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「ルックバック」を読んだ②技術編

前回の記事↓

今回の記事では、原作「ルックバック」の、マンガ的な技術をつかった特徴について書きたいと思う。


「藤本タツキ」というと、なにかにつけて「映画」とセットになって語られることが多い。「映画から影響を受けている」「映画のオマージュをしている」云々。


その意見はもっともではあるが、個人的には、彼は映画が好きだからこそ、また映画から影響を受けたからこそ、「映画」とは異なる「漫画」の特徴を熟知しており、「漫画にしかできない」表現や技術を巧みに駆使した漫画家だと思っている。


では、この「映画」と「漫画」という2つの異なるアートフォームで、比較したときに際立つ「漫画」の特徴とはなんだろうか?それは、以下の4つがあげられると思う。

①音
②時間感覚の操作
③ヒキとメクリ
④見開き


今回は、この4つの観点から見たときの「ルックバック」をとりあげていきたいと思う。


①音

まずは、もっともわかりやすくイメージがしやすい「音」について。ごく当たり前の話ではあるが、マンガには「音」が存在しない。映画であれば、そのシーンのムードを伝えるためなどの理由で劇伴音楽が使用され、その情感をより補強することができる。


しかし、マンガでは音楽を使うことができないため、コマ割りとセリフをつかった演出でしか勝負できない。


例外的に、マンガではいわゆるオノマトペなどの「効果音」をつかって音を表現することができるが、「音楽」そのものとなると読者の脳内で補完的に鳴らすことを誘導するような、抽象的な表現にとどまってしまうことも多い。


では、今作ルックバックは「音」に関していうとどのような作品だったのか?


もちろん「音楽」が使われることはなく、そして驚くべきことに「効果音」が使われるのもたったの2回きりであった。見せ場である「雨の中の藤野」、「カラテキック」といった見開きのページですら効果音は使われていなかった。つまり、この原作はほとんど音が鳴らない、「静かな」印象のマンガだといえるだろう。


この「ルックバック」の中で唯一効果音が使用される場面の、その意義について考えてみても興味深い。「効果音」とは、それを使うことで表現の幅を広げたり、臨場感を高める効果がある一方で、「描き文字」が画面のコマの中に立ち現れることで一気に「マンガっぽくなる」という特徴がある。


これはどういうことかというと、たとえば「ちいかわ」「ONE PIECE」のように絵柄も作風もいわゆる「マンガらしい」作品であればフィットするが、リアリステイックな/静謐な/ドキュメンタリータッチな作品で「効果音」をつかうと、どこか一気に「マンガっぽく」なってしまうという印象がある。


たとえば、極端な例ではあるが、実写映画でとつぜん描き文字の「効果音」が画面の中にあらわれると一気に「コミカル」になるし、二次元のイラストレーションの場合であっても、そこに「効果音」が置かれたとたんに「マンガ」っぽい印象になることは想像しやすいのではないだろうか。「効果音」とは、ある意味で「漫画」の象徴といってもいいはずだ。


(また、「効果音」とはまた別種の、もう一つの漫画的・漫画ならではの表現ともいえるものに「集中線」があるが、「ルックバック」においてもこの「集中線」の使用はかなり抑制されていたことも示唆的)


話が横道にそれたが、今作「ルックバック」で効果音が使われるシーンというのは、卒業証書を届けに藤野が京本宅を訪れた際の、「ガタンッ」と「ピンポーン」の2つだった。これは前回の記事でも触れたこととつながるが、世界が「現実」と「創作」に分岐する瞬間のスイッチ的な役割を果たしていた。つまり、「効果音」を使うことで「マンガ(=創作)っぽさ」が一気に強まることを利用していたのではないだろうか。


<余談①>
この説を補強するためにも、劇場アニメ入場者特典で配布された「ネーム版」のルックバックを確認してみる。このネーム時点ではありとあらゆるシーンで効果音が多用されていた。そこから考えてみると、完成版に至る過程で削った意図、そして逆に例の2つの効果音だけ残した意図がより浮き彫りになるはずだ。


そして、先ほど今作は「静かな」マンガであると述べたが、これはすなわち、映画のようにシーンの情感を増幅できる「音楽」がつかえないという特性を逆手にとって、「音」の使用をできるかぎり抑制することで、よりリアリスティック・ドキュメンタリータッチな印象を与え、一方でごくわずかに「音」をつかうことで「マンガっぽさ」を際立たせたいときにその効果を狙っていたのではないだろうか。


②時間感覚の操作

次に、「時間感覚の操作」について。漫画は映画やアニメーションなどの「時間芸術」(=リニアに時間が流れていく)とは若干異なる形式をとっている。たとえば映画館で映画を見るとなると、視聴者は「最初から最後まで」「等倍速で」鑑賞する以外の方法がない。


動画配信サービスでの鑑賞に慣れてしまった現代では、映画ですら画面下のシークエンスバーで「どこから・どこまで」再生してもよい上に、倍速の設定までも変えることができるという、ある種の「編集権」を視聴者側がもっているが、それをもっともカジュアルにやってしまえるのは「漫画」だと考えられる。


パッと開いてパッと読んでしまえる。関心が薄いページは読み飛ばせる。味わうようにゆっくりと読めるし、逆に急ぎ足で読むこともできる。「漫画」は読者にとって「自分勝手に」読むことに適したメディアだと考えられる。


<余談②>
この「パッと開いてパッと読める」というランダムアクセス性/可読性の高さが、いわゆる「考察」との相性がいいことも指摘できる。「あのシーンとあのシーンがつながっているのでは?」という確認の作業や、SNS等で拡散させる際の1コマ〜ページ単位での「切り抜き」に漫画ほど最適なメディアはないと思う。「ルックバック」が「考察」という点でもバズっていた要因は、他の人気マンガの例に漏れず、「考察」を誘発する要素を巧妙に配置しており、そのメディアの性質をハックしたためではないだろうか。


今作「ルックバック」でその性質をもっとも(逆手にとって)利用したのが、例の「背中の絵」だと考える。

この「背中の絵」が幾度となくリフレインされた意図を考えてみるならば、「創作には時間がかかる」「創作している人間の背中を見ろ」などがあげられるだろう。この絵面そのものは、登場人物の顔も見えず、静的なカメラポジションからとらえているために、画面構成や構図の点からいうと、非常に「地味」で「面白みに欠ける」ものだ。このこと自体が「創作作業」の実態をあらわしているようでもある。


しかしながら、たとえば映像作品においてこれとまったく同じ演出をしようとすると、同じ絵面が延々くりかえされるという冗長な展開になってしまうだろう。


(映画版のルックバックでは、これを巧妙に回避するために最初に数カットほど「背中の絵」を見せたあとで、そのあとは風景だけのカット、描いた紙が重なって増えていくカット、カメラが正面にまわりこん藤野の女の表情を映したカットなどを織り交ぜて体感時間を伸ばしていた。要するに、「背中の絵」以外のカットを多用していた)


一転して、漫画であれば「読み飛ばせる」という利点があるため、本編中でくどいほどにこの「背中の絵」だけで埋め尽くしたページをくり返しても、読者の中ではさほど苦痛にはならず読みすすめていくことができる一方、頭に焼きつけられるこの「背中の絵」の連続によって時間経過の感覚や「創作作業」の大変さがどことなく伝わっていく仕掛けになっている。いうなればアーティスティックな表現でありながらエンターテインメント性も担保している。


このように、読者に「読み飛ばされる」ことを前提として設計した部分もあれば、逆に読者の時間を巧妙にコントロールした部分もある。たとえば、78〜79ページを見てみる。「通り魔事件」の発生がテレビから伝えられるページの一つ前の見開き2ページだ。


それ以前までの「背中の絵」の連続というのは、それぞれ数時間〜数日単位での時間経過が描かれていたが、一転してこのページからスローモーションを想起させるような「ペンを持つ藤野の手のわずかな動き」が3コマにわたって見せられ、画面下に目を移すと「服装も背景も変わっていない背中の絵」が同じ3コマにわたって並んでいる。


ここにきて急激に時間の経過が遅くなり、左のページの1コマ目では画面の中心にあるのがいつもの「背中」からややテレビ寄りになり、そこから先は細かくコマを割って藤野のわずかな動きを見せていくことで、作業中の藤野の意識が徐々に「テレビの報道」に向かっていく様子や、明らかに「何かが起こった」ことを読者に体感させる演出となっていた。


③ヒキとメクリ

「ヒキとメクリ」とは、漫画用語の一つである。説明すると、見開きの画面の一番左下の(=最後の)コマで続きが気になるような「ヒキ」を用意して、読者に次のページを「メクリ」たくなるような構成にするということだ。さらに、そのメクった次のページの一番右上の(=最初の)コマで、意外性のある展開を用意して読者を驚かせること、そして「ヒキとメクリ」をくり返していくことが理想的なマンガの構成の一つとされている。


映画の場合、「視聴者がぼーっと見ていても物語がリニアにすすんでいく」という特徴がある一方で、マンガは「ページをめくる」という行為が能動的である以上、続きが気になるようなしかけをしておかないとその時点で読者が本を閉じる=読むのをやめてしまうという弱点がある。そのため、漫画家はあの手この手で読者の気を引き、最後まで読んでもらうような仕掛けを張る。


漫画の「基本のキ」ともいえるこの「ヒキとメクリ」の技法を愚直に実践しているのが今作「ルックバック」である。実のところ、ある程度の人気と読者を獲得した商業マンガであれば、もはやこの「ヒキとメクリ」は見せ場のシーンで使われる程度にとどまることも多いが、今作ではおどろくほど何度も多用しているのだ。


「藤本タツキ」というと、エキセントリックな、アバンギャルドな作風ばかり語られがちだが、こういう「正拳突き」を大真面目にやれてしまうから憎めないし強い作家だと思う。


そうでなければ、今作のような単発読切の作品をポンと発表されてもこれほどの反響は広がらなかっただろう。そもそも、マンガは読者に「最後まで読んでもらう」ことに高いハードルがある。150ページもの異例の長さであればなおさらそうだ。


④見開き

そして、この「ヒキとメクリ」をもっとも効果的に発揮することができる漫画の特徴といえば、「見開き」である。2ページぶち抜きで1コマ使ってしまうこと。わかりやすく「ここは見せ場ですよ」と演出することができる。


「ルックバック」の「見開き」といえば、前述したような「雨の中の藤野」「カラテキック」など、印象的なシーンが多い。今回の記事では、「雨の中の藤野」をピックアップして、漫画的特徴を駆使した演出について触れていく。

(できるならば原作の画像をスクショしてアップしたいところだったが、著作権的になんかヤバい気がしたので、自分のヘタクソな模写で恐縮だが)


例の見開きの1つ前のページから。ここで描かれていることを整理すると、1ページを3コマに割って、上から下にいくにつれて「藤野が進行方向にすすんでいく」「雨が強くなっていく」「コマが大きくなっていく」ということであり、これはすなわち「藤野の抑えられない興奮や喜びがしだいに大きくなっていくこと」を表現しているように解釈できる。また、このコマのうち「画面の真ん中」がカメラの位置だとすると、藤野の姿をとらえるようにカメラが横移動していくものの、しだいにそれを追いきれなくなるほど藤野の歩みが加速していっているようにも見える。


この時点でコマ割りを使った演出としてすでに巧みなのだが、とくにすごいのが次のページの見開きだ。


画面上の「赤い矢印」は読者の「視線誘導」の動きをなぞったものだ。前ページで「水平の左移動」が3回もくり返されたため、読者の頭にはその動きが強く印象づけられている。


では、見開きの2ページを順ぐりに「視線誘導」を意識しながら読んでみると、右ページでは画面上に「主役」といえるものが存在しないため、地平線と山のラインをなぞるように「水平に左移動」したあと、左ページに目をやると藤野の姿が画面いっぱいに広がっており、それだけでも視覚的インパクトがあるのだが、さらに地平線とつながった田んぼの畦道が大きくカーブしながら「こちら(読者側)に向かっている」ため、藤野のアクションがよりダイレクトに迫ってくるような印象につながっている。


前ページで二次元的な水平移動を印象づけたあと、見せ場の見開きでは空間の広がりを感じさせるような奥行きの上下運動を利用し、さらにそのベクトルは「こちら側に向かってくる」。セリフもない、効果音もない、音楽もかかっていない、このページがやたら胸に迫ってくるのは、ここに理由があるのではないだろうか。


視線の動きがこのページ上でカーブして滞留させるような仕掛けをつくっているので、見開きから長く目を離すことができない。「ルックバック」の中でもとくにアイコニックなこのシーンは、漫画にしかできないテクニックを凝縮した演出だと言えるのではないだろうか。




以上までで、具体的な事例は述べた。総括すると、藤本タツキとは、映画から多大な影響を受けているがゆえに、それとは異なるアートフォームである「漫画」についての理解度が高い作家だといえるのではないだろうか。


たとえば、藤本作品は映画でインプットしたものを自作の漫画に反映させることで知られているが、映画で見たものと同じことを漫画でやろうとして、同じカット割で、同じ画面構成で落とし込んだところで、それはうまくいかないだろう。映画と漫画とでは使われている「言語」も「文法」も異なっているからだ。


では、どのようにすれば「映画」で見たものを「漫画」でも表現することができるのかという、この「翻訳」作業ともいえる試行錯誤の積み重ねによって、それぞれを相対的に比較したときの特徴を発見することに成功し、今作「ルックバック」のような「漫画にしかできない表現」を詰め込んだ作品に到達したのではないだろうか。


あと、アニメーション映画版「ルックバック」もちゃんと見たので、そっちの感想も書きたい!ので、次の記事で書く。

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