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思考の逆転とは? 自我は「そのままでいい」「何も問題はない」「ありのままでOK」

コース学習者が目指すのは
この世界の出来事から知覚後に採用される自我的な考え方からの脱出です
考え方を変えてそれを習慣化していく事で今まで当たり前な考え方から全く違う考え方にシフトチェンジすることが「思考の逆転」と言われるものになります

コースの伝えたい「思考の逆転」の概念について私の理解しているところを書いてみたいと思います

赦しの実践において
自我的な考え方を採用している自分にまず気がつきます(投影に気づく)

ここで自分は間違った考え方をしていると素直に認めます

次の段階において
「自我ではなく聖霊を選びたい
という考えによって
「闇を聖霊と共に見る」や「聖霊に明け渡す」というプロセスを取っているなら
聖霊を選択したのではなく
恐れを源にして自我的ジャッジメントを選択したことになります

自我の考え方は嫌だから(間違っているから)聖霊を選ぶ(選びたい)とは

Aは嫌だからBにする
これはAを排除する自我的な思考方法です

自我は、排除の方法があからさまでないやり方に頭を使っているので
私たちはその戦略に全く気づかず排除、除外という選択を無自覚に取ってしまいがちです

自我からもたらされる罪悪感が嫌だからとか、間違っているから、苦痛だからと罪悪感を感じることを拒絶するなら
嫌で
間違っていて
苦痛を
世界の中の自分や他者を使いいつまでも実在化され続けることになります

私たちのすることは世界の中の自我のしたことを取り消すことではありません

自我のしたことを訂正無しで赦すことでもありません

自我的な解釈から嫌な感情や感覚が起きますが
それは分離意識から立ち現れる間違った考えです
ここにいつも葛藤が起きます
とても嫌な感覚です
なぜ葛藤が起きるのでしょう?
ちゃんと理由があります


神の子としてその考え方は間違っているからです
愛の存在である私たちが
愛のない考え方を採用するなら必ず葛藤(不快)というサインが出されます

「自分が誰だったか思い出しなさい」
「あなたにはその考え方は似合わない」
サインに込められた神(愛)からのメッセージです

そのサインを無視して他者や状況が悪いと正当性を主張しても不快感は無くなることはありません

どんなに嫌で苦痛を感じたとしても
自分の見方が間違っているだけです
本来の自分を見誤ってるだけです


自我から得られる感情や感覚は消したり排除する必要などなく
むしろ必要なものとなります
これこそが神(愛)から与えられている受け取りたいメッセージです

今までは自我的な解釈は嫌な感情や感覚をもたらすもの

今ではその感情や感覚が自分が誰かを思い出すツールとなり
平安、幸せ、喜びに導くものとして歓迎すべきものになります
そして
神から愛されている実感を得られるもの(知覚の訂正ができるように与えてもらっている)となります

これこそが思考の逆転です


間違ってしまっている神の子(私たち)は世界に見る自我のすることに対する解釈が全くでたらめでトンチンカンになってしまっています

相手がどんなに悪く見えていても
それは自分の心を映し出して教えてくれているだけです(内的状況の外的映像)

「相手は悪くない」
「相手は変わる必要はない」
「自分の解釈が間違っている」
ここでこの考えを採用することが自我にとっては難関です

しかしそこも訓練しているうちに
「自分は何を間違って思い込んでいるのだろう」
とその真相を知りたいという謎解きのような好奇心に変わっていきます

やるべきことは
分離意識の取り消しです
神の子は分離していると勘違いしている状態にあるので心の中では神と神の子が対立してそれを世界に映し出します
そこをよく見ていくなら(闇の直視)
必ず聖霊の答えを受け取ることになります

分離など本当は起きておらず私はこの世界の個人ではなく
源(愛)から離れていない霊としての私が本来の自分なんだと自覚が起きます

間違った考え方を採用していたと認識され、勘違いを解く為にわざわざ兄弟たちが嫌な役を引き受けてくれたのだと分かり
知覚の訂正と共に兄弟たちの悪役も解き放つことができます
その瞬間がキリストの顔を見るという表現になるのだと思います


イエスはそれが可能なことだから赦しを説いている訳です

自我的解釈がでたらめで間違っているだけだから
その解釈の元にある自我の信念という闇をよく見るなら聖霊によって幻想が解かれ
その奥に隠されていた真実が見て取れるのです


知覚の訂正が起きた瞬間
自分はちっぽけな人間であるとは到底思えません

それは奇跡です

この体験をするなら
投影は嫌なものではなくなります


赦しについて言語化するのは難しいです
周りくどい表現で混乱させてしまっているかもしれません

今回伝えたかったことは
自我から感じてしまう罪悪感は消す意図をもつ必要は無いということです
自我のすることは問題ではなく
自分の解釈の問題だということになります

罪悪感という嫌な気持ちになる想念であっても全ては普遍的愛に包含されているものです
除外や排除などすることはできません

私たちは世界を見る時
もう自我の解釈は信じません
葛藤が導きになります

赦しの実践に役立てていただければ幸いです

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