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透明な境界の先で
赤みがかった夕陽が学校の窓を染めるころ、私はいつも後悔のような、けれど少しだけ暖かい気持ちを抱えて下校する。自転車置き場から歩きながら、今日もすれ違いで終わってしまった「先輩」の姿を思い浮かべるのだ。
私――中学二年生の遠山紗英(とおやま・さえ)は、放課後になるとまっすぐ家に帰らないことが増えた。昔は部活が終われば友達とおしゃべりをして、コンビニでお菓子を買って帰るのが好きだった。だけど、最近は部活の後に行く先が変わった。家からは少し遠い大学の図書館まで、バスを乗り継いでわざわざ通っているのだ。
その大学は私の家の近所ではない。だからもちろん、同じ学校の誰かと一緒になるわけもない。ときどき、父や母から「そんなに本が好きなの?」と呆れられることもある。だけど私が通っている理由は、「本を読むのが楽しい」から――ではない。その大学には、私が“先輩”と呼び慕う大学生――名前を、私は「リク先輩」と呼んでいる人がいるからだ。
リク先輩は、父の会社の同僚の息子さん…と私は最初、両親から聞かされていた。「面倒見のいい大学生のお兄さんがいるらしいよ」と父が言っていたので、勝手に「背が高くてクールな人なんだろうな」と想像していた。お正月に家族で挨拶をしに行ったときが、私とリク先輩が初めて顔を合わせたときだった。
けれど、初対面の日――私は予想をいい意味で大いに裏切られた。リク先輩は穏やかな笑みを浮かべていて、人当たりのいい声で挨拶してくれた。どちらかというと華奢な体格で、身長だってそれほど大きいわけではない。でも、不思議と“かっこいい”と感じさせる雰囲気の持ち主だったのだ。その日は言葉をほとんど交わせなかったけれど、どうしてだろう、胸の奥が温かくなって、やけにドキドキしたことだけを覚えている。
それから月日が経ち、今年、私が中学二年生になった夏休みのこと。両親が、「リク先輩がいる大学のオープンキャンパスに紗英も行ってみたら?」と言い出した。受験なんてまだ先の話だと思っていたけれど、私は“先輩”にもう一度会いたい一心で承諾した。キャンパスを歩いている間、リク先輩がとても親切に案内してくれ、その姿を横で見つめているうちに、私はもしかしたら恋をしてしまったのかもしれない…と自覚し始めた。
そこから私の大学通い(本当に正式な通学ではないけれど)が始まった。きっかけは、オープンキャンパスの後、リク先輩が「いつでも大学の図書館に来ていいよ。一般の人でも使える手続きがあるから」と教えてくれたこと。実際には、高校生以下でも提出書類さえ整えば一部閲覧が可能だ。私は書類を書いて両親にサインをもらい、大学の図書館への利用証を手に入れた。そこへ行けば、もしかしたら、また先輩に会えるかもしれない……そんな期待を胸に、私は週に何度か足を運ぶようになったのだ。
だが、肝心のリク先輩はというと、しばしば大学にいるはずなのに、なかなか会えないことのほうが多かった。理系学部に所属している先輩は実験レポートに追われる日々らしく、研究室にこもっていることも多いという。バイトもあるから、大学構内にいてもすれ違いで会えないことばかり。それでも時々、廊下でばったり出会ったり、食堂で見かけたりする。そんな些細な瞬間が、私にはかけがえのない出来事になっていた。
「なんであの人にこんなに惹かれるんだろう?」
バスの揺れに身を任せながら、いつもそんな問いが頭をかすめる。好きになった理由がはっきり言葉にできない。見た目だけではない、声だけでもない。むしろ、大学生と中学生。年の差は大きいし、共通の話題だって数えるほどしかない。だけど、私には“特別”に映るのだ。リク先輩の穏やかで涼やかな横顔、まっすぐ相手を見つめて話す姿――それらを思い出すだけで胸が高鳴る。けれど彼が私をどう思っているのかは、想像すらつかない。そうして今日も、図書館で彼の姿を探しては、少し寂しい想いをかかえて帰路についたのだった。
二
土曜日の昼下がり、私は大学の図書館で週末の宿題に取り組んでいた。日差しが強い日だったが、館内は冷房がきいていて心地よい。静寂をまとった空間は、まるで時間の流れさえもゆるやかに変えてしまうかのようだ。そんな中、私はノートを開いて問題集とにらめっこしていた。無意識に、リク先輩がやって来ないかと入口をちらちら気にしている。
「ごめん、今ちょっといいかな?」
突然、背後から聞こえた落ち着いた声に、私は驚いて勢いよく振り向く。そこにいたのは――リク先輩だった。急に近くに来られたことに動揺して、私は頬が熱くなるのを感じる。今日は白いシャツに薄手のカーディガンというシンプルな装い。少しあどけないようでいて、どこかクールな雰囲気がある。そんなアンバランスさが、先輩の魅力だと私は勝手に思っている。
「さ、紗英ちゃんだよね。久しぶりに見かけたから声をかけちゃった」
緊張して声が出ない。私はただ、コクコクと首を縦に振る。すると先輩はくすりと笑い、小声で「勉強してたんだね。頑張ってるんだ」と続けた。
「学校の宿題、ここでやってるの?」
「はい…、家だとなんだか集中できなくて」
私はなるべく平静を装って答える。先輩の匂いがふわりと漂ってきて、ますます意識してしまう。だけど、こんな風に気軽に声をかけてくれるのはすごく嬉しい。
「そっか。偉いね、ちゃんと勉強しに来てるんだ。図書館って落ち着くよね。僕も好きだよ」
にこりと微笑まれると、頭が真っ白になる。返事をしなくちゃと思いつつ、まともに文章が組み立てられない。かろうじて「はい…!」と答え、微笑み返すのが精一杯だった。
「じゃあ、もし困ってる教科があったら言ってね。大学生って言っても専門は限られてるけど、中学レベルならある程度わかると思うから」
そう言う先輩の声は、相手を思いやる優しさに満ちていた。そのとき、私の胸の奥にぼんやりしていた憧れの気持ちが、はっきりとした感情に変わった気がする。「ああ、やっぱり好きだ――」と。私を単なる“知り合いの子”としてではなく、一人の人間として丁寧に向き合ってくれる姿勢。そういうところに、私は恋をしてしまったんだ、と。
この日、先輩は「実験レポートで徹夜明けだけど」と疲れた顔をしつつ、しばらく私の隣にいて、数学の問題を一緒に考えてくれた。私がやっと問題を解けたとき、先輩は「やったね」と笑ってくれた。その笑顔を見ただけで、私はもうどうしようもないくらい嬉しくて、心臓が跳ねるような感覚を覚えたのだった。
三
それからというもの、大学の図書館で先輩に会う機会が少しだけ増えた。もちろん、先輩は忙しくていつもいるわけではないけれど、週に一度でも二度でも顔を見られる。それだけで、私の生活はずっと華やかなものになった。
ただ、そんな中でもずっと引っかかっているのが、先輩と私の間にある「年齢の差」だった。私は14歳、相手は21歳。私がいくら恋心を抱いていても、それを相手に告げるのはきっと迷惑だろうと思う。子供扱いされるのが怖いし、そもそも相手にされないかもしれない。そんな不安が、私の中で渦巻く。胸の奥がズキズキするくらい好きでも、どうにもできない距離感があるのだと痛感する。
それでも、先輩の言葉や笑顔から、ときどき優しさ以上の何かを感じ取ってしまう自分がいた。「私に対して特別なのかな」と期待しては、「いや、先輩は誰にでも優しいんだ」と打ち消す。その繰り返しだ。
ある日、図書館の片隅の席で、先輩と向かい合って勉強していたときのこと。私は控えめに聞いてみた。
「リク先輩は、なんでそんなに優しくしてくれるんですか?」
訊いた瞬間、「しまった。変なことを言ってしまったかも」と後悔し、うつむく。けれど先輩は驚いた様子もなく、少しだけ首を傾げて言った。
「うーん、紗英ちゃんが頑張ってるからじゃないかな。話しかけてきたら嬉しいし、一緒に勉強してて楽しいから」
「……ありがとうございます」
それだけの答えだった。だけど、私の中では「一緒にいて楽しい」という言葉が何度も何度も響き渡る。特別な関係というわけではないと思いつつ、やはり嬉しくてどうしようもない。胸が高鳴って、集中していた勉強の内容なんて一気に吹き飛んでしまった。
他愛ないやりとりの中、私にとってはすべてが愛おしかった。けれど、先輩が私をどのように捉えているのか、いつも曖昧なままだ。子供としての可愛さなのか、ただの後輩感覚なのか。でも、もしかしたら、ほんの少しだけ特別に思ってくれているのでは? そんな淡い期待が消えずにいる。
四
秋になり、空気が少しずつ冷たさを増しはじめた頃。私は放課後にバスを乗り継いで大学へ向かうのが、ちょっとした冒険のように感じ始めていた。同級生たちが見ることのない世界を覗いているみたいで、背伸びしている気分だ。なにより、愛しい先輩のいる場所へ足を運んでいるというだけで、胸が弾む。友達には言えない秘密のような特別感が、私をどこか浮き立たせた。
ただ、近ごろは先輩に会える日がめっきり減っていた。研究室での追い込みがあるらしく、レポートや実験が立て込んでいて、大学にいても研究棟から出られないのだという。それでも私は、先輩に少しでも会えるかもしれないと思って図書館へ通う。おかげで読書量や勉強量は増え、テストの成績も前より少しだけ良くなった。喜ぶ母を見て、私は少し複雑な気持ちになる。「先輩に会いたい」という理由で来ているとは言いづらいからだ。
そんなある日。大学の構内を歩いていた私のスマートフォンに、母から連絡が来た。
「今日、会社の用事があってお父さんと一緒に帰りが遅くなるから、夜ご飯は冷蔵庫のものを適当に食べてね」
両親が仕事で遅くなるというのは珍しいことではない。私は「わかった」とだけ返事を送り、通りかかった自動販売機でホットココアを買った。ベンチに腰かけて一息つこうとしたとき、少し離れた場所で、リク先輩の姿を見つけた。研究棟の前で、何やら同年代の友人らしき人と話している。彼らは楽しげに笑い合い、ちょっとだけ肩を叩き合ったりしている。先輩が友人と談笑している姿を、私は初めて見た。友人たちから見れば、先輩はどう映っているのだろう。私はなんだか胸がぎゅっとなるような感覚を覚えた。
(当たり前だけど、私の知らない先輩の生活があるんだよね)
同じ学生であっても、私と先輩では立場も年齢も全く違う。きっと、先輩には先輩の友人関係があって、サークルや研究室の仲間がいるはずだ。そこに私の入り込む隙間なんて、あまりないかもしれない。そう思うと、少しだけ寂しかった。
しかし、そのとき先輩が私に気づいた。友人たちと軽く別れの挨拶をして、足早にこちらへやってくる。
「紗英ちゃん? こんなところでどうしたの? 今日はもう暗くなるの早いから気をつけてね」
先輩はいつも通りの柔らかな笑顔を向ける。私は思わずホッとすると同時に、そんな優しさにまた胸を締めつけられる。
「父と母が遅くなるから、もう少し図書館で勉強していこうかなって」
「そうなんだ。偉いね。……ああ、ちょうど俺も研究室の実験が終わって、早めに上がれそうなんだよ。ちょっとだけ時間あるから、図書館寄ろうかな」
それは私にとって願ってもない提案だった。嬉しさを隠しきれず、私はほころぶ頬を抑えられない。先輩と一緒に歩きだすと、身体が少し熱を帯びて、足がふわふわするようだ。
「今日はちょっと疲れたから、甘いものでも食べて休憩してから勉強しよう。学内に新しいカフェができたの、知ってる? 一緒に行こっか」
いつになくフランクに話しかけてくる先輩に、私は舞い上がる。隣を歩きながら、先輩の横顔をチラリと盗み見る。そのたびに、自分の気持ちはもう抑えきれないくらいに膨らんでいくのを感じた。
五
キャンパス内にできたばかりのカフェは、落ち着いた木目調の内装で、温かい雰囲気に包まれていた。夕方の時間帯で客はまばら。先輩はカウンターでホットラテを、私はカフェオレを頼み、隣同士に腰かけた。
「何か甘いもの食べる? 勉強前に糖分補給しとくと集中力上がるし」
「じゃあ……ショートケーキ食べたいです」
「オッケー、じゃあケーキセット二つね」
先輩はカウンターに追加注文をしてくれ、伝票を受け取って戻ってきた。その横顔をじっと見て、私は思わず尋ねてみた。
「先輩って、甘いもの好きなんですか?」
「……まぁ、昔はそうでもなかったかな。でもなんか最近は疲れてるのか、たまに食べたくなるんだよね」
そう言って少し笑う姿が柔らかい。私は自分の心臓が高鳴るのを感じた。同時に、こうやってさりげなく奢ってくれるところも、大人だなと感じる。私が財布を取り出そうとしても、「いいよ、これくらい」と言われてしまって、何も言えなくなるのだ。
ケーキとドリンクが運ばれてきて、先輩はスプーンで小さくケーキをすくって口に運んだ。そして一言、「美味しいね」と呟いた。そんな何気ない瞬間が、私の胸をこんなにも満たすのはなぜだろう。
「紗英ちゃんは、将来、大学行こうと思ってるの?」
「うーん、まだよくわからないです。でも、先輩のいる大学のキャンパスはすごく広くて素敵だなって思いました」
私の正直な感想に、先輩は「ふふ」と微笑む。私は心の中で「可愛い……」と呟きながら、その笑顔に見とれていた。
「いろんな大学があるけど、興味があるところに行くのが一番いいよ。大学って自由だから、自分の好きなことを見つけるのに向いてると思う」
先輩はまっすぐ私を見て言う。その瞳はどこまでも澄んでいて、こちらの心を映し出すよう。私は少しだけためらったあと、思い切って問いかけてみた。
「先輩は、好きなこととか、将来やりたいことがちゃんとあるんですか?」
「うーん、どうかな。まだぼんやりしてるけどね。でも、今は研究が面白いし、いずれはその分野で何か人の役に立つようなことができたらと思ってるかな」
先輩はまるで言い聞かせるように言葉を選んでいる。私はそんな先輩の一挙手一投足を逃さぬように、じっと見つめていた。すると先輩は少し照れたように、目を逸らしてスプーンを持ち直す。
「どうしたの?」
「いえ……何でもないです」
私は急いで顔を伏せた。危うく「かっこいいです」と口走りそうになって、慌ててコーヒーを飲んで誤魔化した。
「そっか」
先輩はそれ以上は何も言わず、静かにケーキを食べ始める。その横顔は相変わらず穏やかで、私は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。こうして隣に座っているだけで嬉しい、幸せだと思えてしまう。でも、この気持ちはいつまで続くだろう。先輩は私をどう思っているんだろう――そんな考えが頭をよぎる。それでも今は、このゆったりした時間を大切にしたかった。
六
その日、カフェでのひとときが終わったあと、大学の図書館に移動して二人でしばらく勉強をした。先輩は途中で友人から呼び出しの連絡を受け、「ごめん、ちょっと行ってくるね」と席を離れた。しばらく待っていたが、なかなか戻ってこない。気づけばもう外はすっかり暗くなっていた。
私はスマホを見る。時間は夜の七時を回っていて、そろそろ帰らないといけない。母からも心配するメッセージが届き始めた。帰ろうかどうしようか迷っていると、ちょうど先輩が慌てて戻ってきた。
「ごめん! 友達がトラブル起こしてて、やっと解決したんだけど、すごく待たせちゃったよね?」
「いえ、大丈夫です。もうそろそろ帰ろうと思っていたので」
先輩は申し訳なさそうに眉を下げる。私も急いで荷物をまとめる。
「遅い時間になっちゃったし、今日はバス待ち長いかも。家、近くないよね? もしよかったら駅まで送るよ」
私はその申し出に一瞬戸惑ったが、すぐに「あ、はい、お願いします」と返事をした。このまま先輩と少しでも一緒にいられる時間が延びるなら、それは私にとって何より幸せなことだったから。
先輩の車――というわけにはいかない。先輩はまだ車を持っていないし、そもそも運転免許を取ったばかりで慣れてないらしい。だから一緒に歩いてバス停まで行くことになった。
秋の夜風がひんやりと肌を刺す。私は両腕をこすりながら歩いていた。見上げると空には三日月が浮かんでいる。遠くに見える街明かりが、キャンパス周辺の静寂を際立たせるようで、妙にセンチメンタルな気分になった。
「寒いね。もう冬が近いかな」
「そうかもしれませんね…」
ぽつりぽつりと会話をしながら、先輩と並んで歩く。やがてバス停に着き、時刻表を見ると、次のバスまでまだ十数分あった。私は待合のベンチに座り、先輩も隣に腰掛ける。自然と距離が近くなって、また胸がドキドキしてしまった。
「風邪ひかないでね」
「……はい」
先輩はコンビニで買ってきた温かい飲み物を私に差し出す。先輩の心遣いが嬉しくて、私は「ありがとうございます」と少し震える声で呟く。この静かな夜のバス停で、先輩と二人きりという状況に、どうしてこんなにも胸が高鳴るのだろう。隣で同じように座っているだけで、言葉にしきれない想いが溢れてくる。
(どうしよう、このままじゃ何も言えずに終わってしまう)
バスが来るまでのわずかな時間。私は迷った末、ついに決心した。先輩が私をどう思っているかはわからないけれど、少なくとも自分の気持ちは伝えたい――そう思ったのだ。
私は目を閉じるように深呼吸をして、それから先輩の手元を見つめる。そして、少し震える声で切り出した。
「あの……先輩」
「ん? なに?」
先輩が優しい表情でこちらを覗き込む。街灯に照らされた先輩の横顔は、どこまでも透明感があるように見える。私は息を飲み込んで、口を開く。
「……私、先輩のことが――」
次の瞬間、バスのライトが差し込んだ。遠くからやって来たバスが、キィッとブレーキをかけて停まる。運転手がドアを開けてこちらを促す。私は一気に言葉を飲み込み、先輩も「あ、バス来たね」と立ち上がる。絶好の機会を逃してしまった。私は慌てて荷物を抱え、バスに乗り込む準備をする。つい先ほどまで鼓動が早まっていたのに、今はむしろ恥ずかしさと悔しさでいっぱいだった。
「…また今度話聞くよ。今日は遅いから気をつけて帰ってね」
先輩のその言葉が、私の心に静かに染み渡る。バスのステップを上がって振り返ると、先輩は小さく手を振っていた。私は何も言えずに、ぎこちなく会釈をしてバスに乗り込む。ドアが閉まり、バスがゆっくり動き出す間際、私は窓越しに先輩の姿を探した。先輩はまだ立ち去らず、遠くからこちらを見送ってくれている。その後ろ姿を眺めながら、私は伝えられなかった想いが胸を苦しくさせるのを感じ続けていた。
七
翌週、学校の中間テストがあり、私は勉強に追われて大学へ行けなかった。先輩とは連絡先を交換していない。父の会社を通じて連絡しようなどとは思えず、ただまた会う日を待つしかなかった。テスト勉強に集中しようと思っても、いつかのバス停で言いかけた言葉が頭の中でぐるぐるとリフレインする。あのとき、もっと強く勇気を出していればよかったのかもしれない。
そしてテストが終わった金曜日、久しぶりに大学へ行ってみた。図書館に入ると、廊下の奥から不意に先輩が姿を現す。私は嬉しさに胸を弾ませながら、駆け寄った。
「先輩! お久しぶりです!」
「あ、紗英ちゃん。元気そうだね。テストどうだった?」
先輩はいつも通りの穏やかな笑みを向ける。私はちょっと照れながら、「そこそこでした…」と答える。それを聞いた先輩は、「そっか、それはよかった」と優しい声をかけてくれた。私は思い切って尋ねる。
「あの……この前、バス停で言おうとしたこと、覚えてますか?」
「覚えてるよ。『先輩のことが――』って言ってたよね」
先輩の言葉に、私は一瞬ドキッとする。あのときの恥ずかしさが蘇ってくるが、もう後には引けない。
「えっと、あのときは最後まで言えなかったけど……私、リク先輩のことが好きなんです」
「……」
廊下の足音や小さな話し声が、遠くに聞こえてはいるけれど、私たちの周囲だけが静寂に包まれたかのように感じた。先輩は少しだけ目を見開き、やがて困ったように苦笑いを浮かべる。
「……ありがとう。でも、ごめんね。俺は……」
私はあらかじめ予想していた言葉を恐れながら、じっと先輩を見つめる。先輩は俯き加減になりながら、静かに続けた。
「正直に言うと、紗英ちゃんを恋愛対象としては見てないよ。年齢もあるし、まだ君は中学生じゃない? 俺も大学生だし、そういう気持ちにはなれないんだ」
心臓がぎゅっと締めつけられる。けれど、その言葉にどこか救われている自分もいた。先輩は誰にでも優しい。それはわかっていたし、私だってまだ子供だ。その現実を突きつけられるのは辛いけれど、先輩がきちんと伝えてくれること自体が嬉しかった。
「それでも、紗英ちゃんが頑張ってる姿はすごく好きだし、応援したいと思ってる。だから、そうだな……変に誤解させるようなことをしてしまったかもしれないけど、ごめんね」
最後の「ごめんね」が、まるで優しい刃のように胸に突き刺さった。私は一瞬言葉を失う。そうして、声を振り絞るように答えた。
「いえ、私のほうこそ、すみません。勝手に期待してしまって。ありがとうございます、ちゃんと話してくれて」
先輩は頷いてくれた。そのまま微妙な空気が流れる。私はこの場にいられなくなりそうで、慌てて笑顔を作った。
「私、これから教室で自習しようと思ってたので。先輩、研究あるなら頑張ってくださいね!」
なんとか笑顔を作ったまま、その場から逃げるように立ち去った。胸には言い表せない痛みが残っていたけれど、不思議と嫌な気分ばかりではなかった。はっきりと気持ちを伝えられたこと。それに対して、先輩が真摯に答えてくれたこと。どちらも私にとっては大切な出来事だったのだ。
その日はそれ以上、先輩と顔を合わせることはなかった。ただ、一人きりで大学の図書館に座り、なんとか勉強しているふりをして、心を落ち着かせる。時々、涙がこぼれそうになりながらも、私は自分を奮い立たせてノートに向かった。
八
失恋…と呼ぶには相手から正式に振られたわけでもないし、もともと成立する可能性のない片想いだった。だけど私にとっては、紛れもなく初めて味わう「心が軋む」ような感覚だった。
翌週からは、先輩に会うのを少しだけ避けるようになってしまった。図書館へ行っても、先輩がいると知ると別のタイミングで行くようになり、顔を合わせても雑談だけで早々に切り上げる。そんな私の態度に、先輩は戸惑っているようにも見えたけれど、深く追求してくることはなかった。きっと先輩なりに、私への配慮をしてくれているのだろう。だからこそ、私はますます辛くなる。先輩は優しい人だ。だけど、その優しさが今は痛みに変わってしまう。
冬の足音が近づき、街はクリスマスムードに染まりはじめた。私は相変わらず、放課後の大半を大学の図書館か自宅で過ごしていた。なぜか、まだ「先輩に会いたい」気持ちは消えない。だけど「先輩と目を合わせるのが怖い」という気持ちも、同じくらい強くある。それらの感情がせめぎ合い、私は自分でもどうすればいいのかわからなくなっていた。
そんなある日、図書館のソファで一息ついていたら、突然、視界の端に先輩の姿が入った。先輩は誰かと一緒に歩いている。ふわりとした髪型の女性だ。遠目には、華やかな雰囲気を漂わせていて、先輩と何やら楽しげに会話をしているようだった。私の心は、見た瞬間にぐらりと揺れた。
(女の人と一緒にいる……彼女かな、それとも友達?)
頭の中で色々な思いが錯綜する。自分とはまったく違う大人の女性。先輩にとっては同年代で、対等に話せる関係なんだろう。それに比べて私は……。自分の居場所のなさを突きつけられたようで、胸がズキズキした。そっと視線を逸らし、気づかれないように図書館を後にしようと立ち上がる。すると、先輩はちらりとこちらに気づき、何かを言いかけた。が、私は足早にその場を去った。自分でも情けないと思いながら、立ち止まれなかったのだ。
その夜、帰宅した私に、母が声をかける。
「紗英、最近元気ないけど、大丈夫?」
「へ? ……ああ、ごめん。大丈夫だよ、ちょっと疲れてるだけ」
母は私の顔色を伺い、「勉強もほどほどにね」と笑顔で言う。それは決して詮索しようとする笑みではなく、娘を労わろうとする優しさの笑みだ。私はその笑顔に、少しだけ救われる想いがした。でも心の深い部分には、先輩への想いがずっと残っている。それが私を苦しめもするし、成長させてもくれるようにも感じられた。
九
冬休みが近づき、街にはイルミネーションが溢れるようになった。私は塾の冬期講習で忙しくなり、大学へ行く頻度もかなり下がっていた。そんな中、ある日ふとスマホを見たら、知らない番号からメッセージが届いていた。「もしかして先輩……?」という期待とともに見てみると、やはりリク先輩からだった。私が中学生だと知っているからか、LINEではなくSMSでの連絡だったようだ。
「突然ごめん。お父さん(紗英ちゃんのお父さん)の会社のつながりで番号を教えてもらった。紗英ちゃんにちょっと話したいことがあるから、もしよかったら大学に来てほしい。無理なら大丈夫だけど、冬休み中の空いてる日を教えてもらえると嬉しい」
メッセージを見た瞬間、心臓がドキンと跳ねる。先輩が私に直接連絡をくれた……しかも「話したいことがある」と言っている。何だろう。私が避けているのに気づいて、一度ちゃんと話をしようとしてくれてるのかもしれない。胸が高鳴り、同時に不安も押し寄せる。
私はしばらく逡巡したあと、「24日の午後なら大丈夫です」と短く返信した。するとすぐに「じゃあ24日の午後2時、大学正門前で待ってます」と返事がきた。ドキドキと胸の奥が軋むような痛みと、どこか懐かしいとさえ感じる高揚感。再び先輩とまともに向き合うための準備を、私は心の中でそっと始めた。
十
12月24日。世間ではクリスマスイブで浮かれている日だが、私は午前中から塾の冬期講習へ行き、昼過ぎに解放された。塾を出るときにはすでに街は恋人たちで溢れていて、どこかしらソワソワした空気が漂っている。私はバスに乗り、先輩との待ち合わせ場所へ向かった。
正門前につくと、先輩はすでに待っていてくれた。冬用のロングコートを羽織った姿が大人びていて、周囲の雰囲気とどこか馴染んでいるようにも見える。私は挨拶代わりに「こんにちは」と声をかけた。
「わざわざ来てもらってごめんね。ありがと」
「いえ……。それで、話したいことって?」
「……うん、とりあえず場所移そうか。寒いし」
先輩は少し考え込んだような表情をしてから、キャンパスの一角にあるカフェに向かう。私がついていくと、ちょうど席が空いていて、二人並んで椅子に座る。以前来たときと同じ、木目調の温かい空間。私は注文したホットココアを手に、先輩の言葉を待った。
「この前、図書館で俺が女性と一緒にいたのを見た……よね?」
「……はい。偶然見かけました」
胸がドキリとする。まさか先輩は、そのことに気づいていたのか。私は視線を落とす。先輩は続ける。
「あの人は、俺の友達で……いろいろ相談に乗ってもらってる相手なんだ。誤解しないでほしいんだけど、そういう関係じゃないよ。ただの友人だから」
思わぬ言葉だった。私は「え?」と驚き、目を見開く。先輩は苦笑しながら話を続ける。
「紗英ちゃんが俺を避けてるの、実は気づいてた。……まぁ、そりゃそうだよね。俺、あんな風に振るようなことを言っちゃったから。でも、それでも何とかちゃんと話をしておきたいと思ったんだ。だから、彼女に俺の気持ちを相談してた」
「……先輩の気持ち、ですか?」
先輩は一度息をつき、少しだけ目を伏せてから言った。
「紗英ちゃんのことを、恋愛対象として見られない――それは本当だよ。でも、だからといってただの『友達の子供』というわけでもなくて…なんだろう、もっと別の形で大切に思ってるんだ」
別の形で大切に思う。私はその言葉を反芻する。どういう意味なのか、はっきりわからない。でも、先輩は言葉を慎重に選んでいるようだった。視線がちらりと私に合い、先輩は少しだけ表情を曇らせる。
「俺自身、まだはっきりと整理がついてない部分もある。でも、紗英ちゃんがまっすぐな気持ちを向けてくれたことは嬉しかった。それに、年齢差がどうこうという以前に、俺は今まで……あまり恋愛ってものを経験してこなくて」
先輩が少し苦しそうに話す姿を見て、私の中で何かが温かく揺れる。先輩といえど、まだまだ悩みや迷いを抱えているんだ――そう思うと、勝手に大人だと思っていた自分が恥ずかしくもなる。
「ごめんね、うまく言えないんだけど。紗英ちゃんの気持ちに応えられないのに、なんだか紗英ちゃんを放っておくのも嫌で。自己中な考えだよね。だから、こうやって呼び出しておいて、ただの自己満足かもしれない」
先輩は自嘲するように笑う。私は首を横に振り、静かに言葉を返す。
「そんなことないです。ちゃんと話してくれて嬉しい。私も、勝手に避けちゃって……すみませんでした」
そして、私は思い切って言う。
「私、まだ先輩のことが好き…です。恋愛とかじゃなくても、先輩が大事。だから、迷惑じゃなければ、これからも会って話をしてくれると嬉しいなって思います。勝手ですけど……」
「……俺も、紗英ちゃんとはこれからも会いたいと思ってる。迷惑なんかじゃないよ」
先輩の答えに、私はホッと胸を撫で下ろす。気づけば私たちは、互いにほころぶような笑みを浮かべていた。はっきりと「恋愛ではない」と言われた以上、私の想いが今後どうなるかはわからない。でも、先輩の中に確かに「私を想ってくれる何か」があるのだと感じられる。その温かさが、私をまた前へ進めてくれそうな気がした。
そのあと、私たちは他愛もない話をして、笑い合った。図書館のこと、研究のこと、冬休みの過ごし方のこと。かつてのように和やかな空気が戻ってきて、私は心から嬉しかった。それがクリスマスイブの小さな奇跡のように思えた。
十一
時間はあっという間に過ぎ、冬休みが終わった。新しい年が始まり、私も中学三年生に向けて少しずつ受験ムードを意識しなければならなくなった。一方、先輩は大学三年生から四年生になる節目が見え始め、就職や院進学など将来を考え始める時期らしい。私たちは互いに忙しくなっていく。以前より会う回数は減ったものの、その距離感は妙に心地よかった。私が図書館に行って先輩がいれば少し話すし、いなければ静かに勉強する。先輩から研究の進捗を聞くこともあれば、私が受験勉強の愚痴をこぼすこともある。そうやって自然に関係を続けていた。
けれど、ある日。先輩から「久しぶりに大学の外で待ち合わせしない?」というメッセージが来た。場所は駅前のカフェ。普段とは違う場所に戸惑いながらも、私は嬉しさを抑えきれなかった。週末の午後、指定されたカフェへ向かうと、先輩はすでに席についていた。コートを脱いで、落ち着いた雰囲気の服装をしている。その姿はいつもよりどこか洗練されて見える。
「今日は……どこか行くんですか?」
「ううん、特に予定はないよ。ちょっと話したいことがあって」
先輩はメニューを私に手渡し、「好きなの頼んでいいよ」と笑う。私はチョコレート系のドリンクを選んで、先輩も同じものを注文した。オーダーを終えると、先輩は少し居心地が悪そうに周囲を見回した。
「紗英ちゃんは……もう、三年生になるよね。受験、大変だと思うけど頑張ってる?」
「はい。まだ漠然としてるんですけど、志望校もぼちぼち決めないといけなくて」
「そっか。来年の今頃は、高校生だもんね」
先輩はしみじみと呟く。その横顔を眺めながら、私はふと、もうすぐ先輩が大学を卒業してしまう事実を意識してしまう。もし先輩が就職で遠くへ行ってしまったら、もうなかなか会えなくなるかもしれない。その考えが脳裏に浮かぶと、胸が詰まるような気持ちになった。
「実は、俺……大学院に進学するかもしれないんだ。まだ確定じゃないけど、教授から強く勧められていて、自分もやりたい研究があるから、決心しようかと」
先輩は私の心情を察したかのように話し始める。私は思わず安堵の息をついた。先輩はまだここに残るかもしれない――それだけで嬉しかった。
「もし大学院に行ったら、研究室にこもる時間がもっと増えるかもしれない。そしたら今よりも忙しくなるし、ますます会う回数は減ると思う。……それでもいいの?」
「もちろん、私は迷惑じゃなければ……」
答えながら、私は何を「もちろん」と言っているのか自分でもよくわからない。ただ、先輩が研究を続けるなら応援したいし、たとえ会う頻度が下がっても、これまでと同じように繋がっていたい。それが私の偽らざる気持ちだった。
「そっか、ありがとう。実は、そのことで悩んでて、誰かに相談したかったんだ。家族とか友達にも話してるけど、紗英ちゃんにも聞いてもらいたくて。自分でも不思議だけど、紗英ちゃんに話すと頭の中整理できるんだよね」
先輩の言葉に胸が温かくなる。私が先輩の役に立てるなら、こんなに嬉しいことはない。無性に幸せな気持ちでいっぱいになった。
十二
季節は巡り、私はいよいよ受験生として本格的な勉強に追われ始めた。図書館に来る回数も減り、先輩に会える機会もさらに限られる。それでも時々時間を合わせて軽く話をしたり、先輩から「研究が大変だけど頑張ってるよ」とメッセージをもらうだけで、私は元気をもらっていた。
そんなある日、学校でクラスメイトから雑談の流れで質問される。「遠山って、最近誰かと付き合ってるんじゃないの?」と。私は慌てて首を振った。けれど彼らは私が平然を装いきれていないのを面白がり、「怪しいな~」と茶化してくる。私が何も反論できずにいると、友人の優菜が「やめなよ、紗英が嫌がってるでしょ」と庇ってくれた。
クラスメイトたちが去ったあと、優菜は心配そうに声をかける。
「最近、紗英どこか行ってるの? 前は放課後に一緒に帰ってたのに」
「ああ……うん、ちょっと塾とか、勉強しに行ってるだけ」 「ふーん……なんかあったら相談してね」
優菜はあえて深くは突っ込まないでいてくれる。私は申し訳なさと安堵を同時に感じながら、その優しさに救われる。中学生にとって、年上の大学生との関わりを堂々と話すのは難しい。同級生から見れば「大人の人と何してるの?」と好奇の目で見られるかもしれない。私がひた隠しにする理由の一つは、そういう周囲の視線を避けたいからでもあった。
でも――もうすぐ私は高校受験がある。合格すれば新しい生活が始まるし、先輩だって大学四年生に進み、やがて院に行くかもしれない。環境の変化の中で、私たちの距離は自然に変わっていくに違いない。そう思うと、なぜか不安と寂しさがこみ上げてきた。
十三
年が明け、私は本格的な受験シーズンに突入した。併願受験や模試などで慌ただしく、大学へ行く機会はほとんどなくなった。先輩も研究室での活動が過熱しているらしく、「今は追い込みだからお互い頑張ろう」とメッセージを交わすだけになった。
1月下旬、私立高校の入試があり、無事に合格。続いて2月には公立高校の試験が控えている。私は追い込みの真っ最中だったが、ふと先輩から「どうしても聞いてほしいことがある」と連絡が入った。大学での研究発表が一段落し、急に時間が空いたから会えないかというのだ。次にこんなチャンスがいつ訪れるかわからない。私は勉強の合間を縫って、大学近くのファミレスで待ち合わせをすることにした。
ファミレスに着くと、先輩はもう席についていて、暖かいお茶を飲んでいた。私は緊張しながら向かい合い、注文を済ませる。先輩は開口一番、「公立高校の受験、頑張ってね」と言ってくれた。私は「ありがとうございます、もう緊張ばっかりで」と苦笑いする。
「それで、急に呼び出してごめん。実は……俺、この春から大学院に進むことが決まったんだ」
「えっ、本当ですか? おめでとうございます!」
私は素直に喜びの声を上げる。先輩はほっとしたように微笑む。これでしばらくは同じ街にいてくれるのだなと、密かに胸を撫で下ろす。
「それで、もう一つ。実は……俺、大学院に進んだら今の研究分野から少し専門を変えたいと思ってる。もっと自分のやりたいことに近づくために。教授にも相談したら、割と肯定的に受け止めてくれたんだ」
「そうなんですね。すごいじゃないですか」
先輩の瞳はどこか輝いている。私は嬉しくなって「よかったですね」と言葉を重ねる。先輩はコップを両手で包みながら、少し照れたように話す。
「まだ具体的にどうするかはこれから決めるけど、将来的には、自分の力で独自のプロジェクトを立ち上げて、学内外の人に参加してもらえたらと思ってる。そういう大きな夢があるんだ」
「うわあ……素敵です。応援します!」
「ありがとう、紗英ちゃんにそう言ってもらえると勇気が出る」
先輩は目を細めて微笑む。その笑顔は、まるで性別や年齢を超越したような、中性的な美しさが際立つ気がした。私は改めて先輩の存在の大きさを感じる。恋愛とは違うかもしれない。それでも私にとって、先輩は大切な“憧れの人”であり、“目標”でもあるのだ。
そしてそのとき――ふと私は、先輩の指先に視線が留まった。先輩がコップを持つ手の仕草、その微妙な角度、指先の形。それらが妙に女性らしいというか、繊細な動きに見えた。もともと先輩は華奢な体格で、髪の毛も少し長め。声だって、どちらかというと中性的。でも私は今まで、先輩のことを無意識に“男性”だと思い込んでいた。実際「リク」なんて呼んでいるし、誰も疑わなかった。だけど、こんなにも女性的な所作を感じたのは初めてで、私は動揺しそうになる。
「どうしたの?」
「あ、いえ……なんでもないです」
私は慌てて目を逸らした。先輩は不思議そうな顔をしていたが、特に気に留める様子はない。
(何を考えてるんだろう、私……)
自分でも戸惑いながら、私は一旦その疑問を飲み込む。先輩は先輩。それだけでいいはず。――そう思い直そうとした。
十四
公立高校の試験を受け、合否発表を迎えた私は、なんとか第一志望の学校に合格した。嬉しさと安堵でいっぱいになり、両親や友人たちに喜びの報告をする。クラスメイトも次々に結果が決まり、新生活へ向けて希望や不安を口にし合う。そんな中、私は真っ先に「リク先輩にも伝えたい」と思った。だが、連絡を入れようかどうか迷った。先輩は今、卒業研究や院試の準備などで忙しいはずだ。一方的に連絡して迷惑にならないだろうか。散々迷った末、簡単に「高校合格しました」とだけメッセージを送ってみた。
すると、即座に返信が来た。「おめでとう! すごいじゃん。よく頑張ったね。お祝いしなくちゃね」と。私はそれを読んで顔が熱くなるくらい嬉しくなった。一度は諦めた「恋愛感情」だけれど、やはりこうして先輩の存在が私の中で大きくなっているのを感じる。しかし同時に、これまで感じていた違和感が、心の隅でざわついていた。
合格発表から数日後、私は再び大学へ行った。合格を直接伝えたいと思ったのだ。図書館を訪ねても先輩の姿はなく、研究棟のほうを覗いてみる。するとちょうど先輩が建物から出てきて、驚いたように私を見つめる。
「紗英ちゃん!? 合格おめでとう。直接会いに来てくれたの?」
「はい。ちゃんと伝えたくて」
そう言って笑う私を見て、先輩も満面の笑みを返す。周囲には先輩の仲間らしき大学生たちも歩いていて、一瞬こちらを見たが、すぐにそれぞれの会話に戻っていく。私はなんとなく恥ずかしくてうつむいた。
「そうだ、いいタイミングだし、さっきまで使ってた実験室をちょっと見てみる? あまり面白いものじゃないけど、気になるなら案内するよ」
「え、いいんですか?」
私は目を輝かせる。先輩がどんな研究をしているのか、ずっと興味があったのだ。先輩は「先生に断ってからになるけどね」と笑い、研究室に戻って確認をしてくれた。少しだけなら、という許可を得て、私はどきどきしながら先輩の後ろをついて実験室へと足を踏み入れる。
白衣を羽織った先輩は、いつになくきりっとした表情で、研究設備や実験器具を説明してくれた。難しい専門用語が飛び交うが、私はただ先輩の姿に目を奪われる。なんて言うか、大学生というより、もう立派な研究者のように見える。改めて、先輩がすごい人だと再認識した。
すると、そのとき実験室の隅から声がかかった。
「あれ、リク? 今は誰を連れてきてるの?」
「あ、先生。えっと、僕の……知り合いの中学生です。合格したって報告に来てくれたみたいで」
声をかけてきたのは教授らしき年配の男性で、先輩に向かって「リク」と呼びかけていた。私はその言い方に、どこか不思議な響きを感じる。「リク」という呼び名は通称で、正式なフルネームは別にある。それは知っているけれど、女性名というわけでもない。しかし教授は先輩を見ながら、こう続けた。
「そうか、まぁご自由に。ところで、お前はもう早く着替えないのか? あまりその白衣を着てると、また誤解されるぞ」
教授が言う「誤解」という言葉。私はその意図を掴みかねて固まった。先輩は困ったように笑い、「はいはい」と言いながら白衣を脱ぎ始める。現れた先輩のインナーは薄手のタートルネックで、そのシルエットが少し女性的な曲線を帯びているようにも見えた。私は思わず目を逸らしてしまう。
先輩は白衣を脱いだあと、私のほうを振り向き、「ごめん、こんなところ見せて退屈だったかな」と苦笑いした。私は慌てて首を振る。
「いえ、すごく貴重な体験でした。ありがとうございます」
そのまま研究室を後にする私たち。先輩は少し気まずそうな表情で、建物を出るまで口を開かなかった。そしてようやく外に出た瞬間、低い声で呟く。
「……いろいろ気づかせちゃったかもね」
私はその言葉の意味を瞬時に悟れず、「えっ?」と聞き返す。先輩は少しだけ笑い、視線を遠くに投げる。
「紗英ちゃんさ、俺のことを男だと思ってたでしょ?」
「えっ……? で、でも……」
言葉が出ない。だって、私はずっとそう認識していたし、周囲の人たちも当たり前のように先輩を男性として扱っているように見えていたから。だけど、先輩の仕草や声質、一部の言葉の端々……思い返せば、何かがおかしかったのかもしれない。
「実は、俺……戸籍上も身体的にも『女性』なんだ。だけどずっと、周りにはカミングアウトしてない。というより、そういうことにあまり頓着しない人たちとだけ付き合ってきた。大学でも、仲間内には性別を隠してるわけじゃないし、みんな自然と受け入れてくれてるから“リク”って呼ばれてる。先生にも事情は伝えてるけど、余計な誤解を生まないために表向きはこうしてるんだ」
先輩の言葉が私の耳に滑り込んでくるたび、頭の中が混乱する。じゃあ、先輩は……最初から女同士だったということ? でもそんなの、全然想像していなかった。私は言葉にならない叫びを胸の中であげる。
「ごめんね、紗英ちゃん。これが言いたくて話す機会を作ろうと思ったんだけど、タイミングがなくて。紗英ちゃんが俺のこと好きって言ってくれたときも、年齢のこととかいろいろ考えて、はっきり言えなかったんだ。傷つけたよね、本当にごめん」
先輩は苦しげに言いながら、視線を落とす。私は息を呑み、なんとか声を絞り出した。
「そ……そんな、謝らないでください。だって、そんなの先輩の勝手じゃないですか。私が勝手に男の人だと思い込んでいただけで……」
「でも、世間的には『男の名前』を使ってるし、見た目も中性的だからそう思われるのは当然だと思う。むしろ隠してたって言われても仕方ない」
私はどう答えればいいのかわからなかった。ただ確かなのは、私が先輩を愛しく思う気持ちは、その瞬間も揺るがないということだった。驚きは大きい。だけど、先輩は先輩。そこに変わりはない。私は必死で言葉を探す。
「私……どう反応したらいいのか、まだ整理がつかないです。でも、先輩のことを好きだって気持ちに嘘はなかったし、今も尊敬してます」
「ありがとう……」
先輩は泣きそうな笑みを浮かべる。そして「ちょっと歩こうか」と提案し、キャンパスの脇道をゆっくり歩き始める。木々の間から差し込む夕陽が、オレンジ色の光の粒となって舞っていた。
「実は、俺が大学院に進んで本格的に研究したい分野も、ジェンダーに関わるものなんだ。人の生き方の多様性や、その社会的な受容。自分の体験も踏まえて、何か力になれたらと思ってる。それで、いつか紗英ちゃんにも話さなきゃいけないと思ってたんだよね」
その言葉は、私にとって衝撃であり、同時に深い感銘をもたらすものだった。先輩はただ中性的な格好や雰囲気を纏っているだけではなく、自身のアイデンティティを見つめ、それを研究対象として学問的に突き詰めようとしているのだ。私は自分がどれだけ狭い視野で生きていたかを思い知らされる。
「紗英ちゃんとは、性別どうこうより、一人の人間として関わっていきたいと思ってる。恋愛とかは……正直、今は考えられない。それはごめん。でも、ずっと大切な存在だよ。これだけは伝えたかった」
先輩の瞳には、もう迷いは見えない。そこにあるのは、揺るぎのない意志と、私に対する温かい想いだけだと感じた。
私は大きく息を吸い込み、先輩の言葉を胸に刻む。そして、心の底から笑顔でこう言った。
「私も先輩のことを大切に思ってます。性別なんて、今は全然問題じゃないです。正直びっくりはしたけど、それでも先輩が先輩であることは変わらないですから」
その瞬間、先輩はほんの少しだけ涙を浮かべて笑った。夕焼けの光が二人の間を照らし、いつかの季節とはまったく違う、新しい風が吹いた気がした。
――こうして、私たちの関係は大きな転機を迎えた。先輩は“女性”だった。それでも先輩は先輩であり、私は私。恋愛感情の行方はわからないけれど、私が14歳である以上、今すぐに深い関係になるつもりもない。むしろ、先輩の生き方や思いをもっと知りたい、尊敬したい。その気持ちが私の中に芽生え始めていた。
大学の門を出るころには、私の胸は妙な解放感と静かな興奮に包まれていた。世界はこんなにも広く、こんなにも多様なのだ。そして何より、私が好きになった先輩は、私の知らない苦悩や葛藤を抱え、それを乗り越えて前に進もうとしている。それがわかっただけで、私は力が湧いてくるのを感じた。
私たちは今後も「先輩」と「後輩」のように関わり続けるのだろう。少なくとも、私が高校を卒業するまでは。だけどその先には、もしかしたら私たちに新しい形の関係が待っているのかもしれない。そんな予感を抱きながら、私は14歳の春を終え、15歳への一歩を踏み出そうとしていた。
――終――