話すだけでは意見が通りにくいと感じたある日の会話
先日、娘が父親に食事の満足度についての話をしていました。私達の食生活とういのはひとそれぞれで、なにがたべたい、なにをたべられたら幸せかということすら実は一つの訓練になっています
私は娘を育てながら料理の勉強もしていたので、同じ料理でも確実に美味しくなってきていると娘は年々実感していたようです。私自身も食べ歩くことはもちろん好きですがただ食べ歩いて終わりにしたくはなかったので、食べて美味しかったものなどを作れるように研究していました。贅沢な遊び方をしていたと思います。まだまだ物価がそれ程高くない時期でもあったのでできたことだっとタイミングの良さを感じます
おいしいものはどうやって調理しているのだろう?と考えます。私は愛知県出身なので赤味噌文化なんですが、私の母は料理が好きではなかったのでお味噌汁がおいしいと思えたことが一度もありませんでした。ですが、何年か前に名古屋のお寿司屋さんで赤だしを飲んだときにおいしいな〜と感じました。その後大阪、東京に引っ越したので赤だしの文化から離れていたのもあってか、お味噌汁を美味しくつくるということに意識が向きませんでした。
最近になってなんですが、いつも買っているあわせ味噌が売り切れていたので、たまには白と赤を買ってみようと2つ買ってみました。合わせ味噌の調理はそれなりに美味しくできるようになったので、白と赤を上手にできるように挑戦してみようと思ったわけです。そうして久々に赤だしを美味しくつくる研究をしてみました。
赤だしというくらいなので決めてはやっぱり出汁でした。出汁で赤だしは美味しくも味が馬鹿になることもあるのだとわかりもう少しこだわって見たいとも思いました。ただ、私が使っている出汁が他の料理も美味しくしてくれているので、料理の基本はやっぱり出汁なんだな・・・と改めて感じるようになりました。
出汁についてがすこしだけわかるようになると、料理の味の良し悪しがかなり変化してきますし、つくる料理も野菜中心にできるようになります。大根一つでも出汁がおいしいだけで食べ方も変化すると感じました。味の濃くなる調味料で味付るクセがついていると、家でつくっても買ってきても同じと思えるようになります。ですが、出汁をうまく使えるようになることで家庭料理が美味しくなるというのは本当だな〜と思いました
昔でいえばカツオをそのまま削るなど贅沢に使うなどをしていた家庭もあったかもしれません。ただ、素材がよくとも調理が上手にできないとせっかくの良い出汁も活用できないんですよね。これは機械でも人間でも一緒です。
その文化を続けることができないのは、便利で簡単な出汁とカツオを削ってつくる出汁との味の違いがわからないからこそ、続けて使えなくなるのです。
料理は五感を使うので、味わったり香ったり口のなかでの歯ざわりなどの感覚などがふんだんに使われるわけです。考えて取り組めば取り組むほど感覚は磨かれる行動の一つです。そして素材の活かし方などが理解できるようになるとモノの扱い方もそれなりに上手になります。
それがうまくなると、今度は人間というものの感覚も理解できるようになります。人間との意見を交わすときに相手の五感を刺激することを取り入れるようになれるために、自分の意図した話を進めやすくなります。たまたまなんですが、料理の話をしていた娘のアシストで私がブログ用に撮った料理の写真を元夫に見せて、これだけの量を毎日作って食べるのは一人暮らしでは難しいと思うと伝えました。
写真を見せることで、元夫は納得したわけです。視覚の効果というのが強い今の世の中です。自分ができることを間違いなく伝えるためには視覚効果はやっぱり必要だと感じました。そして、食べることに関して人はやっぱり大きな関心を持つものです。普段食べられればいいと思っているくらいの人でも、おいしい物を安く食べられて健康になるというのは興味があるものだと感じます。
これからの物価高を乗り越えていくために、無駄な費用を抑えるという話になったのですが、ただ節約するだけではなく、自分のテクニックを磨いていつも豊かな気持ちを保ち続けたいものだと感じとこれまでのとりくみが少し役に立てたお話です。