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Netflix版「三体」5話まで見た
原作小説は数年前に一度読んだきりで内容はわりと忘れてしまっていたけれど、このテレビシリーズを見て「あーそういえばこんな感じの作品だった」と思い出した。
視聴者の予想を裏切る展開と、謎が謎をよぶストーリーテリング。原作小説を読みはじめるとつづきが気になってページをめくる手が止まらなくなるんだけど、それは一気見をうながす今作のような「配信向けテレビシリーズ」という形式に異常なほどフィットしていたと思った。毎話ラストにもっとも盛り上がるシーンを持ってきて、次話への視聴をうながす仕組み。
冒頭、あの文革のシーンから始まるので、いきなり冷や水を浴びせられるというか、キツい人はその時点で脱落してしまうかもしれない。「ゲームオブスローンズ」シリーズを彷彿とさせるような残虐シーンとしてきっちり描いていたのは、単に同作のファンに対する目くばせとして機能していただけでなく、純粋にこの作品のトーンアンドマナーに合っていると思った。シリアスで、グロテスクで、容赦がない。本作は「GOT」シリーズの製作陣が手がけている以上に、もともと原作がそういう作品ではある。
中国人の登場人物がイギリス人としてキャスティングされていたことは、ホワイトウォッシュとして批判されるかもしれない。だけど、60年代中国のシーンから2024年現在のロンドンのシーンへ脈絡がないと言っていいほど強引に飛ぶ構成というのは、本作の壮大すぎる世界観を示すためのイントロダクションとして機能していたような気も。
なんてったって本作は地球規模どころか全宇宙を巻きこんだスケールな上に、果ては数百年先の未来まで時間軸が飛ぶ物語だからだ。「なんだかよくわからないが、とんでもない出来事が起きていることだけはわかる」という本作の空気感を演出することに成功していたようにも思える。
デューンもそうだけど、世界観が壮大すぎて映像なり絵なりビジュアルで構築するのが現実的にムリだから小説というアートフォームで描かれたはずの作品が、実際に大予算で映像化されたとき、なんかもう話がおもしろくなくても、その事実だけである程度感動してしまう。
小説という媒体で無限にふくらました想像力を、べつの人間があらゆる力を結集して映像化していく作業に、人類の巨大制作物プロジェクトっていうか、天才から天才へのバトンリレーみを感じるというか。
3話の「人間コンピューター」も荘厳な映像だったけど、おそらくこの「シーズン1」のハイライトとなるであろう5話のパナマ運河の古箏作戦はとくにすごかった。シンプルに今までこんな映像見たことないと思ったし、かなり恐怖を感じた。原作でのこのシーンというのは、起きたできごとをダイジェスト風に淡々と描写しているだけという感じだったけど、Netflix版はちゃんと「人間」と「科学」の恐ろしさ・凄まじさが描かれていたと思った。
それまでは三体文明ヤベー、宇宙人こえーって思ってただけのところが、急にわれわれ地球人に矢印が向けられたように感じておどろかされるというか。原作をただ映像化しただけではなくて、気の利いた脚色がされていた。このシーンだけでも見る価値のある作品だと思う。