文学雑記④『五分後の世界』/村上龍
本作に限らず、村上龍の作品の最大の魅力と言えば、描写力の高さ、ではないでしょうか。彼の作品を読んでいると、その描写力の高さ故、シーンごとの明確で明晰な映像が、自然と、半ば強制的に脳内に浮かび上がってくるのです。そのことが与える没入感たるや、とても文章芸術が与えるそれとは思えぬほどに強烈で、村上龍の作品だけに、いささか危ない薬めいているとさえ言えると思うのです。
中でも本作はその描写の力が圧倒的で、彼の作品のベストワンはと問われれば、二時間半くらい迷った末ではありますが、私的には本作を挙げたいと思います。
ということで、今回は小説における「描写」について、考えてみることにします。
まず最初に、小説における描写には、どういった種類があるでしょうか。
登場人物の人となりや起こった出来事などを記述する、敢えて命名するならば、「行動描写」とでも呼べるものと、登場人物の心の振幅を描き出す、「心理描写」。この二つに大別できるのではないでしょうか。
村上龍の作品で優れていると言えるのは、当然、前者の「行動描写」のほうになります。
特に本作は、文庫解説の渡部直己氏の言にもあるように、本来は積み重ねるべき「心理描写」を敢えて切り捨て、ひたすら「行動描写」を繰り返すことで、主人公小田桐の心の変化を読者に「納得」させることに、さらには、読んでいる我々読者の心の変化をも促す効果を生み出すことに、成功していると思うのです。
つまり、丁寧に行われた最高レベルの「心理描写」にも出来ないことを、「行動描写」を繰り返すことのみで、その圧倒的な力強さと濃密さとで、実現させてしまっているのです。
本来は純文学に必須であるとされていた、丁寧で細やかな「心理描写」を、全く不必要なものへ変えてしまっているのです。
ここで、そもそも、小説における描写力とは、一体なんのために必要なのでしょうか? どうしてそれが高い作品ほど優れた作品であるのだと、言い切ることが出来るのでしょうか?
それは、敢えて一言で言うならば、読者の「納得」のためではないでしょうか。
登場人物の「納得」しかねる言動や心の変化などには、読者は決して「感動」しません。
「え、なんで?」
「なんでこの人はここでこんな事をしちゃったの?」
といった疑問を持ったままの状態では、読者は決して登場人物の行動や心の変化を追体験することが出来ないのです。従ってそこには感動も、そして、作品に対する愛情も、決して生まれてくることはないのです。
丁寧で綿密な「行動描写」や「心理描写」、それを幾重にも重ねていくことで、読者はようやく登場人物の行動や心理に「納得」し、作品に「感動」するフェイズへと入って行くことが出来るのです。
ここで少し注意が必要なのは、その際必須とされているのは、読者の「納得」なのであって、「共感」ではないということです。
よく、若い方が書いたと思われる小説に対するレビューなどに、「主人公に全く共感できなくて面白くなかった」といったものを見掛けます。それ故その作品を「低評価」とジャッジしているものを、よく見掛けます。
ですが、良い小説に必要なのは、あくまで「納得」なのであって、決して「共感」ではないのです。
もし作者が描写の力をもってして読者を「納得」させられていないのだとしたら、それは作者の力不足のせいですので、低評価で構わないと思います。ですが、「共感」できなかった、という理由のみでその作品を駄作と決めつけてしまうのは、良くないことだと思うのです。読む価値なし、と一刀両断してしまうのは、悪いことだとさえ思うのです。
……何故って、価値観は人それぞれなのですから。自分とは違う価値観を持つ人々が世の中にはたくさんいるということを、我々に教えてくれるのが、小説というものなのですから。
それに、もし世界中の人々があまねく共感できるような作品が何処かに存在したとしたら、大人も子供も人種も国籍も関係なく、全ての人々が手離して共感できるような作品が世界に一つでもあったりしたら、……それは、もう、なんと言うか、あまりにスピった話だというか、……ねえ?
……いささか話が逸れましたが、ここで、「行動描写」のほうではなく、「心理描写」のほうについても考えてみたいと思います。
「心理描写」の細やかさ、ということで思い浮かんでくると言えば、やはり、三島由紀夫ではないでしょうか。
例えば、「豊饒の海」シリーズの第一作である『春の雪』。
主人公清顕の聡子に対する心情の変化が、行動や出来事などに伴って丁寧に描写されることで、その有為転変を読者と供に丁寧に追っていくことで、ラストの自死に近いような彼の死にも、(その一見突飛な行動にも、) 読者はしっかりと「納得」し、感動することが出来るのです。
そういった心の機微の細やかな描写や、心の動きのフローチャート的な理路整然たる記述の部分を読むたびに、やっぱり三島ってすごいよな、と思わざるを得ないのです。
……そうです。こういうものこそが昔ながらの純文学だったはずです。
ですが、村上龍の作品は、こういった定石を全てぶち壊してしまったのではないでしょうか。
何故なら、「行動描写」のみで読者を「納得」させることが出来るなら、「心理描写」は不必要になってしまうからです。
村上龍の作品は、「行動や出来事」→「心理の変化」→「納得」という、従来の純文学では三段階必要だった読者の「納得」への工程から、「心理の変化」の一工程を完全にすっ飛ばしてしまっているのです。すっ飛ばしてしまった上で、それでもしっかりと読者を「納得」させてしまっているのです。その圧倒的な描写の力をもってして、です。
もし、村上龍の作品が、その一工程分だけ作品内に描かれた出来事と読者との距離感が近いのだとしたら、そして、その近さこそが村上龍の作品のあの圧倒的な没入感を生み出しているのだとしたら、それはもう、天才の仕事だとしか言いようがなく、私のような凡人には、感嘆と羨望の嘆息を禁じえないということしか、言うべきこともないのです。
……少し褒めすぎてしまった気もします。ですが、村上龍は私が文学好きになったきっかけをくれた作家ですので、まあ、良しとすることにします。
それと、『カンブリア宮殿』とかはもういいから、もう一作だけでも気合の入った長編を書いてくれないだろうかと願い続けているファンは、私だけではないはずですが、どうでしょうか?