プラハ・オリンピック
序文と挨拶
二〇〇八年五月九日、わたしはプラハ・オリンピックに着手した。
これを読み、新しい世界へと入って頂けたら幸いである。
時は迫っているからでる。
硫黄島の説教師ヤン・フス
M2‐2火焔放射機(ブロートーチ)、携行爆薬(コークスクリュー)、手榴弾(パイナップル)の究極3点セットで武装した米軍海兵隊員が燃料タンクを背負い、島の到る所に開けられた土竜の穴、無数の掩蔽壕の入口に向けて虱潰しに放射機を噴射していく。地下通路網に潜み隠れ棲む土竜、鼠、残留兵は黒焦げになって焼け死ぬか、酸素不足で窒息死していった。
米兵たちのスペースボール・ブーツが硫黄を噴き出す大地を踏みしめ、火焔を放射するスターブレイカーの音を頭上に、硫黄島の説教師ヤン・フスは日の丸の旗に九字を書き入れた。
者前兵
闘皆列
在臨陣
九天九地の世界の片隅から九匹の土竜、九人のアスリートが掩蔽壕内の将校室前に集まっていた。ヤン・フスが九字を唱え、縦に四線 横に五線、切ると、アスリートたちは炎のランナーとなって地上へと走り出た。
硫黄くすぶる大地の底から突然湧き出た九つの火の玉に、驚愕した米兵隊員は火焔放射を浴びせ、先頭のランナーがブロートーチを奪い取ると、聖火となして空に高々と掲げた。天国への階段を駆け上がり、黄金の扉を開けると
プラハへと飛んだ。
海兵隊員は自由の女神に十字を切り、説教師ヤン・フスは暗黒の掩蔽豪の闇に向かって叫んだ。
説教師ヤン・フス 時は近づいた。おまえ達の時代だ。
飛び跳ね走り投げ笑え。相手を倒しひねり投げ蹴り回し歌え。
おまえ達の時代だ。自由をわれらに。表現をこの手に。主義主張を高らかに奏で歌え。心技体、父と子と聖霊の御名によって三位一体を手中にし、自由自在 円転滑脱 融通無碍に己を操り、楽しむ超人たち、
おまえ達の時代だ。勝負とプレッシャーを楽しみ、真剣に戯れ遊ぶ、戦うことの喜びと誇り、勝つことの恵みと誉れ、負けることの悔しさと屈辱を、全身全霊でもって感じ、表に現わし、感情を爆発させる、
おまえ達の時代だ。生命の躍動感溢れる自由の聖火をわれらに。
時は近づいた。おまえ達の力を見せてくれ。
おおプラハ わたしのプラハ 懐かしのプラハよ。
随分と長い間、遠去かり、目を伏せ背け帰ろうとしなかった。
故郷で開催される人類の祭典に、わたしは史上最高のアスリート、九人の歌い手を送ろう。きっとすばらしくうまく歌うだろう。他の追随を許さない、断トツのぶっちぎり、次元の違う、段違いの強さで他を圧倒し、寄せ付けず桁違いのパワーとテクニックを見せつける。
百年早い、おととい来やがれ、そうだ 黄金のメダルは
上から来る! 黄金のコンパス持つ者は
上から来る!
全世界同時衛星生中継
学校の授業が終わると、速攻帰宅部だったぼくは家に帰り制服を脱ぎ捨てながらテレビをつけた。
聖火ランナーの懺悔聴聞僧ヤン・ネポムツキーがカレルⅠ世に一礼し、旧市街門を潜りカレル橋を走る。遥か望む聖ヴィート大聖堂の夜空に輝く九つの流星を仰いだ。沿道の人々はそれに誰も気付くことなく、聖火ランナーに声援を送り各国の小旗を振って見送る。フラチャニの丘に建設されたメインスタジアム、チェコロッセオ。
国旗たなびく正門の両脇に衛兵が並び立ち、門の前では巨人たちが永遠の戦いを戦う。マーチャシュゲートを潜り競技場に入る。十四万四千人の大観衆が拍手と歓声、指笛、手拍子足拍子でネポムツキ―を迎えた。
号砲と祝砲 街中の鐘が鳴り、ラッパが響き渡る。
各国選手団が国旗を先頭に、千状万態の色を連ねてフィールド内に並び、貴賓席には国王ヴァ―ツラフ四世と王妃ソフィアが立ち上がって拍手している。懺悔聴聞僧ヤン・ネポムツキ―は競技場の万雷の拍手に応えながら、心の中で王妃に挨拶し、王妃ソフィアは心の中でヤンに応える。2tの銀で造られた階段を昇り、大聖堂の薔薇窓に聖火が点されると、ふたたび、
祝砲・号砲が撃たれプラハの街、百塔の頂きから千羽の鳩が放たれた。
開会の辞
IOC(国際オリンピック委員会)会長クーベルタン男爵 ようこそ 皆さん。ようこそいらっしゃいました。スポーツの祭典、人類の祝祭催事、世界の大燔祭、五輪の華咲く夢の宴、驚異のハチャメチャどんちゃん騒ぎ、世界新記録の連発する超人たちの饗宴へ 世界の皆さん、ようこそ。
神々にも見紛う人間の限界を越えていく緑の孫生(ひこばえ)、あなた方は美しい。あらゆる民族、種族、人種、言葉の異なる民、国と地域に属する人
々が一堂に会して鎬を削り、喜びと楽しみ、悔しさと涙を分かち合う。
わたしの目指した理念、それは「生まれてきたことに意義がある」。
この世界に生まれてた来た、生を享け、この世界にやって来て、大祭典に参加すること、そのものが喜びであり、楽しみ、涙と笑い、悲喜交々の舞台装置で歌い踊る劇場(スペクタクル)なのだと。
選手の皆さん、力の限り戦い、楽しみ喜び、泣き歌い騒いで、遊んでいって下さい。我々観客、観衆、観戦者、観覧者はそれを見て応援し、共に戦い、手に汗握り、勝利を祈り、喜びを分かち合い、悔しさ情けなさ不甲斐なさ申し訳無さを共に悲しみ、大いに笑って大いに泣くのです。
さあ、スペクタクルを始めよう。
一大興行の開幕 世界劇場オリンピックの開会を宣言いたします。
街のあちこちのレストラン、ビアホール、パブ、クラブ、スポーツバー、スナック、スタンド、居酒屋、キャフェバーで黄金の飲み物が酌み交わされモルダウ川の上流から大きなボヘミアングラスが、どんぶらこどんぶらこと流れてきた。
スローガンを持つ男とキャッチコピーする女は、プラハ城正門の衛兵になりすまして開会宣言を聞いていた。
移動売店では操り人形(マリオネット)の糸が飛ぶように売れていた。
神聖ローマ皇帝ルドルフⅡ世はお忍びで、白馬に跨った勝利の女神のコスプレをし、天文学者ティコには黒い馬に跨った正義の女神のコスプレ、主治医マイヤーには赤い馬に跨った争いの女神のコスプレをさせ、青白い馬に乗る死の女神を求めて旧市街広場へと至り、観光客がスマホを掲げて群がる仕掛け時計の下に紛れていた。
12時なると鶏が出てきてコケコッコーと挨拶し、ガイコツが紐を引いて鐘を鳴らした。左手に持った砂時計をゆっくり引っくり返していくと、ふたつの窓から十二使徒が順繰りに顔を出して説教していった。
青白い馬に跨る死の女神を求めて、ルドルフⅡ世とその一行はボヘミアンを気取って流浪彷徨の旅に出た。
ベルリンフィル・コンサートツアー
ベルリンフィルハーモニー管弦楽団主席指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンは、お隣りの国チェコ・プラハで史上最大の春の祭典、前人未踏のオリンピックが開催されると聞くと、居ても立ってもいられずIOCに掛け合い
友人でもあるクーベルタン男爵を説得し、閉幕式においてヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェン交響曲第九番で幕を閉じる、という確約を取り付けた。ロンドンの敏腕レコード・プロデューサー、ウォルター・レッグに連絡を取り、閉幕式で演奏される交響曲第九番をライヴ録音できるよう手配しろと言った。レッグは無茶だと止めにかかったが、カラヤンは「カラヤンの言葉は絶対だ」と一蹴した。
こんな世紀の一瞬を逃す手はない。千載一遇のチャンス、世界の名演奏を後世に残し、二十世紀のマエストロに名を連ねるためなら何ものをも、命を、金を、魂をも厭わない。評判、噂、陰口、批判、誹謗中傷、揶揄、バッシング、炎上など糞くらえだ。マエストロはマネージャーのアンドレ・フォン・マット―ニに旅の支度をするよう指示し、楽団員とは別行動でひとり、プラハへ自家用セスナで飛んだ。
競泳会場
フラチャニの丘、チェコロッセオ地下の巨大貯水槽に設営された競泳プールには、門外不出のスタロブルノ カールスバート ピルスナー バドワイザー チェコビール職人たちの腕と技、伝統と粋を結集させた黄金の飲み物が注ぎ込まれ、スイマーたちはプールから上がってくると、ヘベレケの
ベロンベロンの酩酊状態、ヘビードランカーになっている。
男女混交100m自由形決勝
選手たちが入場してくると、観客席から拍手と声援、指笛と掛け声が飛び交い、打ち振られる国旗に選手は手を上げて応える。
第1のコース 世紀のウォーターマン、デューク・パオア・カハナモク(米)
第2のコース 水の女王、この種目4連覇を目指すドーン・フレイザー(豪)
第3のコース 神をも恐れぬ5連覇を目指すドン・ショランダー(米)
第4のコース 水の申し子、言わずと知れたマーク・スピッツ(米)
ここまでの種目、すべて世界新記録を叩き出し金メダルを7個、首からぶら下げて登場 会場は大いに沸き、スピッツは拳を上げて応える。
第5のコース コルネリア・エンダー(東独)
この種目で二度、世界新を出して5冠目を狙う。
第6のコース 飛び魚マット・ビオンディ(米)
6冠目をかけてこの種目に出場してきた。
第7のコース 東ドイツのクィーン、クリスティン・オットー(東独)
女子史上初の7冠を狙って登場。
第8のコース [列]怪物マイケル・フェルプス(米)
今日3個目の金を獲って前人未踏、空前絶後、人跡未踏の14冠に挑戦する。
8名のファイナリスト、ジャージを脱ぎ水中眼鏡(ゴーグル)を掛け、身体じゅうを引っ叩く。スタート台に立ち、縁を掴んで構える。
ダーン
綺麗にスタートを切って浮かび上がり、頭ひとつ分飛び出したのはウォーターマン カハナモクが新必殺泳法、自ら編み出したクロールでもって他の選手を圧倒し、置き去りにしていく。体半分のリード。
各選手、それを見るとすぐに真似して追うのはスピッツ フレイザー オットー。カハナモク、リードを保ったまま50のターン 21秒54
世界記録を0・1秒上回ってきた。
水の女王フレイザーが猛追してくる。フェルプスが来た。カハナモク逃げる。頭ひとつのリードになった。追いつくか、追いついた。三つ巴だ。
横一線。カハナモクか フレイザーか フェルプスか タッチの差だ。
47秒84 世界新記録!
勝ったのはピーターファンデンホーヘンバンド!
トランポリンが行われている王宮内の、天井に花咲くヴワティスラフ・ホールを抜けて二階に上がっていくと、南向きの窓から板が突き出ていて、飛び込みの選手たちがポーンとひと跳ね、次から次へと三選手
掘り下げられたビールプールへと落ちていった。
隣りの会場、騎士の階段ではフェンシング競技が宴酣で暗闇の中、深海魚の頭が光り、アドリア海のジゴロ、ネド・ナジ(伊)が金5個を突き刺し
女ひとりひとりにプレゼントして今日一番の目玉トピックに取り上げられた。
ベルリンフィルとカラヤン
EMIのレコードプロデューサー、ウォルター・レッグは物臭野郎の典型で、楽団員の招集、契約の了解、汽車の切符、ホテルの予約、録音機材の運搬、搬送の手配手続き、ソ連邦区域で発行、運用されているグレーカードの入手など、煩瑣で手間のかかる一切合切を右腕のジェーン・ウィザーズに一任してしまったが、ジェーンは慣れない旅の連続で体調を崩してしまった。
レッグは代わりに助手のイザベラ・コーベットを呼んで、事務処理一般を手伝ってくれるよう頼んだ。イザベラは急遽ロンドンから駆け付け、休暇に入っていた楽団員たちのひとりひとりに電話を掛けて了解を取り、汽車のチケット、ホテルの予約、機材の準備、梱包、大型車の手配、グレーカードの入手に東奔西走、四方八方手を尽くした。
フォン・カラヤンはひとりセスナ機で偏西風を突いて一路、プラハへ。
快適な空の旅のつもりで操縦桿を握っていた、が――
右斜め後方から一機のメッサーシュミットが、爆音を立ててセスナに接近してきて、タタタタタと機関砲を連射した。あまりの事にカラヤンは絶句し、避けるにも避けられず左翼エンジンをズタズタにされ、機体は火を噴き燄燄と 黒煙が上がった。
操縦不能になったカラヤンはパニック状態の中、緊急ボタンを押しシートが飛び出してパラシュートが開き、離脱に成功したが、何が何やら訳が分からず頭は混乱したまま真っ白 顔面蒼白でからくもベルリンの自宅に引き返した。強いマティーニを飲んでひと息つくと、気を引き立てようと愛車のポルシェをガレージから出してきて、急遽プラハへ向かうことにした。
ベムベラベロ
人間になりたい。
ベムベラベロの切なる願い、それが゛人間になりたい゛ということだった。超人でもない、巨人、魔人、鉄人、外人でもない。普通の人間になりたかった。人と少し違っているだけ、変わっている、可笑しなだけで後ろ指を指され、くつくつ笑われ、嘲弄され、軽蔑され、卑しめられ、差別され、石を投げられ、忌み嫌われ、いじめられ、罵られ、のけ者にされる。
ベムベラベロは人間になりたかった。闇に隠れて生きるのではなく、光の下で、天が下、大手を振って地上を闊歩したかった。しかしここプラハ、四年に一度の花の祭典、五輪の華咲く開催地で彼らが目立つことはなかった。
世界各国各地域、ありとあらゆる民族の奇人変人、超人、鉄人、怪物、鳥人、妖精、赤鬼、人間機関車、人魚、巨鯨、魔女、異形の者、特異な者、傑出した者、奇矯な者、驚異の者が、うようよゴロゴロそこいら中至る所構わずわんさかわんさ跳梁跋扈していたからだ。街全体が驚異陳列室(ヴンダーカンマ―)になっていて、火薬塔の上でバク転し続けるルーマニアの妖精を驚嘆の目で眺めながら、ベロは溜め息をつく。
「ねえベラ、いつになったらおれ達は人間になれるんだい?
もう百年以上、あらゆる国と地域をうろつき回って何ひとつ成果なし、メダル0個だ。もういい加減、いい塩梅に、適当に人間になってもいいじゃないか。人間になって青い空の下、女の子と見つめ合ってイチャイチャしたり、旨いものを食べ過ぎて太ったりしたいじゃないか。」
ベラは8度目の10点満点を出した妖精を忌々しげに眺めやりながら、
「妖精じゃないから妖精なんてあだ名を付けられるんだ。本当の妖精が目の前に現れでもしたら、すぐさまパニックに陥って闇雲に叩き殺してしまうだろうよ。魔女狩りの時がそうだったように、ありもしないものをあるように見ているのが人間だからさ。人間になったら妖怪なんてあだ名を付けられたって人間には違いないんだ。人間になったらね、思いっきり羽根を伸ばせるんだよ。妖怪めいたことも、悪魔めいたことも、何をしたって許される。
そうなったら思いっきり悪いことをしてやるんだ。妖怪のまんまじゃ悪のレッテルを貼られ、のけ者にされ、打ち滅ぼされ、撲滅キャンペーンに署名されるだけ。そんなの、あんまり悔しいじゃないか。
人知れずひっそりと人間の周りで空しく巡り彷徨ってるだけなんて、最期は無縁仏の共同墓地、地下納骨堂(カタコンベ)に捨てられて終わり。
情けないじゃないか、そうだろう?ベム。」
ベムはソフト帽を深く被り直し、アスコットタイに首を埋め火薬塔の下を通り抜ける。
「おれ達妖怪人間は人間の成れの果てだ。人間が崩れ、壊れて破れ果て、妖怪になったんだ。時間を逆に回すことはできない。止めることも、進めることも。おれ達妖怪が人間になる方法、それは人間の方が妖怪に近づいてくれることだ。崩れ、壊れ破れ果て、できそこない、雪ダルマ式、芋づる式、鼠算式に倍々ゲームで人間が妖怪になっていく時、妖怪が人間になる日が来る。それまで待つしかない。
時は迫っているからだ。」
「フン、なにさ。人間が妖怪になるまで、わたし達は何百年も指を銜えて待ってろっての?冗談じゃない。
今日まで待てど暮らせど人間はあまりに人間的じゃないか。獣にも神にもなり切れやしない。毒にも薬にも、悪魔にも天使にもなり切れない。中途半端でどっちつかず、グズグズとグズリ泣き喚き、くよくよ頭でっかちで言い訳し言い逃れ、曖昧模糊として釈然とせず、意味不明、歯切れ悪く不明瞭、日和見主義のオポチュニスト、大人になり切れない幼児的・小児的(ネオテニー)な精神構造、ひとりでは何もできず家族の中、社会の中、国家の内懐にぬくぬくと守り支えられ助け合って持ちつ持たれつのお互い様で、長いものに巻かれる多数議決制の民主主義、信じることで救われ、騙されたくて想像し、夢を見るおめでたいロマンチスト、あまりにも人間的、郡畜的だよ。
だから何やったって許されるんだ。神じゃない、聖人君子でも天使でもない。獣じゃない、奴隷でも悪魔でもない。自由意志をを持った人間であり、善に向上していくことも悪へと堕落していくこともできる。
ただあまりに無知なればなり。人間は許される。
ああ はやく人間になりたい。子供のように純真無垢、何も知らない弱く貧しく低い者は許されて神の国へと入ることができる。
人間になりたい!」
ベロは人形劇をやっている店先を覗き、首を引っ込めた。
「おれ達と同じような顔したのがゴッソリ踊っていた。ありゃあ妖怪だね。
誰かに操られているんだ。糸が見えないだけで、何も許されない。
いいことをしたって悪いことに誤解される。悪いことしかしないのが妖怪だと、決めつけられてるからだ。」
「ああ 人間になりたい。天が下、青空の下、地の上を闊歩し胸一杯、肺活量限界まで光合成奏でる澄んだ森の和音、娑婆の空気を吸いたい。人間なら自分次第、自由意志で、自助努力でいい事も悪い事も思いのまま、この身体この頭の使い方次第で神にも獣にも、天使にも悪魔にも、如何様にもなるんだ。」
「時は近づく。
人間が妖怪になり、妖怪が人間になる時が。獣の数字は666。
ナンバーがコールされる時、妖怪は人間に、人間は妖怪に。
ある者は底なしの淵に堕ち、ある者は銀の階段を昇って超人に祀り上げられる。
時が迫っているからだ。」
黄金の小道
スローガンを持つ男は移動売店で3発の弾丸を購入し、チェルトフカ川の岸辺を散策している途中、水車に挟まったボヘミアングラスを拾った。チェコロッセオ内にある100m走、110m障害の行われる黄金の小道沿いの小さな一軒家を借り受けた。引っ越しの挨拶がてら隣の家にボヘミアングラスを持っていった。
キャッチコピーする女はフラチャニの丘を下ったところのストラホフ修道院「哲学の間」でキャッチコピーを済ますと、黄金の小道に八十台設置されたハードルのうちの一台だけ、縞模様の白い部分に一文字ずつ丁寧に刻み入れていく。
スタート地点のある小道の取っ付きの家は画家アルチンボルドがアトリエにしており、秋の果物をふんだんに使用してカレルⅠ世を描いていた。中程の家には国家労働災害保険局に勤めるフランツ・カフカが住んでおり、目下測量技師Kを主人公にした「城」の執筆に頭を悩ませていた。ゴール地点のある東の奥の家では錬金術師ディーと跛の助手ケリー、そして牧師コメニウスとが不老不死の調合、蘇生術の研究、降霊術の実践、武器軟膏(ポプロクリスマ)の製造、金属の変容・黄金の精製・太陽の水銀の抽出・精華、金メダルの鋳造・彫琢、天使召喚術の実践、世界の迷宮・世界図絵の作成・印刷、宇宙の可逆的転換の可能性、魔術的観念論の宇宙的記述、プラトン=ルルス=トリスメギストス記憶術の完成といった実験、思索を飽くことなく蜿蜒と繰り返していた。
陸上男子100m決勝
黄金の小道、メインスタンド側にある家の窓は人の顔で溢れ、屋根の上にも人がいっぱいで今か今か、まだかまだかとピストルが鳴るのを待っている。
聖ヴィート大聖堂の薔薇窓に聖火が高々と燃え立ち、尖塔から国王ヴァ―ツラフ四世と王妃ソフィアが天覧され、少し下がったところから懺悔聴聞司祭ヤン・ネポムツキ―が顔を覗かせている。
世界中、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国と地域から選ばれた8名のファイナリストが、スターティングブロックに足を掛ける。
1コース クラウチングスタートの先駆者、トーマス・バーク(米)
2コース 暁の超特急、吉岡隆徳(日)
3コース 黒い弾丸、5冠目は目前ジェシー・オーエンス(米)
4コース 10秒の壁を破った男、ジム・ハインズ(米)
5コース カリブの星が今日も炸裂するヘイズリー・クロフォード(トリニダードトバゴ)
6コース [前]五輪の申し子、8冠目を狙うカール・ルイス(米)
7コース 筋肉増強剤男、ベン・ジョンソン(加)
8コース 100m史上最年長記録を更新しようとやってきたリンフォード・クリスティ(英)
興奮と緊張はクライマックスに達し、時間が止まったかと思われた一瞬、ピストルの音で一気に解き放たれる。ロケットスタートでベンが、続いてバーク 暁の超特急も素晴らしい飛び出しを見せ、黒い弾丸が地を這う。カリブの星が明日へと馳せ巡り、32歳のクリスティがエントロピーに抗う。
黄金の小道の小窓からスローガンが撃たれた。
゛わたしはすぐに来る゛
ゴール付近の家から黒煙が上がり、ルイス出た ルイス出た。ルイスか ハインズか クリスティか それともベイリー グリーン ジャマイカの彗星ウサイン・ボルトの出現か?
電光掲示板に゛審議゛のランプが点灯すると、観衆からどよめきと歎声、溜め息と不信のつぶやきが混じり聞こえ、小道の上にざわざわと溢れ漏れる。
80m地点に一塊の豚の肉が転がっており、大会ボランティアがすみやかに担架に乗せ医務室に運んでいった。大会は滞りなく遅滞なく、競技は粛々と進行していく。
陸上男子110m障害
小道に設置された10台のハードルを睨みつけ、選手たちは気持ちを高ぶらせ集中させ、気合いを入れ、落ち着かせる。男子110m障害は三強の激突となった。3コースの不敗のハードラー、ハリソン・ディラード(米) 4コース我らの神、エドウィン・モーゼス(米) 5コースアジアの昇り龍、劉翔
(中)
観衆が息を詰め、息を殺して息を止め見守る中、号砲擘(つんざ)き 神モーゼスがフライング、思わず溜め息が漏れる。2回目、次にフライングした者はどの選手であろうと失格となる。スターティングブロックへ慎重に足を掛け、息を整え、ファイナリスト達は腰を上げる。白黒斑のハードルのバーがピストルの音に震える。
8選手遅れなくスタートを切る。刻まれていくリズムがメトロノームを超え速まる。振り上げられた足は宙を掻い潜って、進む身体は前へ前へと押し約められ、跨ぐのか走るのかどっちかにしてくれと駄々をこねる下半身を、否応なく上半身でもってねじ伏せ、倒れ込み、もがき足掻き、苦しみながら前へ前へ突っ込んでいく。
神モーゼスが8台目のハードルに差し掛かった時、白黒斑の白い升目に
⬛女⬛の⬛爪⬛は⬛鷹⬛の⬛爪
と読み取った。神の足はキャッチコピーされ、バーに引っ掛かって転倒、122の連勝記録がついにストップし、モーゼスは手のひらで何度もトラックを叩いて涙し泣き叫んだ。勝ったのは劉翔か、ディラードか、写真判定に持ち込まれる。
その間、手持無沙汰になった大会役員の二人は黄金の小道にあるフランツ・カフカの家に入っていって、逮捕すると告げた。国家労働災害保険局に勤めるカフカは、「何の罪です?」と訊いたが、役員はその質問に答えることなく「とにかく一緒に来てもらいたい。でないとあなたは大変困ったことになりますよ。」と、役員のひとりが懇切丁寧な口調で、鼻の穴を小指でほじくりながら言った。もうひとりの役員は、机の上に置かれたボヘミアングラスを撫でさすり、カット数をひとつひとつ数え、窓のそばへ持っていって光にかざし、輝き具合、色の種類、混合率を計算した。
国家労働災害保険局員カフカは、「こんなことは不法だ。逮捕令状もなしに拘束することはできない。わたしは何をするにも自由だし、この家から一歩も出る気はない。」と、強く断言して突っぱねた。鼻の穴に小指を突っ込んだまま天井を眺めていた役員は、もうひとりの役員を蹴っ飛ばして、その耳に口を押し当て何か囁いていたが、彼の持っていたボヘミアングラスを引ったくると、縁に鼻くそをなすりつけながら言った。
「とにかくわたし達には仕事があり、それをやり遂げなくてはいけない。わたし達の仕事はとても厄介なのです。あなたを逮捕することもその中に含まれています。これはなんとしてでも従ってもらわなくては困ります。次の競技の準備が迫っていますから、あなたにばかりかかずらわってる訳にはいかないんです。」
役員は次の鼻くそをグラスへなすりつけながら、もうひとりの役員にグラスを奪われないようにしっかり抱え込んで、相手を睨みつけた。蹴っ飛ばされ恥をかかされた役員は、あちこち部屋を行き交いながら、じっと3個目の鼻くそをなすりつけている相手を観察している。カフカは執筆を中断され、空腹も手伝ってイライラしてくるのをじっと抑えて、二人の役員のすることを監視していた。鼻くそを取り終えた大会役員は、窓のそばに置かれた椅子に座り、グラスを抱えたまま居眠りを始めた。もうひとりは汗をびっしょりとかき、横目で相手を牽制しながら「もうこれくらいで観念したらどうです」と、カフカに身振り手振りをだんだん大きく激しく動かしながら、最後は荒野に叫ぶ説教者のような情けない涙声で噎び泣き、悲愴感を一杯に湛え相手の感情に訴えかけて泣き落とそうとした。カフカは無視して手元の時計を見た。新しいことは何も起こっていないし、これからも起こらないだろうと確信した。目の前の役員は横目でちらちらグラスを伺いながら、小指を立ててみせ、膨らませたお腹に弧を描いて人差し指と親指で丸を作った。
レコがコレだもんでナニが必要だという訳だ。カフカは手元にあった本を投げつけ、「この家から一歩たりと出る気はない。どこにも行かない。何もやっていないし、不当な仕打ちには不当な要求で仕返しする用意がある。」と言った。盃に涎を溜めていた役員がうわ言を口走りながら跳び上がり、血走った目で「この焼肉、おまえのものだと思うなよ」とはしゃぎ回った。
窓の外を見ると、聖イジ―広場で男子走り高跳び決勝が行われているのを遠く眺めやることができた。
男子走り高跳び決勝
[兵]ディック・フォスベリー(米)は陸上競技が大好きだったが、どの種目もぱっとしなかった。平凡な記録に終わった高校二年の競技会の後には、担任の教師からこのまま陸上を続けていても将来のためにはならない。自分を活かせる別の道を見つけ、しっかり勉強した方が君のためだと言われ、陸上の監督からは選手の足りない他の種目に回れと言われた。
しかしフォスベリーは家の庭に高跳びのバーとマットを手作りし、朝も夜も練習に励んだ。ある日、跳んだ瞬間、空中で体勢が崩れ完全な失敗ジャンプだと思ったその時、身体は背中からバーを越えて落とすことなくクリアーしていた。コーチからはそんなみっともない跳び方はやめろ、高校の恥だと言われた。他の選手からはなんだ、あの理科の実験のカエルみたいなのは。ベリーロールがロイヤルロールだとからかわれた。
しかしフォスベリーは背中から跳び続けた。プラハオリンピック男子走り高跳び決勝において、ディック・フォスベリー(米)は2m24の五輪新記録を出して金メダルを獲得した。
秘密と嘘
王妃ソフィアは紫頭巾で顔を隠し、告解のためにロレッタ教会を訪れた。聖なる家サンタ・カーサの中では、懺悔聴聞司祭ヤン・ネポムツキ―が瞑想にふけって待っており、ソフィアはすぐに告解を始めた。
「ネポムツキ―様、おお どうしましょう。ネポムツキ―ネポムツキ―ネポムツキ―様。今にきっと分かる日が来ます。その時、わたしはどのような顔をし、どのような言い訳、言い逃れ、言い草をすればよいのか。きっと顔は真っ青で目は空ろ、視点は定まらず宙をさまよい、口は開けど声は出ず、まな板の上の鯉のように救いを求めてパクパクするのです。打ち首ですわ、鞭打たれ、惨たらしい拷問道具に三日三晩掛けられて、カレル橋の上で逆さ吊りにされ、民衆の面前に生き恥、死に恥を晒すのです。
ああ ネポムツキ―ネポムツキ―ネポムツキ―様。」
「御妃様、落ち着くのです。落ち着いて、心を鎮めて。こう言うのです。
処女懐胎したと。」
「まあ⁉ なんという 真っ赤な噓!偽り!破廉恥!恥知らず!不敬な、突っ拍子もない罰当たり。神に隠れもない真実を愚弄し欺き偽ろうなど、大罪です。神の怒りにふれ、燃やし尽されます。打ち滅ぼされます。
それにあなた、あなたがその初め 初夜の新床の新鉢割りの儀の折り、国王に処女の証に染まった白布をお見せするように、そう忠告なすったのはあなたではありませんか。あのような生娘にはこっ恥かしい、顔を覆いたくなるようなことを勧め無理強いさせておきながら、処女懐胎したと⁉」
「あれは鶏の血だったと。」
「まあ⁉ 突っ拍子もない、あられもない、恥も外聞もないバレバレな噓っぱち。誰が信じますか!信じたら、王はよっぽどのバカか 阿呆か お人好しか ロバの耳か なんでも信じる鵜呑みにするおめでたい極楽トンボ能天気ひょっとこヨセフ野郎でしょうよ!」
「わたしが証言いたしますから、そのように言うのです。わたしが確言すれば国王は信じ、御妃様は処女懐胎した聖母マリア様に。
王は喜びで踊り出し、余はヨセフになったヨセフになったと、手に手を取ってエジプトに逃れエルサレムへ巡礼しようと言うでしょう。神に感謝して燔祭の煙を上げ、主を褒め称える歌を謳いホサナと、葡萄の子、緑の幼な子の誕生に初子の祝宴を張って良きに取り計らって下さるでしょう。」
「そのように簡単に、おままごとのように、まんまとうまく事が運ぶものでしょうか。」
「必ず、間違いなしに。国王のわたしへの信頼は絶対ですから。よもや疑われること、不信を持たれることはゆめありますまい。わたしが万事、うまくやりますから。御妃様はただ、処女懐胎したのですとおっしゃればよいのです。」
「おおネポムツキーミカエルガブリエルネポムツキ―様 わたしは全面的、全方面的、全信頼をあなた様に捧げ、身も心も奉げ尽くします。
はじめて会ったその日から、いけない炎がぽっと宿り、わたしの胸に燻り始めたのです。いけない恋のはじまり、禁じられた果実ほど甘く蕩けるものはない。得られない幸福ほど苦さ余って馨しいものはない。どうぞいい様にして下さい、どうぞご自由にお使い下さい。あなたの膝に手を置いて わたしがどれほど震え慄き、喜びと興奮に打ちのめされ、過呼吸になり、激しき恋の息吹に呑み込まれまいとひとり抗い抵抗し、拒み、否定し、憔悴しきって涙の跡も乾かぬまま薄明の雀の声を聞き泣き寝入りしてきたことか。
あなたは知りますまい。それほど、このいけない恋の薬というやつは心をくすぐりトキめかせ、胸を丸焦げに 思いやつれて丸裸に、肉体は肉体を呼び求め露わにし、逃れられないのです。よろしい いいでしょう。
わたしは言います。処女懐胎したのだと。あなたがそう言えとおっしゃるのなら もうどうにでもして!」
カレル橋上空
キャッチコピーする女は移動売店のコピー機でキャッチコピーすると、カレル橋に長々と伸べられた綱引きの綱の真ん中に
゛金の切れ目が縁の切れ目゛と書き入れた。
スローガンを持つ男は聖ヴィート大聖堂の尖塔によじ登り、カレル橋上空を見晴るかす。画家アルチンボルドは黄金の小道にある家からカンバスと絵の具を橋の上に持ち出して、魚をモチーフに人の顔を描いてみせ「水」と名付けて売ったが、観光客は見向きもしなかった。ボヘミアンとしてプラハの街を徘徊するルドルフⅡ世は、乗っていた勝利の白馬を聖ヴァ―ツラフに、天文学者ティコは正義の黒い馬をカレルⅠ世に、主治医マイヤーは争いの赤い馬をヴァ―ツラフⅣ世に、それぞれ捧げて馬を下りた。
「弟子が観測に余念がないマラー・ストラナ(小地区)の展望塔に行ってみましょう。」と、ティコが誘ったのでルドルフⅡ世一行は、バドミントン会場になっているベトジーン公園を横ぎって、ご機嫌伺いに現れた帝室侍医クラートーに向かって、ルドルフはなんとしてでもフェルドナントがアンブラス城に秘め隠したとされるアインキュールン(一角獣の魔法の角)を探し出すよう厳命した。展望塔に上がっていくと、ティコの弟子ケプラーは
(1)各惑星は太陽の周囲を平面軌道を描いて動いており、太陽と惑星を結ぶ動径は、等時間に等面積を描く。
(2)各惑星の描く曲線は楕円で、その二つある焦点のひとつに、太陽が存在する。
(3)すべての惑星が太陽を一周する周期の平方は、その太陽よりの平均距離の三乗に比例する。
この三法則を証明しようと昼夜を問わず、寝る間も惜しんで不眠不休、二十四時飲まず食わず喋らず遊ばず楽しまず、見ざる言わざる聞かざるで師ティコの観測記録データを物色し、星を観測していた。
陸上男子棒高跳び決勝
カレル橋の上、欄干にはひとが鈴生りになり、三十の聖人像と共にひとりの鳥人に注目が集まる。
[陣]鳥人セルゲイ・ブブカ(ソ)はレベルの低いバーの高さをパスし続け、東端のカレルⅠ世像下の芝生に寝っ転がって余裕をぶっこき、鼻歌交じりにピロシキを食べていたが、バーが5m90に上がると、やおら立ち上がり旧市街門塔前、ポールを身体の前に掲げ持ち頬を膨らませ、息を吐き、肩を怒らせ、力を抜き、走り出した。風は南から北へ吹いており、腿を高く上げピッチ上げて、躍動感溢れる助走に橋桁が揺れる。観衆は東から西へと首を巡らせ西の端、マラーストラナ橋門塔に穿たれた銃眼にポールの先端が差し込まれ、ブブカは鳥人になった。
カレル橋上空、展望塔から星を眺めるケプラーの望遠鏡に鳥人ブブカの陰が入り込み、ロレッタ教会の聖なる家で告解していた王妃と司祭の秘密と嘘の只中へ、鳥人は突っ込んでいった。
陸上女子綱引き決勝
東の端、カレルⅠ世に一礼し、旧市街門からガンバレ前畑秀子を先頭に極東の魔女群団が、西の端、マラーストラナ橋門から史上初の女性メダリスト、シャーロッテ・クーパーを先頭にアルビオン女子選手団が入場してくる。
世紀の島国ド根性対決にカレル橋上空をヘリコプターが巡り、鈴生りの観客から拍手と歓声、手拍子足拍子の平仄が合い、橋が揺れ轟く。橋の中央で両選手団、向き合い、リーダー同士握手を交わす。綱を持つ手に緊張で汗が滲み、滑り止めに唾し何度も尻ポケットのロジンバッグに手を入れる。主審が中心線の動いていないことを確認し、
太鼓の音 ドン
両国両者両島、威信を懸けた渾身の力を振り絞り 引っ張り 引こずり 引っこ抜く白熱の国引き合戦の最中、聖ヴィート大聖堂尖塔から、スローガンを構えた男が第二の魔弾を、綱の中心にキャッチコピーされた
゛金の切れ目が縁の切れ目゛目がけて放った。
゛金と女、そして花゛
綱は中央からぶち切れ、両国選手団はそれぞれ両端の門塔へと弾け飛んだ。
三十の聖人像は小躍りして橋が上下し、鈴生りになっていた観衆はモルダウ川へと落下した。
ベルリンフィルとカラヤン
愛車のポルシェを運転し銀白の髪をなびかせてアウトバーンを飛ばす。バックミラーの中にさっきからずっと同じBMWが付かず離れず、映り込んでいる。ギアを上げ時速300kmを越えてなを余力を残して微動だにしない、そんなポルシェをカラヤンは愛した。バックミラーを見ると、BMWが一気に距離を縮め迫って来て
ガクン 追突された。
首を持っていかれ危うく気を失いそうになりながら我に返る。BMWはポルシェの左側面に出てくると、体当たりしてきた。アウトバーンを300kmで並走し、恐怖の感覚が襲ってくる中、BMWの運転席を見た。宿敵ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
フルトヴェングラァー!
フォン・カラヤンは叫んだ。数々の邪魔をされ、幾つもの成功を妨げられ、踏み躙られ、演奏にケチをつけられ、チャンスを握り潰され、すべての努力を反故にされてきた。その不倶戴天の敵がまた飽くことなく、性懲りもなくこちらの名声を妬み嫉み、栄光へと続く進路を塞ぎ亡き者にしようと躍起になって、死に物狂いで体当たりしてくるのだった。アウトバーンは緩やかなカーヴへと差し掛かり、道脇の縁石へ激突させようと車体を寄せてくる。
と、そこへ道の前をアヒルが通り掛かった。カラヤンはハンドルを取られて切り損ね、くるくるとスピンして麦畑へと突っ込んだ。口を膨らませプププププといやらしい音を響かせるフルトヴェングラーの哄笑が木霊す。
アウトバーンの上に戻って走り去るBMWを見送った。カラヤンは麦畑に突っ込んだポルシェのパンクしたタイヤを蹴り上げ、悔し紛れにボンネットを叩きつけた。車内電話でマネージャーのマット―二に電話して、エルベ川からモルダウ川へ北からヨットで遡上してチェコ入りする計画を立て、『ヘリザラⅣ世』号を用意するように指示した。「それからプラハにヨーゼフ(・カイザー カラヤン専属ヘアスタイリスト)を待たせておけ。髪が乱れた。」と伝えた。マット―二が返事をするかしないかで女の声が割り込んだ。
「もしもし、カロヤンさん?」
「きみは誰だ?」
「レッグの助手のイザベラです。カロヤンさん。」
「わたしの名前はカラヤンだ。ヘルベルト・フォン・カラヤン。」
「とにかくカロヤンさん、こっちは緊急事態なんです。汽車が到着したと思ったら、ソ連当局からグレーカードに3人の名前がないと言われて、なんとかならないかドイツ大使館に電話したら、大使は急用でいないって言うんです。それで大使の家まで行ってみると、お出かけ前の入浴中で、御夫人に失礼ですけどお風呂から出してきてくれるようお願いして、バスローブ姿の大使にグレーカードの発行を受け合ってもらいホテルに戻ると、録音係は気絶して床に引っくり返ってるし、その助手の太った女の子はヒステリーを起こしてて、ジェーンは幽霊のように徘徊し、部屋が悪いと団員たちに文句を言われ、第2トロンボーンは脚に怪我して椅子の上にのびてて、第2フルートは行方不明、ハーブとチューバは二日酔いで嘔吐、汚物まみれで、マット―
二さんは「部屋に戻れ!」と楽団員に吼え猿のように叫んでいて、そんな中レッグはウィーンフィルのコンサートに出かけていて、最前列の席でぬくぬくと演奏が始まるのを待ってたんです。」
「きみがなんとかしろ。きみの仕事だ。」
「こんなことになるんなら、初めから引き受けてなんかいませんでした。とにかく、あなたが一緒に来ていただかなくては。規律もなにもあったもんじゃありません。こんな猛獣たちの群れを、どうしてわたしが調教しなくちゃ――」
「ツ――ツ――」
「もしもし?もしもし カロヤンさん?
カロヤン! クソ野郎!」
各種競技会場
チェコロッセオの北、クロスカントリー会場になっているヴェルヴェデーレ離宮では、フィンランド男たちの夢の競演が行われていた。4冠のハンネス・コーレマイネン。1万mの金銀銅を独占したヘッケルト レーティネン
サルミネン。1万m世界記録保持者ヘイノ。5000m・1万mの2種目を2連覇してのけたラッセ・ビレンといった錚々たる顔ぶれが肩を組んで走る中、やはりこの人[在]鉄人パーボ・ヌルミに話を聞かねばなるまい。
インタビュアーに一緒に走ってもらってマイクを向けてみよう。
インタビュアー もうすでに9個金メダルを獲ってらっしゃるのに、なぜ老骨に鞭打ってまで、リュウマチ・ヘルニア・脚気に苦しみながら、まだ走るのですか?
パーボ 君は知らんのか? 五輪最多記録は10個だった。跳躍王と呼ばれたレイ・ユーリー(米)の10個。それがどうだ、超新星アメリカの若造が出現し、14個も獲りよった。カールもいたしスピッツもいた。
記録に挑戦できるのは生きてるうちだし、記録は破るためにある。そうだろう?
インタビュアー いずれにしろ、未来には抜かれてしまうのに?
パーボ 未来に破られるだろうからといって、君は走るのをやめるか?
わたしは走り続ける。抜かれた途端に忘れ去られ、誰も思い出す者はない。その時世界新記録だったタイムも追い抜かれ、世代交代し、若いピチピチした魚が登場し、時代が変わるごと、四年ごとに記憶は薄れ誰も話す者はいなくなる。だからわたしは走り続ける。忘れられないために。
人々の記憶からいつまでも消え去らないように。強烈な印象を植え付け刻み込む圧倒的なパワーと強さを見せつけ、歴史の教科書に載っていつの時代の子供たちも学校で先生からいの一番に教え込まれ、こんな偉大な歴史上の人物がいたのだと、みんなもこんな風に立派な素晴らしい大人になろうね、少年よ大志を抱けと頭に叩き込まれ、洗脳し、脳の皺の襞々に浸み込み、ついには遺伝子レベルへと書き込まれる。偉大な英雄、伝説の作り手、新しき神話の神となって崇められる。わたしは走り続ける。時を止めることはできない。時と共に走り続けることしか、わたしに残された道はない。しかし、ついに時の神々との戦いに敗れ、忘却の淵に溺れ沈む時、死の女神が訪れわたしのまぶたを静かに閉じてくれるだろう。安らかに冥れ 鉄人よ。
おまえは走り、生き、貫いた。もう十分だ。たとえ人々の記憶から忘れ去られ、記録は次々と塗り替えられ消え失せてしまおうと、わたしは忘れない。時の女神はやさしい。太陽の農夫は十分に生き、貫いた者をいつも見ておられ、気に掛けられ、忘れてしまうことはないからだ。おまえは走り、生き、貫いた。
安らかに冥れ パーボよ。
インタビュアー 以上、ヴェルヴェデーレ離宮の会場からでした。
ベムベラベロはプラハ本駅から南へ下った国立博物館を訪れ、「階段の間」で日夜、熱戦が繰り広げられている卓球と重量挙げの会場に入っていった。中国女たちの世界新記録ラッシュに湧き沸騰するその熱気と興奮、気合いに当てられながら、階段を上がったり下りたりしている移動売店でクネドリーキを3つ買い、食べながら玉の行方に首を振り、自分がバーベルを挙げてる気になって思わず力が入り呻き声を上げる。床板にバーベルが落ちる度、溜め息が漏れ、身体を打ち震わせながら足を踏ん張り止め、勝ち誇った紅潮した顔で両腕を頭上まで差し上げると、詠歎の声が聞かれ、打ち振られる紅い小旗にピンポン玉が階段を転げ落ちていく。
大会ボランティアは玉を追ってあたふたし、エッシャーの騙し絵の中を永遠に上がったり下りたりするのだった。
キャッチコピーする女はカレル橋近くの大学の図書館でキャッチコピーすると、ヴァ―ツラフ広場を真っ直ぐ横ぎって、国立博物館前の特設会場に設けられたゲージ内の円盤に文字を刻んだ。スローガンを持つ男は観光客に紛れて、旧市街市庁舎の仕掛け時計を見上げていた。12時になると、常世の長鳴き鳥が出てきて鳴き、骸骨が紐を引いて鐘を鳴らす。砂時計を引っくり返し、ふたつある窓から十二使徒が順繰りに姿を現していく。男はスローガンをしまうと、骸骨の隣りの人形からリュートを盗んだ。
喪服の女
いつものように幕が開き エステート劇場で恋の歌唄うわたしに
届いた報せは 黒い縁取りがありました
投擲会場
火薬塔上空にはヘリコプターが巡り、それを撃ち落とさんと投石器から幾つもの砲丸が投げ上げられていた。アメリカの巨鯨のひとり、ラルフ・ローズが今年一番の潮を噴き上げて、モルダウ川に水柱が立った。
隣りの市民会館バルコニーではハンマー投げの決勝が行われており、ゲージ後方の貴賓席には女預言者リブシェが臨席なさっていた。呻き声、おめき声、おらび声、喚き声、悲鳴、罵声、怒声、奇声、嬌声が天を摩す。アメリカのもうひとりの巨鯨、ニューヨーク巡査ジョン・フラナガンがバルコニーの上でくるくるきりきり舞いしてパッ 手を放す。女預言者は手を叩いて泣いて喜び笑い転げ、ジョンは預言者に拝謁の栄に浴し、手ずから金メダルを首に掛けてもらい両頬に口づけされた。お返しにリブシェの手を取り接吻した。
勝利の白馬に打ち跨がる聖ヴァ―ツラフが見守る国立博物館前、円盤投げ会場では、大会4連覇の偉業がかかる3人目の巨鯨マーチン・シェリダン(米)と5連覇という、さらなる偉業で対抗するアル・オーター(米)、それを阻止せんものと立ち上がった音楽と医術の神ポイボス・アポロン(希)
三つ巴の戦いが繰り広げられていた。メダルのかかったポイボス・アポロンの6投目、光速スピンで身体を捻じくり、手を放す。呻き声、おめき声、おらび声、産声の最中 円盤に刻まれた文字がはっきりと見えた。
愛別離苦
西から東へ風が吹き、観覧席で応援していたアポロンの友ヒュアキントスの頭に円盤が直撃、風信子の花が開いた。ポイボスは泣きながら花を摘みプラハの春、ビロード革命へと続く道を歩いて、火だるまになって死んでいったヤン・パラフの墓に花を捧げた。
ボヘミアン・ラプソディ
ルドルフⅡ世とその一行は彷徨い続けた挙げ句、振り出しに戻ってからくり時計前に来ていた。人形のリュートが無くなっていることに誰も気付いておらず、ルドルフも黙っていた。12時前になると広場の中央に青白い馬に乗った記憶術師、ジョルダーノ・ブルーノが死の女神の扮装をして現れ、ガマの油を売り始めた。
記憶術師ブルーノ さて これに取り出したるは刺し傷、擦り傷、切り傷、咬み傷によーく効く薬 ガマの油。
さてもさても皆々さま、お疑いの目、目 また目 よろしい。
実演つかまつり候う。皆さま、お待ちかね さてもさても摩訶不思議。
闇をも斬れる業物をすらりと引き抜き、わたくしめの腕にエイヤッ 切り傷をば。それ、出てきた出てきた。ドクドクトクと 生き血ナマ血が滴り落ちまする。よい子はマネしないでね。ここへ
先に取り出しましたるガマの油 ぴょいぴょいぴょいと 付けまする。
あーら 不思議 摩訶不思議。これこの通り、元通り、元の木阿弥。不思議だ。いかがかな 寄ってらっしゃい見てらっしゃい 買ってらっしゃいガマの油だよ。切り傷刺し傷擦り傷咬み傷心の傷 なんでもござれ 婆あさまの皸(あかぎれ)に、父さまの切れ痔に、母さまの月のモノに、爺さまの鎌鼬に。ほれこれ、ガマの油だ。ちょうどよかった俺がいて。
持っていってあげてみなされ 家族はみんな大喜び、長寿の家系の誕生だ。
腹いっぱい食べて大いに遊び、笑い、生きて、この世の春を謳歌しなされ。
人生は長い 気は短い ガマの油ひとつあればこの世は太平気楽、平気の平左のこんこんちき。どうかな、奥さん そこの坊や 親孝行がしたいなら、ガマの油を買うことだ。一家の常備薬、いざという時の魔法の薬、万が一の摩訶不思議。贈答品にも最適だよ。
寄ってらっしゃい 見てらっしゃい。
記憶術師は無知愚昧な民衆を呼び込もうと必死だったが、堅忍不抜の民衆は誰も聞かなかった。主治医マイヤーが「その薬をどこで手に入れたのか」訊いたが、記憶術師はのらりくらりと質問をかわし、はぐらかし、曖昧にしてまともに答えようとしなかった。ルドルフが
「いかさま錬金術師(カコウキミクス)ケリーにもらったものだろう。」と図星を当てると、記憶術師は観念してベラベラと秘密の秘密を喋り始めた。
ブルーノ この世界を30の記号によって完璧に記述し、記憶することができれば、誰でも天使の鍵を手に入れることができるのです。それは新しい扉を開く鍵であり、太陽の御姿を垣間見ることができる、真理への階が伸びる唯一の方法なのでございます。言葉は真実のイメージであり、文字は神の影です。イメージが新しい時、世界は美しく、イメージが完璧な時、世界は実現します。神が顕現するのです。記憶術を我が物に体得できた者は、世界を実現できる神なのです。完璧なイメージになって世界が記述される時、未来も過去も今もなくなり、あなたもわたしもどなたでも神と向き合い、神となる日が来るのです。今おられ、かつておられ、やがて来られる方。鶏が鳴き死の女神が鐘を鳴らし、砂時計を返す時、あなたの新しい生が始まり、あの人はもうすぐそこまで来ているのです。おお盲者たちよ 気付かないのか
普遍の相のもとに不一致を一致させる方がおまえのすぐそばに、その方はおられるのに。愚鈍な大衆たちよ 悔い改めよ あの方はもうすぐそこまで来ている。悔い改めよ 小宇宙と大宇宙が照応し、小に宿る大、秘められた文字が宇宙の法則を記述する。細部に宿る種々雑多な世々相は、世界の本質的な多様性の現れであり、これら被造界の万物を秘められた文字、精神の内なる光によって統合し、調和せしめる。世界が完璧に記述され記憶され、イメージが新しい時、普遍の鍵がおまえの手の中にある。真実は太陽であり、欲望に目が眩んでいる者、腐った心で見る者の目は潰れる。太陽の農夫は時を計り、今を知り、季節を見計らって種を蒔き真実の果実、黄金の果実を手に入れるのだ。悔い改めよ 時は迫っているからだ。
記憶術師は唾を飛ばして民衆に叫んだが、誰も聞かなかった。
ルーマニアの妖精を追って旧市街にあるユダヤ人墓地に迷い込んだベムベラベロは、折り重なって続く墓石の間を妖精に導かれ通り抜けた。シナゴーグでラビ、イェフダ・レーヴ・ベン・ベーサレルに会い、ゴーレム研究を見せてもらうことができた。
「はやく人間になりたい。迫害され、ポグロムされ、ディアスポラし、ゲットーに隔離され、ジェノサイドされ、ホロコーストされ、ガス室に送られても、沈黙を守り従容と死んでいく。野に咲く名もない花のように、力強く、ゆっくりと、しかし確実に賢明に、産まれ育ち、殖え、繁盛し、地に満てる者たちがいる。彼らは踏まれても踏まれても何度でも蘇り、神に愛された選民だ。はやく人間になりたい。醜く弱く、そして強く逞しい、人間になりたい。」
ふたりの証人
大会役員は去り際に「明後日、石の家で開かれる予審に出頭するよう」国家労働災害保険局員Kに告げた。ひとりの役員はボヘミアングラスを持ったまま家を出ていった。Kは憤慨し絶対に行かないと決めてしまったが、両親や親戚、会社の同僚、上司、友人にまで迷惑が掛かるのではないかと考え始めると、部屋の中を動き回り這い回り天井にまで逆さに張り付いて、居ても立ってもいられず、開廷時刻の一時間前には家を出ていた。マラーストラナ地区にある「3羽のダチョウ館」でやっていたボクシングを観戦しながら、黒ビールを一杯引っかけた。4連覇のかかっていたテオフィロ・ステベンソン(キューバ)とカシアス・クレイ(米)の試合は判定に持ち込まれ、結果を見れないまま店を出た。カレル橋を渡り旧市街広場の隅にある石の家に入ると、柔道が行われており主審の予審判事と副審のふたりの陪審員、青い藺草の匂いが清々しい畳の上にふたりの証人が上がる。
始め!
ひとりめの証人は黄金の小道の取っ付きにアトリエを持つ画家で、男子100m決勝が行われていたちょうどその時、
「自分は虐殺した嬰児を組み合わせてヘロデ王の顔を描いていたのだが、カンバスからふと目を上げると、窓の外に肉の塊が飛ぶのを見たのだ」と、証言した。もうひとりの証人は東の奥の家で金メダルを鋳造していた彫金師で、ちょうどその時、
「メダルが一個仕上がって空気を入れ換えようと窓を開けると、
゛わたしはすぐに来る゛ という声が聞こえ、見ると肉の塊があった」と証言した。このふたりの証言から予審判事はKを有罪と決定づけ閉廷しようとした。Kは異議申し立てを繰り返し、主審の予審判事は副審のふたりの陪審員と協議していたが、判定は覆らなかった。Kは目を見開き両手を大きく広げ首を振って抗議のアッピールをし、
「これは柔道じゃない JUDOだ!」と叫んだ。
後日、最終審判が下されることが伝えられて槌が打たれた。
ベルリンフィルとカロヤン
「ヘリザラⅣ世」号を軽快に操ってモルダウ川を遡りチェコに入っていく。終日、何事もなく過ぎひねもすのたりのたりと白河夜船を楽しみ、このまま無事にプラハへ着けると高を括っていたのがあにはからんや、急変したのは3日目の朝のことだった。船底にぽっかりと開いた穴から浸水が始まっており、喫水線は水面の下に沈んでいた。前日の夜、岸辺に停泊しカロヤンが仮眠を取るのを見計らい、全身黒ずくめで覆面をした何者かがカヤックで音も立てずにヨットに近づき、まんまとやってのけたのをカロヤンは知る由もなかったのだ。艇上でバケツを持ち右往左往しているマエストロを、もうひとりのマエストロがチェコ伝承の地、遥かジープの丘から望遠鏡で眺めていた。プププププ と口を膨らませ、いやらしい音を連発し気分は上々。
アーチェリーの矢に文を結んでひょうと放った。矢文は「ヘリザラⅣ世」号のメインマストにビーンと突き立ち、カロヤンは矢を柱から抜いて文を開いた。
゛奇蹟のカロヤンへ
雌雄を決する時は来た。伝説の地ジープの丘で待つ。
ダウンヒルで勝負だ。
今世紀史上最大最高のマエストロ
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー゛
カロヤンは髪をメチャクチャに掻き毟り、沈みゆく艇内の電話でマット―二を呼び出した。「スキー用具を一式至急、チェコにあるジープの丘まで運んでくるように。ヨーゼフに必ず、プラハ城正門で待っておるように」指示した。マット―二が返事する間もなく
「カロヤン!来て下さい!」
「きみは誰だ?」
「イザベラです。レッグの助手の、とにかく来て下さい。コンサートマスターのストラディバリウスが盗まれたんです。泣き喚いて、誰彼構わず復讐してやると叫んでるんです。」
「きみがなんとかしろ。わたしはフォン・カラヤンだ。カロヤンじゃない。これはきみの仕事だ。」
「そうはおっしゃいますけどね、カロヤンさん。団員たちには手の施しようがないんです。あなたでなければ、ホテルの部屋が汚いだのシャワーが出ないだの、飯が不味いだのアヒルのおまるを買ってこいだの、レッグは毎晩オペラに入り浸りで、わたし達の連絡係には連絡が取れなくなり、トロンボーンは朝から下痢でピーピー言ってますし、オーボエはわたしに向かって「割り増し賃金が出ないなら演奏はしない」って言うんです。「これは楽団全員で話し合って決めたことだ」と言って、広場で座り込みまで始めて――」
「ツ――ツ――」
「もしもし? カロヤン もしもし? K? クソビッチが!」
女子体操個人総合
マラーストラナの南を縁取る1・2キロの餓えの壁上において、[者]五輪の華 東京の恋人 チェコのニューヒロイン、ベラ・チャスラフスカがバク転し続けて喝采を受ける中、ルーマニアの妖精ナディア・コマネチは10点満点を連発して観衆からどよめきが上がる。
男はスローガンをリュートに持ち替えて場末の酒場「金の鵞鳥」で流しの歌手として活躍していたが、またぞろリボルバーの感触が懐かしくなって、トリガーを引きたくて人差し指がうずうずするようになった。フラチャニの丘の東端にひっそりと棲まう気のいい男ダリボルカの所へ、リュートを預けてしまうと、あと1発残るスローガンを手にした。
喪服の女
あれは三年前、止めるあなた駅に残し
動き始めた汽車にひとり飛び乗った
マラーストラナの昼下がり 聖ミクラーシュ教会の前で佇み
喪服のわたしは 祈る言葉さえ失くしてた
女と竜
国王ヴァ―ツラフⅣ世は王妃ソフィアのお腹がぐんぐん膨らんでいくのに気付いた。夜の営みが失われて久しく、国王は夜々悶々とし誰にも打ち明けられない苦しみにひとり、スポーツの祭典にも気が紛れず、躁と鬱を繰り返すようになった。懺悔聴聞司祭ヤン・ネポムツキ―を内々に呼び出し、王妃の告解内容を聞き出そうとしたが、ネポムツキ―は頑として口を割らず沈黙を貫き、ふたりの秘密と嘘を守った。怒り狂った王は妃に面と向かって「お腹の子は誰の子か」問い質した。王妃は顔を真っ赤に染めて、
「処女懐胎した子でございます。」と答えた。
王は逆上し聴聞司祭を城の北、白塔へと幽閉し、この世のものではないような拷問を繰り返した。王妃を東の端、黒塔に閉じ込め、国王はダリボルカの所を訪れて自分の哀しみを縷々綴った。ダリボルカはリュートを爪弾き愛国の歌を謳った。
竜が西から現れた時、誰もこの国を救おうとはしなかった。
アルビオンも ガリアも ロシアも 口に指を銜え、ただ黙って見過ごした。
ズデーテンランドはあたかも砂山に立てた棒を倒さぬように、両手で上手に抉り取られ、屍肉にたかるハイエナのようにポーランドとハンガリーが肉の一片を持っていった。
チェコよ スロバキアよ 我が祖国はどこにあるか
ハイドリヒは亡きものにしたが、リディツェ村は男子全員が射殺され、村は破壊し尽くされた。
聖イジ―も 片眼のヤン・ジシュカも イジ―・ポジェブラディも 聖ヴァ―ツラフも カレルⅣ世も現れなかった。
プラハよ ボヘミアよ モラヴィアよ 我が祖国はどこにあるか
西から竜が現れた時、すべての者がこの国を見捨てた。
チェンバレンも ダラヴィエも おおチェコよ プラハよ
誰がおまえを救うのか。来てくれ 新しき者、新しき者が新世界を打ち開き
新しき歌を謳え。
憂国に沈む者がボヘミアンラプソディーを歌うのはもうやめよう。
新しき者が新しき歌を謳え。
ネポムツキ―は黙秘し通し黄金の塔を作り上げて気絶し、水をぶっかけられては沈黙を守った。処刑の日、懺悔聴聞司祭ヤン・ネポムツキ―はIOCの大会役員によってカレル橋上に設置された、男子体操のつり輪で逆さ十字懸垂に吊るされた。塚原(日)が鉄棒でツカハラし、トカチェフ(ソ)がトカチェフし、森末(日)が平行棒でモリスエし、ディチャーチン(ソ)が跳馬でディチャーチンし、シェルボ(EUN)がシェルボで6冠を獲得した。
30の聖人像と欄干に鈴生りになった観衆が見守る中、ネポムツキ―はモルダウ川に投げ込まれた。その時、
展望塔で観測していた弟子のケプラーは火の三宮に五つの星が輝くのを見たと、師ティコに報告してきたが、師は「幻覚だ。夢でも見たのだろう。疲れているんだろう、少し眠りたまえ。」と相手にしなかった。以前に九つの流星群を観測した時も、一笑に付されてそれで終わりになったことがあった。
ケプラーはふて腐れて展望塔を下り、登山列車に乗って童心に帰って遊びはしゃぎ、羽目を外して憂さを晴らした。
二匹の獣
硫黄島の説教師ヤン・フスはマリオネットを操る手を休め、硝煙弾雨の戦場を頭上にしながら掩蔽壕の壁に、獣の数字666を書きとめた。
チェコロッセオを少し下ったフラチャニの丘の中腹にあるヴァルトシュテイン城は、ヘラクレスとアンタイオスの像に相応しくパンクラスの会場になっていた。[闘]人類最強アレクサンドル・カレリン(露)が日本男児の奇襲に遇い、13年振りに敗退、夢の4連覇が潰え去るという大波乱が巻き起こった。人類最強の男が何に負けたのか それは自分自身に負けたのだ!
敵は己の中に、マトリョーシカのように存在していた。練習し、努力し、鍛錬し、勝ち続け、勝利を重ねていっても、つねに敵は己の内側に存在していたのだ。
キャッチコピーする女は移動売店に置かれたルルスの記憶装置でキャッチコピーすると、プラハ本駅へと向かい、構内放送室に陣取った。
喪服の女
蔦が絡まる白い壁 細い影長く落として
ひとりのわたしは こぼす涙さえ忘れてた
暗い待合室 話すひともないわたしの 耳にわたしの歌が
通り過ぎてゆく
画家アルチンボルドは今日もカレル橋の上で絵を売っていた。チェコロッセオに向かって橋を渡っていたベムベラベロは、ルドルフⅡ世一行と偶然一緒になり、アルチンボルドの絵の前で足を止めた。器に野菜を盛った静物画が上下逆しまに引っくり返すと、ひとの顔になった。ベムはひとり、つぶやく。
「見方を変えるだけで野菜がひとになった。見方を変えれば妖怪も人間に、人間も妖怪になる。妖怪のおれ達からしたら、人間も奇異なる面妖なる生き物だ。おれ達も見方を変えたら人間じゃないのか。」
「見るのは相手だ。人間がわたし達を見て、妖怪か人間か決めるんだよ。自分で自分を判断するんじゃない。」
「自分がいくら人間だと思ったところで、人間がそう思わないんじゃ、妖怪は妖怪だ。」
「相手の見る目を変えるにはどうすればいいんだい?」
「相手は、自分を映す鏡だ。自分が変われば、鏡に映る自分も変わる。」
「だからどうやって妖怪は人間に変わるんだい。それが分からないからこうして百年も彷徨っているんじゃないか。」
「妖怪は、やっぱり妖怪だよ。」
ルドルフⅡ世はそこで売られていたアルチンボルドの絵を全部、ツケで買い取った。
「野菜をひとに変える術も、妖怪を人間にする術も、水銀を黄金に変える術も小に宿る大を見る術も、方法はひとつだ。天使の鍵によって黄金の扉を開き、新しい世界がイメージされる時、自分は生まれ変わり新しい生を生きることになるだろう。
黄金の小道でわたしの友人たちが賢者の石の精錬 魔法石(マジカルジェム)の錬磨 金メダルの収集 太陽の水銀の抽出 不老不死薬の研究 錬金薬液の精製 武器軟膏の開発 天使召喚魔術の実践 降霊術の啓蒙 ゲマルトリア(経典、秘文などを解釈する際に文字を数に置き換えるカバラ的操作術)の勉強 世界迷宮、世界図絵の作成、印刷 天使の鍵の抽出に余念がない。ディー、ケリー、コメニウスという名だ。従いてきなさい、紹介してあげよう。」
ルドルフⅡ世一行とベムベラベロは共に彷徨い、アルチンボルドも店を畳んで一緒に帰ることにした。
カロヤン対フルトヴェングラー
ふたりの世紀の巨匠、マエストロとコンダクターはスキー板を履いてジープの丘に立ち、プラハの街を遠く見晴るかしていた。
「かつて、その昔 この丘に建国の父チェフが立ち国作りの神話が生まれたという。おまえがチェフか わたしがチェフか 今こそ決着をつける時が来たようだ。初めて会った時からおまえが気に入らなかった。
生意気で賢ぶり、いい子ぶりっ子して愛想を振り撒き、わたしに追いつき追い越し追い落とす、わたしの頭を踏んで高みに昇っていく者と知っていたからだ。あらゆる手立て、方策、謀略、恐喝、脅し、奸策の限りを尽くしておまえの出世を妨げた。しかしおまえは、踏めば踏む程、卑しめ辱しめ虐げ、虚仮にすればする程、地中深くに根を張り広げ大きく高く上へ上へと伸びてくる、たちの悪い雑草のようにしつこく、いやらしく地にはびこった。摘んでも詰んでも善の原の中から化生してくる悪の権化ルチフェロ、サトゥルヌスのように。
おれはおまえが憎い。おまえの端正な顔立ち、きっちり固めた髪型、おしゃれでスポーティで粋なファッション、立ち居振る舞いのなにもかもがいちいち癪に障り、癇にさわる。自分の顔以外は見たくもないと言わんばかりに目を閉じ自己陶酔するナルシズムずっぽしのおまえが憎い。ここできっちりと落とし前、片を、けりをつけてやる。おまえは異国の地で異邦人となり、見知らぬストレンジャーとして非業の死を遂げるのだ。
おまえがチェフか わたしがチェフか 行くぞ!」
フルトヴェングラーは飛び出し宙を舞った。カロヤンも後に続き、舞い出る。風が耳を劈(つんざ)き、空気の壁に身を晒し躍らせてふたりのマエストロは、文目も分かぬ霧の中へと突っ込んでいった。
「どうした! カロヤン 神の如きカロヤン
奇蹟を起こせないのか? どんどん離れてるぞ!」
フルトヴェングラーはプププププと いつものいやらしい音を口から発して前を滑り、カロヤンはクリスチャニアを繰り返し懸命にシュプングして追いつこうと焦ったが、差は開くばかりだった。
「プププププ どうした! カロヤン 奇蹟を起こしてみろ
神の子なら 父が助けてくれるはずだ。 どうした!」
後ろを振り返って嘲笑し首を戻した瞬間、一羽のあひるが飛び出し、方向転換し損ねたフルトヴェングラーは
ああ雪煙蹴立てて転倒し丘を転がり落ちていった。悲鳴と罵声をあとに残して、二十世紀最高のマエストロと言われた男は底なしの暗き淵へと沈む。
「哀れだ、あなたは。そこまであとから来る者を気にし、虐げ妨げ、邪魔をし捻り潰そうとしなくとも、あなたは後世に幾世代も語り継がれ名を残す偉大なマエストロだったのに、いたずらに命を縮めてしまって。
あなたがわたしを虐げ、卑しめ、虚仮にし、スポイルすればする程、わたしは我慢強く、強かに鍛え上げられ、待つことを知るようになった。時を味方につけ、成功をものにする術を身につけ、残りものには福があることを知った。
安らかに冥れ、マエストロ 次のベルリンフィルを率いるのはわたしだ。
天国でわたしの楽団が演奏するベートーヴェンを聴くがいい。宇宙の音楽奏でられ、惑星たちが楕円を描く時、天使の歌声相和し、世界市民たちは歓喜の涙を流すだろう。
聴け、マエストロ わたしの音楽を聴け!」
カロヤンは丘を下りプラハの北、ムニュルニクという村からマット―二に電話し、「プラハ郊外までハーレーダビッドソンを回してくるよう、城門前にはくれぐれも、おさおさ怠りなくヨーゼフを待たせておくように」伝えた。
「K! わたしはノイローゼになってるんです。団員たちはストを止めようとせず、街中でビールを浴びるように飲んでバカ騒ぎを繰り返し、ホテルで吐くわ戻すわ咽(えず)くわ泣くわ喚くわ、立小便をしたとかしないとかで警官と揉め事になって、「闇に紛れてしたんだからいいじゃないか」と第二バイオリンが言うと、「どこであろうと誰であろうと、ここプラハで風紀を乱すような変態行為は許されない」と警官は突っぱねて、そこへなんとわたしが仲裁に入るんです。信じられます? 天下のベルリンフィルともあろうものが。男の特権だの、沽券にかかわる、表現の自由だなど、そんなことはわたしにはどうだっていいんです。レッグは毎晩、ソプラノ歌手を追いかけ回して契約しようと躍起になってて、マット―二は団員たちとは口も利きません。ジェーンはホテルの中をゾンビのように歩き回って、ヨーゼフさんはホルンの髪を完璧に仕上げてしまいました。プラハじゅうのいい物笑いの種です。わたしの髪にも触ろうとしたので、はっきりとお断りして――」
「ツ――ツ――」
「K! この目つむり皮つむりクソ野郎が!」
審判
国家労働災害保険局員Kは有罪が確定し、黄金の小道の家からの立ち退きを命じられた。プラハの街を彷徨い「3羽のダチョウ館」でビールをがぶ飲み、「金の鵞鳥」で流しの歌を聞いた。次の店、次の居酒屋、次の屋台、次の移動売店、次の自動販売機とはしごしていると、秘密警察の張っていた非常線に引っ掛かり旧市街広場に連行された。
12時 鶏が鳴き 骸骨が鐘を鳴らし 砂時計が返され 十二使徒が順繰り現れる仕掛け時計を見ながら、Kは消音装置(サイレンサー)の付けられたピストルで消された。今もその場所に28個目の十字架となって刻印されている。
広場を巡る馬車の窓から、グランドスラム(全豪・全仏・全英・全米)とオリンピック女子テニスシングル優勝というゴールデンスラムをやってのけたシュティフィ・グラフ(西独)が顔を覗かせ観光客に手を振って応える。
馬車の止まったティーン教会場ではドリームチーム(米)、空飛ぶ(エアー」ジョーダンと魔術師ジョンソンに率いられた12人の怒れる巨人たちが、記憶の劇場を現出していた。
黄金の小道、再訪
画家アルチンボルドはアトリエに戻ると、果実と野菜を用いて農耕の神ウェルトゥムヌスの姿をしたルドルフⅡ世を描き、王に献呈しようと思い立っって早速、制作に取り掛かるのだった。ボヘミアン一行が東の奥の家を訪ねていくと、実験に明け暮れる錬金術師とその助手、牧師は鎔かした金メダルから抽出した何の鍵だか分からない鍵を前にして、侃侃諤諤の激論を戦わし首をひねっていた。ディーは「ゴルフトーナメントの優勝者がジャケットを着て受け取る車の鍵だ」と断言し、助手のケリーは「貞操帯を開ける鍵だ」と主張し、コメニウスは自著「世界図絵」を開いて見せ「世界を記述するための記号」「子供たちを教育するための絵文字」「アダムが物につけた名前」「迷宮から脱出するための鍵」だと説明した。三人相譲らず睨み合いが続く中、ルドルフが試みに家の奥の開かずの扉の鍵穴に差し込んでみると、見事に開いた。中は昔、ビールの貯蔵庫だったらしくプーンと麦芽の匂いがし、地下通路の先にある扉を開けると、黒塔に幽閉されている王妃がビア樽の上でしくしく泣いていた。王妃のお腹はすでに臨月間近で肩で荒く息をつき、「また蹴った」とつぶやいた。
ルドルフが手を貸そうとすると、王妃はそれを払い除け「国王に復讐してやるためマラソン競技にエントリーしてやる」と宣言した。皆、「それは無茶だ」と止めたが、「女の底力、女の又力(努)を見せつけてやる。母でも金
妊婦でも金だ、絶対に出場する」と言って聞かなかった。仕方なく、大会役員でもあるティコが名前をファニーと偽って、委員会へ出場登録しに行くことになった。主治医マイヤーは王妃を診察し、「予定日は一週間くらい先だが、走れば破水、流産する可能性もある」と棄権することを勧める。ソフィアは預言者リブシェが取り憑いたかのように「この国を耕す者 栄光と歓喜に導く牧者を探すのだ」と言って喚き立てた。
ベムベラベロは錬金術師とその助手と牧師に「人間になるにはどのような方法があるのか」訊ねた。ディーは「細部と宇宙の和合」だと言う。コメニウスは「世界絵図を丸暗記するといい」と答え、助手のケリーは「ガマの油を局部に擦り込め」と教えた。
ルドルフはノストラダムスに作製させたホロスコープを取り出し、しばらく星の巡りを見ていたが、王宮から天文学者ハーイェクを呼び寄せ「ヴェネツィアからすぐさま、アルブレヒト・デューラーの『薔薇冠の祝祭(ローゼンクランツフェスト)』を運んでくるよう」指示した。画家アルチンボルドのアトリエを訪ね、農耕の神ウェルトゥムヌスになった自分を見た。
「これはわたしだ。」とルドルフはつぶやいた。
ベルリンフィルとカラヤン
ムニュルニクの町から南 一路、プラハへ。ヘルベルト・フォン・カラヤンはハーレーダビッドソンを飛ばす。世界の大舞台は大詰め、閉会式が迫っており、グランドフィナーレに穴を開ける訳にはいかなかった。フルスロットルで
ドドドドドドボボボボボ
プラハの空を聖ヴィート大聖堂の尖塔が刺し貫き、フラチャニの丘の上、チェコロッセオが教会を取り囲む。
とうとうやって来た。感慨深いものがこみ上げてきて、感無量ほっと溜め息をついた。が、―――
背筋を悪寒がはしる。振り向くと巨大なトラクターを運転する、身体中に包帯を巻いた者がやってくる。
フルトヴェングラァー!
フォン・カロヤン!
ハーレーダビットソンとトラクターがカレル橋の上を並走し、並び立つ三十の聖人像はフラチャニの丘目指して爆走するふたりを驚きの目でもって見送る。マラーストラナ橋門塔、聖ミクラ―シュ教会の角で嫌と言う程車体を擦り、トラクターの後輪がカラヤンを巻き込もうと車体を寄せて来る。折り返しの坂で潰されそうになったカラヤンを、フルトヴェングラーは包帯の隙間から覗く目を細めプププププと いやらしい音を洩らした。チェコロッセオへと続く丘を二台は車体部品を撒き散らしながら駆け上がる。聖ヴィート大聖堂 光り輝く尖塔にラピッドファイヤースローガンを持った男が第三の魔弾を込め、引き金(トリガー)を引く。
゛音楽は絵画のように゛
トラクター上で口を膨らませ、いやらしい音を出していた肺を魔弾が貫通し
世紀の巨匠は永遠の冥りにつく。
安らかに冥れ マエストロ
フォン・カラヤンは正門前でハーレーを乗り捨て、衛兵の家の中に座ってじっと待っていたヨーゼフに髪を整えさせた。マット―二が状況を報告する。
「これから最終種目のマラソンがスタートする」こと、「トップのランナーがコロッセオに入って来たその時、第四楽章が始まるようIOCから要請があった」こと、「レッグは録音機材のトラブルチェックで手が離せず、出迎えられないことを詫びといてくれ」と、マット―二がなおも話し続けようとしていた所へイザベラが飛び出してきて、団員たちが「割り増し賃金を払わなければカラヤンが目をつむり、指揮棒を掲げても一切、演奏しない」そう言ってるとまくし立てた。カラヤンは「出してやれ」と言い、歌手たちは揃っているか訊いた。イザベラは忌々し気にカラヤンの髪をいじくるヨーゼフのしなやかな手捌きと、シンフォニーをイメージしながら蝶のように舞い、蜂のように刺すカラヤンの手振りを交互に見ていたが、
「バリトンの説教師ヤン・フス。テノールのクーベルタン男爵。ソプラノのベラ・チャスラフスカ(チェコ)。アルトのちあきなおみ(日)。みんな来て待っている」と答えた。カラヤンは頷き、ヨーゼフはセット完了を告げた。
マエストロ、ヘルベルト・フォン・カラヤンは立ち上がりマーチャシュ門の移動売店で黄金のタクトを買い求め、マラソンゲートをくぐった。競技場内、十四万四千人のコロスから割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こり、カラヤンは貴賓席で立ちあがって拍手しているヴァ―ツラフⅣ世に一礼し、聖堂の入口で待っていた歌手のひとりひとりと握手していった。ステンドグラスに光が射し込み、聖火燃える薔薇窓の下まで銀髪をなびかせながら颯爽と階段を駆け上がると、指揮台に上がった。ベルリンフィルの楽団員たちは敵意ある目つきでカラヤンを見据え、たとえ神の如きカラヤン 奇蹟のカラヤンであろうと、指一本 眉ひとつ動かすまい。頑強に反抗、抵抗し、抗議し、抗争を繰り返し非暴力・不服従の態度で臨もうと前日の夜、コンサートマスターの呼びかけで集まった評議会において楽団員一同、意見が一致し団結したのだった。
フォン・カラヤンはそんな団員たちの傲慢、慢心、瞞着に一向頓着する様子もなく、神聖ローマ皇帝となって楽団員たちの上に君臨し、一瞥の下に睥睨して見せた。目を閉じ、タクトを掲げる。
楽団員たちは楽器を構え、神には逆らえないことを知った。
ベートーヴェン 交響曲第九番ニ短調作品125〈合唱付 き〉 (1824)
第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ ウン・ポーコ・マエストーソ
最終日マラソン
大会最終日、プラハ南東に位置するカルルシュテイン城前のスタート地点には、名立たる選手たち、錚々たるメンバーが並んでいた。初代王者である羊飼いスピリドン・ルイス(希)が二頭の仔羊を連れて現れた時は、町じゅうの者が手を叩いて歓迎した。前代未聞のキセル男フレッド・ロ―ツ(米)がいる。今回も大会役員に付き添われ出場することが認められたドランド・ピエトリ(伊)。神出鬼没の雲隠れ男、金栗四三(日)。[皆]人間機関車チェコの英雄エミール・ザトペック(チェコ)。[臨]裸足の王者アベベ・ビキラ(エチオピア)。高地トレーニングで極限まで身体を絞り、血液中の酸素濃度を上げ心肺機能を高めてきた日本女(日)。始まる前から夢現のガブリエラ・アンデルセン(スイス)。詰め掛けた観衆を非常に気にしているバンデルレイ・デリマ(ブラジル)。ファニーことフランシナ・ブランカ―ス・クン夫人(蘭)は、大きなお腹を抱えてうんうん言いながら入念に準備体操、屈伸運動をして体をほぐしている。夫にも子供にも医者にも友人にも両親にもコーチにも国民にも止められたが、どうしても出たいと押し切って来た。齢(よわい)30歳を越え100m、80m障害、走り幅跳び、走高跳びの世界記録ホルダーであり、しかも今大会すでに女子100m、80m障害、200m、400mリレーで4冠を達成している。にもかかわらず、「なぜ、そこまでしてマラソンにまでまだ走ろうというのか」と、夫は訊いた。夫人は
「そこに金メダルがあるから。」と答えた。
最終種目、気温28℃ 湿度70% スターターが台の上に上がると、城前の中庭に群がった観衆、屋根の上に陣取った村人から拍手と歓声、指笛、手拍子足拍子が起こり
太鼓の音 ドン
選手、一斉にスタートを切った。
第2楽章 モルト・ヴィヴァ―チェ
ハプニング
先頭集団を日本女が牽引いており、その後方を裸足の王者アベベ・ビキラ、人間機関車ザトペック、バンデルレイ・デリマといったあたりが虎視眈々と前を窺っている。スローペースの展開で、羊飼いルイスは二頭の仔羊をうまく追いながら先頭集団の中程にいて、クン夫人はえっちらおっちらお腹を揺らしながら付いていっている。スタート直後から気温がぐんぐんと上昇し現在33℃、炎天下の灼熱地獄レースの様相を呈してきた。
日本の金栗四三は気を失って雲隠れしてしまい、前代未聞のキセル男ロ―ツは熱射病に罹って急遽、救急車でプラハの病院に搬送されていく。大会役員が伴走するドランドは意気軒昂、快調そのもので沿道の観衆に手を振りながらの余裕綽々のレース運び、つねに観客の動向を警戒し、疑い、キョロキョロしているデリマとは大違いである。スタート前からすでに様子のおかしかったアンデルセンは集団から大きく引き離され最下位ながら、フラフラしながらもなんとか懸命の走りでレース自体には食らいついている。
トップ集団を引っ張る日本女は汗ひとつかかず、息ひとつ乱れず、表情ひとつ変えずひたひたと、坦々と走る不気味な存在で、アベベもザトペックもこれは油断ならない、侮れない、険呑な相手だと付かず離れず、ぴたりとマークしてレースは中盤へと差し掛かっていく。駆け引きは一段と激しさ、巧妙さを増し出るか出ないか、前か後ろか、スパートのタイミング、他の選手と自分の体力消耗度と余力を秤に掛け、コースの起伏、残りの距離、5キロごとのラップタイムを読む。篩に掛けるのは俺か、掛けられるのはおまえか。足が当たる。風除けにする。日陰を走る。靴を踏む。スポンジを奪う。スペシャルドリンクを倒す。肘で肋骨を小突く。獣の集団となって先を争いくんづほぐれつの肉弾戦。一匹の巨大な怪物レビヤタンのようになって角を曲がり、右に見える大麦畑、左はビール工場、一気に加速してこの道は、まるで滑走路だ。プラハ(第三楽章)に続く。
第3楽章 アダージョ・モルト・エ・カンタービレ
給水地点
誰もが牽制し合い機を伺い、なかなか前へ出られない中にあってペースメイカーのいるドランドは、身も心も軽く快調をそのままキープし、ジョグ感覚で余力を十分残しており、日本女がピッチを上げたり下げたりしてジャブを繰り出して、人間機関車ザトペックの眉間に深い縦皺が刻まれ徐々に険しさを増してきた。気温は36℃を越えていた。最下位のアンデルセンは、並走しながら「棄権するか?」と訊いてくる大会役員の声も耳に入らず、夢現の中を走り続けた。給水地点で二頭の仔羊に水をやるルイスを見た時、クン夫人の皮を被った王妃ソフィアは、この人こそ地を耕す者プシェミスルだと確信した。と、突然 付いていたペースメイカーが日射病でダウンしパニックに陥ったドランドは、徐々に先頭集団から遅れはじめ、気を失っては倒れ立ち上がっては倒れ歯を食いしばって膝に手をやり、朦朧とした意識のまま走り続ける。雲隠れ(ドロン)した金栗は民家に上がり込んでひと休みしており、エアコンのキンキンに効いたリビングの快適なソファに寝そべって、出されたクネドリーキを頬張りながらTVのマラソン中継を見ていた。
小旗を打ち振って応援してくれる二重三重の観衆の波がどうしても気になって仕方ないデリマが、沿道の声援に押し出されるように前に出ると、日本女 アベベ ザトペック クン夫人が続いた。トップ争いはこの五人に絞られたかと思われたその頃、プラハの病院前で救急車を降りた前代未聞のキセル男ロ―ツが、痴れっと競技場に向かって走り出しマラソンゲートをくぐってトラックに入ってきた。電光掲示板はまだ1時間36分になったばかりで、十四万四千人の観客(コロス)はどよめき、トップのランナーが入ってくるのはもう少し先だと思っていたフォン・カラヤンは慌ててすぐに第4楽章に入ろうとしたが、ロ―ツのキセル乗車が発覚し大会ボランティアが8人掛かりで取り押さえ、失格を告げたのでカラヤンは安心して目を閉じた。
35km終盤、デリマが集団から抜け出し10メートル、20メートルと差が開き独走態勢に入る。後先考えず振り返らず、行ける所まで行ってやれとデリマが沿道の観衆から目を離した刹那、大会ボランティアが等間隔に並んで作る境界線をかいくぐって不審者が飛び出してきた。怒った観客は不審者を袋叩きにし、悪魔憑きの阿呆を肥溜めに沈めた。あともう少しのところでクン夫人は産気づき破水が始まって、もう駄目かと観念したその時、羊飼いルイスが一頭の仔羊に夫人を乗せ、なんとかゴールへと向かう。メダル圏内に日本女、裸足の王者アベベ・ビキラ、人間機関車ザトペックで決まりであろうが、あとは色がどうなるか。
39km地点、アベベがスパート。ザトペックが付いていく。日本女は少し遅れた。三人は縦一線になりながらプラハ市内へと入ってくる。市民たちは沿道で声を掛け、旗を振り、手を叩いてポルカを踊った。カレル橋上空にはヘリコプターが巡り、三十の聖人たちが共に走り、聖ヴィート大聖堂を目指す。フラチャニの丘を駆け上がると、正門両脇の衛兵が敬礼し、ふたたび三つ巴の団子状態になってマーチャシュ門、マラソンゲートをくぐりチェコロッセオ内のトラック勝負へ。
第4楽章 プレスト
NON PLUS ULTRA
十四万四千人のコロス、登場(パロドス)
コロス 歌え! 勝利の歌を
世界市民の我々が、彼ら強く 美しく 逞しい
人類の華 緑の精鋭たち さまざまな民族、種族、言葉の違う民、国と地域、人種が集い幸う喜びの祭典 驚異のウルトラマジック
プラハの春の競宴に咲き集うた五輪の花を愛で称える!
説教師ヤン・フス 来たれ! 九人のアスリートよ
我が手の内で踊り明かしてくれた夜々の数々
ひとの慰めとなり 喜びとなり 勇気となり 力となって皆の期待に応えてくれた
人類の誉れ 栄光の簒奪者 喜びの糸を紡ぐ太陽の精霊たち
トップアスリートたちよ 来てくれ!
我々はいつも、あなた方を畏れ敬い 美しき一挙手一投足に我が身を重ね、思いを委ね、喜びを喜び 悲しみを悲しみ
共に生きているのだ
コロス おお 見よ
裸足の王者アベベ・ビキラを チェコの英雄、人間機関車ザトペックを
悲壮感を漂わせ 深く刻まれた眉間の縦皺に
人類最期の日、世界の滅亡を憂えているかのように
予言者が故郷を追われ、何も持たずに足の土を払い走り去る
日本女が神風となりて走り来たり、浮世のゲイシャは八の字描いて逃げていく
茜さすフジヤマのバックから朝日が昇り常世の長鳴き鳥が鳴くのだ
おお 見よ 不審者から解放されたデリマを
仔羊に乗って現れたファニーを見ろ 国王が飛び出していくぞ
王妃に駆け寄り付き添って 言葉を掛ける
騎士となって守った羊飼いスピリドン・ルイスに金羊毛勲爵士章を送り、後継者に指名する
新しい国作りが始まる 見果てぬ夢はまだ続き、魔法は終わらない
大いなる遺産は受け継がれ 大いなる書物は読み継がれ 書き継がれ
語り継がれてゆく
ベラ・チャスラフスカ わたしは陸上選手のオドロジルと結婚します
スポーツをやっていたからこそ彼に出会えた
オリンピックに出場できたからこそみんなに出会えた ありがとう
わたし達は二匹の紋白蝶のように戯れながら舞い上がり
メキシコシチーへと飛んで結婚します
喪服の女ちあきなおみ いつものように幕が開き
降り注ぐライトの輪の中 それでもわたしは
今日も恋の歌唄ってる
コロス おお 見るがいい
アベベとザトペックと日本女が 世紀のデッドヒートを展開している
勝つのは誰か 裸足の王者か 人間機関車か ゲイシャか
それともおまえか おれか あなたか わたしか
誰だ!
クーベルタン男爵 それはわたしだ!
いつの時代も変わることなく 忘れないでいて欲しい
この世界は生きるに価し 生きることに意義があるのだと
毎日がオリンピック 夢の祭典であり 奇蹟の連続 世界の福音であり
参加すること そのものが祝祭パレード 祝賀記念パーティ 祝勝会
祝新春シャンソンショー 祝日ショータイム 春の祝祭催事(パジャントリー)
毎日が祝福音である
コロス 歌え! 三十の聖人たち
あなた方の歌が聴きたい
シラー「歓喜の頌詩(オード)」
三十の聖人たち おお友よ そのような調べでは駄目だ!
声を合わせて もっと楽しく歌え もっと喜びに溢れる調べを!
喜びは それは神から放たれる美しい火花だ
楽園の遣わした美しい娘 わたし達は熱き感動の一瞬に突き動かされ
気高い喜びよ おまえの国へ歩み入る!
おまえは世の理が冷たく引き裂いたものを 不思議な力でふたたび溶け合わせる
おまえのやさしい翼に懐かれると すべての者は友となる
心の通じ合える真の友を得るという 難しい望みの叶った者も
気立てのやさしい妻を娶ることができた果報者も
喜びの気持ちを声に出して和せよ! そうだ
この広い世界でたったひとりの者も 心を分かち合える相手がいると言える者も和すのだ!
だがそれさえできない者は 喜びの仲間から人知れずみじめに去って行くがいい
すべての者は自然の胸に抱かれており その乳房から喜びを一杯に飲んでいる
操正しい者も 邪悪な者もすべて 薔薇の香りに誘われて
自然の懐に入っていく
自然はわたし達に口づけと葡萄と 死の試練をくぐり抜けた友を与えてくれた
快楽などは蛆虫に投げ与えてしまえ
知恵と正義を司る天使が 神の御前に姿を現す!
喜びに溢れ ちょうど満天の星々が 壮大な天の夜空を悠々と巡るように
友よ おまえ達も与えられた道を歩め
喜びに勇み 勝利の王道を歩む英雄のように
互いに抱き合おう 諸人よ
全世界の人々と口づけを交わし合うのだ
友よ! 満天の星々の彼方には 父なる神がおられる
そうすればおまえ達はひれ伏すのか 諸人よ
この世の者たちよ おまえを創造した神が分かるか
満天の星々の彼方に神を求めよ!
星々の彼方に神はおられる
十四万四千人の世界市民コロス 夜空を天翔ける幾千の星々よ
今こそ われわれ人類の栄光の讃歌を歌え
喜びも悲しみも われわれの内に在り
相手になんとか伝えようと四苦八苦し 言葉 身振り手振り 文字 絵画 音楽 演劇 詩 歌 舞踏 あらゆる手段を尽くし
人類は喜びと悲しみを歌ってきた そうだ
世界はわれわれ人類が産み出し われわれが保ち育て
われわれ人類が破壊してまた創造する そうだ
人間は生命を賭して世界を獲得する
太陽の農夫となって鍬を取り 牧畜の民 農耕の民 狩猟の民 漁りの民
流浪の民 漂泊の民となって黄金の恵みを獲得するのだ
真理は頭の上 黄金のメダルは天空に光り輝き
一切生類 群生品類 有象無象 胎生するもの 卵生するもの 湿生するもの 化生するもの すべて黄金の恵みをこの身体に
生み育てられ 朽ち果てていく そうだ
喜びも悲しみも 永遠の命も 世界の変容も 上から来る!
さあ人間たちよ 人間賛歌を歌え
喜びを目一杯 身体中で表現し 跳び撥ね投げ回し走り踊り笑い 振り蹴り飛ばし舞い狂い泣き歌え!
新世界はすぐそこだ 常世の長鳴き鳥が鳴き
永遠の生は 上から来る!
太陽の使者となって光の女神は降臨し 地球の国民となって人間は愛を戴く
そうだ 人間は黄金のメダルを頭を下げて首に掛けていただき
勝利の歌 歓喜の歌を歌おう 見て下さい
光の女神よ 喜びの美しき緑児 天空からの迷い子 太陽の娘 見て下さい
われわれ人類は儚い夢 うたかたの生物に過ぎませんが
力の限り 思いの限り 命の限り 生の讃歌 愛の讃歌 人類の讃歌
太陽の讃歌を謳い続けるのです 来て下さい
おお あなた 人類の創造者 喜びと悲しみを持つ者
万物の造り手 一切造者 命を分け与える者 来て下さい
勝利の白馬に乗った聖ヴァ―ツラフが史上最高齢金メダリスト、オスカー・スパーン(72)(スウェーデン)と共に騎士の階段を駆け上がり、神の喜びを盛った七つの鉢にビールをなみなみと注ぎ注いだ。アメリカの三巨鯨が鯨波を起こし火薬塔から砲丸、市民会館からハンマー、ヴァ―ツラフ広場から円盤がプラハの天を摩して打ち上げられると、ヴィシェクラトの地からザトペック夫人ダナ・ザトペック(チェコ)が預言者リブシェに成り変り槍を放つ。四つの投擲をしっかり確認した展望塔の弟子ケプラーは、師への報告に走った。プラハの百塔からシンクロ人魚たちの華麗優美なお御足がぴったりと揃い立ち、ミュシャの女神たちがリボンをくるくるし、ボールを投げ上げ前転し、ループを転がし跳びはねて、棍棒で男の子たちを打ち、縄で綾取りして橋を架ける。スローガンを持つ男が仕掛け時計の骸骨から砂時計を盗み、黄金のコンパスで描かれた十二宮の文字盤が回り始める。円盤の縁に
゛ADSIT゛(神在マセ)を読み取った記憶術師は獣帯に巻き込まれ、天空の女神と共に太陽の都へと帰ってゆく。キャッチコピーする女は移動売店のコピー機でキャッチコピーし、テレビ局のチーフディレクターに掛け合ってせっかく乗り込んだヘリコプタ―だったのに、生憎四つの投擲弾が命中し
緊急離脱、パラシュートで降下しながらコピーをばら撒く。
゛苦難は学び゛
チェコロッセオのトラックに大会役員に抱きかかえられたドランドと夢遊病の女アンデルセンが入って来ると、場内は興奮の坩堝と化し二人のコーチと父親が一緒に並走して、トラックには観客がなだれ込んだ。みんなが泣きながら拍手し、手を取り合って喜び一緒に走る。黄金の小道へ仔羊に乗せられたまま運び込まれたソフィアは、あたり構わず呻き おめき 怒鳴り 罵り 喚き おらび 叫び 産まれる 産まれる うわ言 戯れ言を繰り返す。国王はオロオロし羊飼いルイスも途方に暮れ、師ティコは弟子に癇癪玉を落とし、一緒にヴェネツィアまで従いてくるよう命じた。主治医マイヤーとベムベラベロは一緒になってヒッヒッフー ラマーズ法を繙く。錬金術師は武器軟膏(ポプロクリスマ)で傷口を塞ごうと言い、助手は天使を召喚して助けてもらおうと言い、牧師は助産師を頼もうと世界図絵(タウン)のページをめくる。農耕の神ウェルトゥムヌスとなったルドルフⅡ世は、王妃を聖ヴィート大聖堂へ運ぶよう指示した。
ステンドグラスに朝日が射し込む薔薇窓の下、フォン・カラヤンは目を閉じ指揮棒を掲げたまま、微動だにしないように見えた。ベルリンフィルの演奏はなめらかに、艶やかに、力強く鳴っている。銀の階段を上がり聖火台に王妃を横たえた農耕の神ウェルトゥムヌスは、錬金術師から天使の鍵を受け取り黄金の扉を開いた。説教師ヤン・フスが九字を唱える。
臨兵闘者皆陣列在前
[臨]アベベ・ビキラ(エチオピア)
[兵]ディック・フォスベリー(米)
[闘]アレクサンドル・ガレリン(露)
[者]ベラ・チャスラフスカ(チェコ)
[皆]エミール・ザトペック(チェコ)
[陣]セルゲイ・ブブカ(ソ連)
[列]マイケル・フェルプス(米)
[在]パーボ・ヌルミ(フィンランド)
[前]カール・ルイス(米)
操る糸を断ち切って九人のアスリートたちがカレル橋の上を横一列に並んで歩く。
九人のアスリート(アース・ウィンド&ファイアー)
大地から生まれた ぼく達宇宙の子は
生命の息吹である 風によって育てられ
火のような神の手によって裁かれる
ヴェネツィアからアルプスの山を越えて四人の運び手、一角獣の魔法の角アインキュールンを頭につけた帝室侍医クラートを先頭に師ティコ、弟子ケプラー、天文学者ハーイェクが高々と 恭しく掲げ、アルブレヒト・デューラー作「薔薇冠の祝祭(ローゼンクランツフェスト)」を運んで来た。農耕の神ウェルトゥムヌスはIOCの大会役員二人にボヘミアングラスを持ってくるよう命じる。鼻糞萬金丹を綺麗に拭い去り、チェルトフカ川の水車で何度も何度も濯いで今すぐ持ってくるように。
農耕の神ウェルトゥムヌス
王妃ソフィア 預言者リブシェよ
聖杯に満たされた黄金の飲み物をいただき
新しき子 新しき神
新世界を我れらに!
薔薇窓に燃える聖火から五輪の花咲き
゛ADSIT゛(神在マセ)
ドボルジャーク「新世界」
スメタナ「わが祖国」「リブシェ」
モーツァルト「プラハ交響曲」「ドン・ジョヴァンニ」
プラハの大妊婦王妃ソフィアはボヘミアングラスになみなみと注がれた
スタロブルノ カールスバート ピルスナー バドワイザーを飲み干し
へべれけになって、聖火台を分娩台に
新しき子を産み落とした
火がついたように泣き出したその子の名はチェフ
建国の父 国作りなす者 最初にして最後の者
始めにして、終わり α(アルファ)にしてω(オメガ)
常世の長鳴き鳥が鳴く
画家アルチンボルドは五輪の花を使って王子の顔を描き
「春」と名付けた
完
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