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文学雑記⑥『破局』/遠野遥

 正直なところ、今回のテーマについては自分でも上手く書ける自信がありません。
 と言うのも、自分の中でもまだはっきりと理解できていないことが多いテーマだからです。  
 ただ、『ノルウェイの森』の回でも書いたように、世の中の価値観が急激に変わりつつある現代において、小説には一体どんな可能性が残っているのか、ということを深く考えてみるためにも、絶対に避けられないテーマだと思いますので、頑張って書いてみようと思います。
 という訳で、今回テーマに選んだのは、小説における「普遍性」です。

 まずは「普遍」という言葉を手元のスマホでググってみます。すると、『広く行き渡ること。特に、すべての物に共通に存すること。』とあります。
 それを小説に当てはめて考えてみますと、その小説が個別の事象を描いているために少数の人にしか刺さらないような受け皿の狭いものではなく、人種や国籍や時代を超えた全ての人々に突き刺さるような、度量の広いものであることが大事なのだと思えてきます。

 そこで私が今回取り上げたいと思ったのが、遠野遥になる訳です。
 遠野遥は現役の小説家の中では私が最も期待している一人です。それはもちろん、本作を含む彼の幾つかの作品が、今回のテーマである小説における「普遍性」に、肉薄できていると思うからです。
 それがどういう理由に依るのかを、まずは考えてみることにします。

 本作の主人公である陽介に対して、サイコパス的である、だとか、変人だ、などといった見方をしている感想などを見掛けます。
 ですが、はっきり言って、私はその見方は間違っていると思います。
 ……いえ、というか、正直なところを言いますと、私も物語の途中までは彼の人物造形をそのように解釈していたのです。ですが、灯との北海道旅行で自販機の前に立った時、彼が突然涙を流すシーンを読んで、その考えは一変しました。突然の涙の理由が自分自身にも分からずに、『いつからなのかは見当もつかないけれど、ずっと前から悲しかったのではないか』と、彼が仮説を立てるシーンを読んだ瞬間、「あ、この主人公は自分と全く同じなのだ」と思ったのです。サイコパスでも変人でもなく、どこにでもいる私たちと (少なくとも現代を生きる私たちと) 全く同じ、ごく普通の人なのだ、と、そんな風に思ったのです。
 特殊な「個人」のことを書いていると思っていたのが、実はそうではなく、我々人間が共通に持つ「普遍」的な問題について書いているものなのだと、不意に気づかされたのです。

 それはつまり、文庫解説の倉本さおり氏の言にもあるように、情報過多で余白が切りつめられた現代の生を、つつがなく合理的に生きるために、我々も気づかぬうちに彼と同じような生き方を選択してしまっているのではないだろうか、という疑問。個人によって程度の差こそあれ、外部の規範に盲目的に従って生きていこうとすることで、自分の心が本来は持っているはずの「悲しみ」や「喜び」に対する感受性をお座なりにしてしまったまま、ただ漫然と日々を過ごしてしまっているのではないだろうか、という疑問。そういった疑問に気づかされたということです。
 本作の主人公の一見突飛な内面描写は、その疑問を炙り出すためにこそあるのであって、サイコパスのように見えていたのは、その副作用に過ぎなかったということです。通常我々が無意識のうちに行っている発言や行動に対する選択の過程を、そして、そこに存在する外部規範などによる不可避な関与の有り様を、逐一文章にしていることから生まれてくる、違和感に過ぎなかったということです。
 そういうことに気が付いて、思わずはっとしたのです。

 素晴らしい小説というものには、必ずこういった瞬間があるものです。

「個別」という名の深い穴を底へ底へと降りて行こうとしていたはずが、いつの間にかくるりと反転して、地面に開いた無数の穴を遥か上空から眺めていたことに気づく瞬間。
「主人公」という個人の「個」そのものを、底の底まで見つめようとしたその先に、不意に「人間全体」が俯瞰で見えてくる瞬間。
 そういった奇跡の瞬間です。

 ただ、これは別に、作者自身が「普遍」的なことを書こうと思って書いている訳ではないと思います。「個人」の内面を深いところまで描き切ろうとしていると、自然とこういうことが起こってしまうのだと思います。
 素晴らしい小説というものには、必ずこの「くるりと反転」があるものだと思いますし、小説家や芸術家というものは、すべからくこの瞬間を目指すべきだと思うのです。

 ……一体どうやったらそんな瞬間を作り出すことが出来るのか、については、今のところ不明です。その方法を知りたくて、こうやって色々と小説について考え続けているのだと思います。

 ですが、ここで一つだけ問題があります。人間にとっての「普遍」の中身が、未来永劫変わらないとは限らない、ということです。
『ノルウェイの森』の回でも書いたように、社会の価値観がこのままどんどん変化していけば、百年後の人々と今の我々とでは価値観を共有できなくなるかもしれないのです。現代人にとっては「普遍」的だと思われていることが、百年後の人々にはそうではないかもしれないのです。
 これは非常に悲しいことですし、ないがしろには出来ない問題です。
 ですが、それでも小説家というものは、百年後にも読まれるものを目指すべきだと思いますし、百年後の読者にも響くような表現を目指して、書き続けるべきだと思うのです。人間にとっての「普遍」な何かが、「不変」であることを願いながら。

 ……いささか真面目な話になりすぎてしまったみたいです。こんな小難しいことを考えながら読まなくても、「こいつ変な奴だなぁ」と主人公のことを笑いながら読むだけでも十分楽しめる作品ですので、未読の方は是非。

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