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違う見方で見たいという姿勢 私は被害者ではない

赦しの見方は究極の見方です
普遍的な愛を知る見方です
今までの自分の見方は全部間違っていたのだと実感し勘違いが解け、平安、喜び、感謝などの感情を感じます
霊としての自分が本当の姿なのだろうと思わずにはいられません

私達は人生の中で奇跡講座に出会うと自分を救ってくれる感じがするこの教えの知識と、聖霊なるものにお願いすればとか、聖霊の視点で見れるなら今の苦痛から解放されるのだと勘違いを起こしてしまいがちです
私もそうでした

要は恐れという自分で作り出した幻想を実在化させ
それこそが自分を苦しめる原因となっていると信じ込んだままの姿勢でコースを人生に取り入れて、赦しをしようとしてしているということです

その間違った学び方が悪い訳ではなく
それを体験し続けることで何かが違うと自ら気づき、また別の選択の場に導かれるだけです
自然に必要なことが自分の身に起こっていきます

そして目の前の状況を見て感じて体験することを通して
愛か恐れかどちらかの選択肢から自らの意思で選択することは続いていきます
いずれは全ての人がどんな状況も愛を源とする選択を選ぶことになることは決まっているそうです

今ほとんどの人たちは、自分のことをこの世界の被害者だと思っています
自分を被害者の位置に置いたまま相手の聖性を見ようとすることは失敗に終わります

相手に見るものは自分です
自分の内側には愛との繋がりがあるという確信(信頼)なしに相手にそれを見ることはできません

私もまだまだ赦していない自我の想念があるので被害者意識がでます

私たちは世界で体験すること
家庭や職場や様々な人間関係の中で嫌な状況、嫌なことをしてくる人の被害者だと信じています

嫌な人達はなぜ自分に対してこんなことを言ったり、やったりするのだろう?と
被害者意識が強い時、相手への咎めをいったん脇に置き、その人を理解しようとすることはとても意義のあることです

これは我慢して嫌なことを受け入れるということではありません
距離を保ちながらも、その人の奥にいったい何があってこうなってしまったのか興味を持つということです

嫌な人が家族や職場の人である場合
すぐには距離を取ることは出来ない可能性もあります
私も嫌いな人は家族にも職場にもいましたが
同時にその人にも興味を持っていました
分析をしていました
なぜこんな言い方や態度を取るのだろうと
だからエニアグラムや数秘術、占星術などにハマったこともあります
人間の個性を見事にいい表してくれるこれらの教えに助けてもらっていました
特にエニアグラムは秀逸だと思っています
その人を知れば納得できるのです
許す道が見つかります

これは赦しではないので
嫌いは変わることはないかもしれないけど理不尽さから距離を取ることができました
私は可哀想な被害者なのだという意識からは解放されました

反対に人に意地悪したり、嫌がる態度ばかり取る相手のことを可哀想と思うようになっていきました
このようにジャッジしてしまうのは自我意識なのでしかたありません

今ならそんな意地悪な一面を持っている自分を抑圧し心で責めているために投影を見ていたのだと理解できます

自分が1ミリの隙間もなく被害者だと信じているなら違う視点を見出すのは困難です
できません
やりたくありません


赦しに取り組むことになった今
問題としている何かを否定、拒絶するだけではなく
興味関心を持つことで別の見方を探るというこの姿勢は以前の私と変わりがありません
赦しをする者にとって必要な態度だから養われるように導かれていたのだと思っています

責めるとは、理解しようとしないことである(T14.3:6)

奇跡講座上巻/中央アート出版社

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