたが、なんとなくこのアパートで年を越したい気分だった。初めての「ひとり暮らし」で迎える大晦日。コンビニでそばを買ってきて食べようかな、と思っていると、ノックの音がした。
ドアを開けると、彼女がそこにいた。
「子どもが実家に行ったの。今日あたり、あなたも部屋にいるかなと思って……よかったら一緒に年越しそば、食べない?」
一瞬、心臓が止まりそうになった。隣の部屋で、年越しそばを食べる。二人だけで。
「……いいんですか?」
「いいに決まってるでしょ。今日は忙しくないんでしょ?」
「は、はい。大丈夫です」
彼女の部屋に入ると、少し飾りつけが変わっていた。テーブルの上には小さな年末の飾りが置かれていて、テレビでは年末特番が流れている。
「年越しそばっていっても、そんな大したものじゃないのよ。乾麺を茹でて、ネギと天かす載せるくらいだけど……」
「それでもすごく嬉しいです」
彼女はエプロンをつけ、キッチンでそばを茹で始める。ぼくはただテレビを眺めるふりをしながら、彼女の後ろ姿に目を奪われていた。
お湯が沸騰する音、そばが茹で上がる湯気の匂い。やがてテーブルに運ばれた丼には、温かいだしの香りが広がっている。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
「ありがとうございます。いただきます」
年越しそばを二人ですする音が部屋に響く。テレビからは賑やかな年末番組の声が聞こえるけれど、この小さなアパートの一室は、まるで時間が止まったように感じる。
そばを食べ終わると、少しほっとしたような表情で彼女が口を開いた。
「……今年一年、いろいろあったなあ。海外に行ってる夫もまだ帰ってこないし、子どものこともいろいろ大変で。だけど、あなたがいてくれて本当に助かったよ」
「いえ、ぼくの方こそ……隣に誰もいないとき、ほんとに心細かったんで。おかげさまで、こうして無事に年越しできます」
言葉にしきれない想いが募る。このまま素直に「好きです」と言ってしまえば、どんな反応が返ってくるのだろう。
カウントダウンまであと数分。テレビでは大晦日特番が佳境を迎え、人々のカウントダウンコールが始まりかけている。彼女はテレビ画面をちらりと見て、小さく笑う。
「なんか、年末年始って苦手なの。夫がいないのに、周りは家族で一緒に過ごすじゃない? それを見ると、自分がすごく惨めに感じちゃうんだよね」
ぼくは彼女の言葉に、どう答えたらいいのかわからなくなる。寂しさや孤独を感じている。だけど、その隙間をぼくが埋めてあげることは許されるのだろうか。
「……でも、まあ。こうやってあなたが一緒にそばを食べてくれるだけで、なんだか救われた気がする。ありがとう」
気づくと、彼女の手がぼくの手の甲に軽く触れていた。思わず体が硬直する。ほんの数秒の触れ合い。でも、ぼくの心臓は耳まで響くほどドキドキしている。
「……あ、えっと……」
頭の中で言葉が渦を巻く。「好きです」「あなたと一緒にいたい」「でもそれはだめだ」そんな思いがせめぎ合い、体が熱くなる。
カウントダウンが始まる。10、9、8……テレビの画面とスタジオの声援が重なる。彼女はぼくから手を離し、少し照れくさそうに笑った。
「……あけまして、おめでとう」
0になった瞬間、彼女はぼくにそう言って微笑んだ。ぼくも「おめでとうございます……」と返しながら、その笑顔をただ見つめる。大人びた柔らかな表情に、どこか儚さが混じる。胸が苦しいほど、それが綺麗だった。
未来への一歩と、それぞれの道
年が明け、ぼくは高校三年生になる準備を進めていく時期に入った。受験や進路の話がリアルになっていく。アパートでの生活は継続するつもりだが、将来は大学へ通うなら引っ越しも視野に入れなければならない。日々の忙しさの中で、彼女との距離は少しずつ変化していた。
ある朝、いつものように廊下を歩いていると、子どもと一緒に玄関を出てくる彼女と鉢合わせる。子どもはランドセルを背負い、元気に「お兄ちゃん、おはよー!」と声を上げる。
「おはよう。行ってらっしゃい」
ぼくがそう言うと、彼女は柔らかい笑みを浮かべ、「今日もがんばってね」と返してくれる。その何気ないやりとりの温かさに、どこか切なくなる。あの年越しの夜の記憶が、ぼくの中でずっと輝いているからだ。彼女がほんの少し手を添えてくれたあの感触——あれはまるで夢のようだった。
しかし現実は動き出す。ぼくは受験勉強を本格的に始めなければならないし、彼女も海外出張を終えた夫が近々帰国するらしいという噂を耳にした。それを確かめるすべはないけれど、もし夫が帰ってきたら、彼女はどうするのだろう。元の家へ戻るのか、それともこのアパートに残るのか。
ある土曜日、ぼくが少し早めにバイトを終えて帰宅すると、彼女が部屋の前に立っていた。子どもはいないようだ。彼女は少し意を決したような面持ちでぼくを見つめる。
「……ごめん、いきなり呼び止めちゃって。でも、ちょっと話したいことがあって」
廊下で立ち話もなんだと思い、彼女の部屋に招かれる。部屋の中には相変わらず生活の気配が溢れているが、少し整理されているようにも見えた。
「夫がね……近いうちに帰ってくることになりそうなの」
予感していたことではあるが、彼女の口から直接聞くと、胸がずきりと痛む。
「そう……なんですね」
しばらく沈黙が流れる。彼女は視線を落とし、何かを言いかけてはやめるような仕草を繰り返す。ぼくは自分の感情をどう整理すればいいのかわからない。
「このアパート、どうするんですか?」
それだけがやっとの思いで出た言葉。
「……たぶん、引き払うことになると思う。夫と相談してみないとわからないけど、長期出張は終わりそうだし、子どもももう少し広い家の方がいいだろうし」
やはり、そうなるのか。頭では理解していたはずなのに、心が拒絶しているのを感じる。
「……そっか」
それ以外言葉が出てこない。彼女は唇を噛みしめ、意を決したようにぼくの目を見つめる。
「……あなたがいてくれたから、私、やってこれたの。ほんとに感謝してる。あなたはまだ高校生だけど、すごく頼りになったし、優しかった……」
その言葉は、ぼくへの「別れの言葉」のように聞こえる。伝えたいことがあるのに、それが「言ってはいけない」ことなのだと、二人ともわかっているような空気がそこにあった。
「……ありがとうございました。ぼくも……助けられました、いっぱい」
いまここで想いを告げたら、彼女は困ってしまうだろう。彼女には夫がいるし、子どもがいる。家族を大切にしなければならない。ぼくはそれを邪魔するわけにはいかない。
しんとした静寂の中、彼女はそっと手を伸ばし、ぼくの手を握る。その手は少し震えていた。ぼくも震える手でそれに応える。
「もし……あなたが大人になって、もっと違う形で出会っていたら、何か変わっていたのかな……なんてね。ごめんね、変なこと言って」
最後に、彼女はそう呟いてから、笑顔を作り、手を離した。
それぞれの春
やがてぼくは高校三年の春を迎えた。アパートでの生活は変わらず続くが、彼女が部屋を引き払う日は近づいてきたらしく、荷造りの音が隣から聞こえることが増えた。子どもはしばらくこの街の学校へ通うのかもしれないが、夫が帰国してから家族でいったん海外に行くという話もちらりと小耳に挟んだ。真偽はわからない。ただ、彼女がこの部屋を出るのは間違いないだろう。
ある朝、ぼくが玄関を開けると、ドアノブに小さな封筒がかけられていた。中には短い手紙と、キーホルダーのようなものが入っている。
「今までありがとう。これは私の好きなお守りみたいなもの。あなたの将来が素敵になるように、心から祈っています」
それだけのメッセージ。日付も署名もない。でも、彼女からだとすぐにわかった。小さなガラス細工のキーホルダーには、あの夏の風鈴を思わせるような模様が描かれている。
ぼくはそれを手のひらに包み込み、しばらく動けなかった。お礼を言いたくても、彼女はもう引っ越しの手続きで忙しいのか、姿が見えない。
それから数日後、ぼくが学校から帰ると、金鳳花荘の前に小さなトラックが停まっていた。荷物を積み込んでいる業者らしき人の姿がある。彼女はすでに出発したのか、姿は見えなかった。ぼくは胸の奥がきゅっと締め付けられるのを感じたが、もうどうにもできない。
部屋に入ると、隣の部屋から聞こえていた生活音が消えていることに気づく。壁を通して聞こえるはずのテレビの声も、笑い声ももうない。この日を境に、彼女の気配は完全に消えた。
冬も終わり、春の陽射しが差し込んでくるアパートの廊下。ぼくは玄関先で例のキーホルダーをそっと握りしめる。ガラス細工越しに差し込む光が、まるで彼女の優しい笑顔のように感じられた。
「……ありがとうございました」
小さく呟いて、ぼくは階段を下りる。高校生活最後の一年が始まる。受験勉強もあり、忙しさも増していくだろう。ひとり暮らしは続くが、部屋の壁はこれまで以上に薄く感じられるかもしれない。それでも、あの暖かな思い出はきっと胸の内に残り続ける。
外に出ると、春風が頬を撫でていった。彼女がいなくなった寂しさは大きい。けれど、ぼくは歩き出す。17歳だったあの春、ぼくは確かに「一人の女性」として彼女を愛しかけていた。母性的な優しさに惹かれた部分もあったけれど、それだけじゃない。
——きっと、いつか大人になって、別の形で誰かを好きになる日がくる。そのとき、あの隣の部屋で感じた甘くて切ない想いは、ぼくの心を支える糧になるのだろう。そう信じながら、ぼくは次の春へと足を踏み出す。
(了)
最後までお読みいただきありがとうございました。
フォローとスキをぜひ、よろしくお願いいたします。