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1000文字(癒し小説)/やすらぎの香り・思い出のお茶

「この香りだ」
 芳香。 
 舌が喜んでいる。
 唾が溢れてくる。
 目を瞑ると、新緑の匂いがイメージを駆り立てる。
 
 白い茶碗。お猪口のようで洒落ている。
 茶の滴を再び口に含む。

 東京。
 真っ白なシャツの日本茶ソムリエ。
 洒落た店内。
 こんな都会で、あの新茶の味に出会えるとは思わなかった。

 偶然、降りた地下鉄の駅。
 知らない駅。
 出張の途中。交渉はいつも通り。
 おべっかばかり。
 重役に頭を下げて、ようやく取り付けたビジネス。
 顔色を窺うのは疲れる。 
 
 新茶は疲れを癒やしてくれた。 
 カフェの中は静かだ。
 
 少年の日の思い出。
 新茶の季節。
 段々畑。裏山に登った。山の名前も思い出せない。

 遙か昔。
 汚れを知らない無邪気な心。
 邪心などない。疑うことを知らなかった。 
 
 成長する毎に、駆け引きを知った。 
 いじめられたくない。
 良い大学に行きたい。
 かっこつけたい。高いスーツを着たい。
 ビジネスで成功したい。金持ちになりたい。
 きれいな女を妻に迎えたい。
 
 野心。
 そんなものが、あの頃の少年を台無しにしてしまった。

 静岡。
 茶畑を営んでいた祖母。赤字経営。
 茶畑の一角、誰も知らない茶畑があった。
 
 新茶の時期、遊びに行くと祖母が煎れてくれたお茶。
 あの味。
 切ない香り。
 少年の思い出。
「汚れのない茶葉だから、誰にでも飲まさせるわけにはいかん」
 祖母は笑う。
 
 両親も知らない。
 祖母のお茶にありつけるのは
「心のきれいな人間」
 そのため、祖母はその茶を作り続けていた。

 祖母は死んだ。
 茶畑もつぶれた。
 両親と引っ越した。夜逃げ同然。
 それ以来、田舎に行っていない。
 
 あの茶葉は、もう存在していないはずだった。

 この茶についてソムリエに聞いてみたかった。

 テーブルに置かれた、革製の高級ビジネスバック。
 生じる迷い。 

 自分は、穢れてしまったのではないか? 
 自分には、この茶を飲む資格はないのではないか?

「この茶葉は……」
 ようやく、声を発した。
 これだけで、精一杯。
 
「ええ」
 ソムリエは、こっちの思いをくみ取ったかのように茶葉について語り始めた。

「この雑味のない奇蹟の茶葉は……」
「……何年も前、廃園の危機に陥った茶畑を買い取った人物がいるらしいのです。以前の顧客にあたる人物が、茶園を存続させているようです」
 ソムリエが二煎目を注ぐ。
 
 懐かしい香りが、あの日の少年を包んでいった。

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