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aki先生インドネシアで入院する 1/2


私は実は身体が丈夫で、この歳になるまで出産以外で入院したことがない。

疲れるとまず口内炎か舌炎、膀胱炎、乾燥していると副鼻腔炎、咽頭炎など、何らかのサインが出て活動を続行できなくなるので、その時点で休息する。方法は食っちゃ寝だ。ある意味便利な体質とも言える。学校をすべての学年に渡って無欠席で通せたためしがないのに、大病はしたことがない。両親と水泳に感謝だ。

協力隊員は基本的に私もそうだが健康優良児だ。ところが、インドネシアに来てちょうど1ヶ月目、2ヶ月目、3ヶ月目に38°台の発熱を伴う風邪を引いた。1回目はホームステイ先で子どもたちから風邪を、2回目はインフルエンザ様の上気道への感染で3度目はお腹の風邪である。どれもまず発熱から始まったことで、私の身体がまだ未知の何かにビックリしていることを想像した。日本では発熱は10年に1度あるかないかだが、インドネシアでは到着後3〜4ヶ月の間に3回、その度に元気になってまたモリモリ長距離を泳ぐまで元気になるのだが、発熱頻度がずいぶんと高い。まるで保育園に入園した年の娘のようだ。それで適応とはそういう事だとこの頃は受け入れる事にしているが嬉しくはない。「感染症は運だ」とは、看護師をしている友達が、ひとりでの子どもの看病に悩んだとき私に言ってくれた言葉だ。どんなに注意しても感染する時はする。形成外科医の友達も海外の学会に行く途上の吐き気に悩まされた話をしてくれた。医療のプロでも感染するのだからしようがない。病気にかからないに越したことはないと誰しもが思っているのに、かからない人はいない。人間は免疫を獲得することで強く成長していく。同じ風邪はひかない。新たなウィルスへの曝露があれば、次の闘いがあり、いま地上に生きている生き物はそれら無数の闘いの勝者である、と日赤のドクターに慰められたことがある。貴女は自分で思うほど弱くも不運でもない、と。

それでも39.7°という数字は小学校以来見ていないから、イヤに長い悪寒で、次に襲う発熱の前触れだとわかっていても少し驚いた。また悪魔が来るな、と、寝込む準備を始めたのは夕飯前で、ちょうど卵と野菜を買って来てスパニッシュオムレツを作っていた。わざわざ買った軟水で浸水しておいた韓国米が惜しいから、炊飯時間をきっかり3分測って火にかけた圧力鍋を火から下ろしてからベッドに潜り込んだ。美味しいご飯があればレンジでお粥ができると安心したかった。その日は前夜のフィギュアスケート世界選手権ガラをYouTubeで見ようと、午後は事務作業に集中し早めに仕事を済ませ、張り切って調理を終えた。だが盛りつける間もなく、あまりにも歯の根がカチカチと震えて合わなくなり、午後7時ごろから足はつま先から脛まで冷たく、持って来ている服の中で一番防寒は何かと思案してレインコートを出して着込み、頼りない肌掛けにくるまりガクガク震えていた。そして身体中ピリピリと針で刺されるような痛みが始まり、顔が熱いのに汗が出ず行き場のないような頭痛が始まった。やがて熱が上がる途中から猛烈な下痢が始まった。トイレから離れられず、便座に腰掛けている間もピリピリと体表近くが痛み、もっと深い所で関節や筋肉が大声で不具合を訴えてきた。38.4°の時点でアセトアミノフェンと神経性の下痢に効く下痢止めを服用したが、どちらも歯が立たず。体温を測りなおす毎に数字は大きくなっていき、さらに39.0で1度、朝までに時間をおいてもう1回服薬したが、38.8°までしか下がらない。この前後が最も辛い時間だった。トイレ通いが間遠にならず、粘血便になってきたので、解熱して歩いて行けそうになり次第、センター内の診療所を訪ねようと決心、昼過ぎ、悪寒が前哨して以来20時間後に部屋を出た。


検温毎に体温は上がっていった

診療所はもちろん施設利用者のための場所である。デイケアなどの文字がマジックで書かれたファイル立てが職員のデスクに立ててある。待っていると、クリスチャンでいつもつばのある帽子を被っているドクターが別室へ入るように言った。下痢回数と体温39°と主訴を聞いてうなづき、彼女は私に右腕を血圧計に入れるように指示し、まもなくデジタル数字で上から順に75、55、105と表示された。思わず、インドネシアでは血圧計は日本とは表示が上下逆さまで、心拍数、最低、最高血圧の順なのかと二度見したものだ。”Dehydorasi.(脱水症状である).”数字を見てドクターは言い、私か血圧計か分からないが自分の携帯で写真を撮った。ドクターは受付に戻り、止瀉薬、止血薬と解熱剤をストックから探して3日分マジックで包装の上に一回一錠と書き、”Harse minum(水分取らなきゃ).”と言いながら渡してくれた。宿舎と診療所は数百メートル、そう遠くないが、暑い日の午後で、唇の皮が浮いているのがわかり、歩いている地面が傾いてくるような気がしながら宿舎へ戻ってきた。心拍数>最高血圧はバイタル逆転という。これにめまいや冷汗などの身体症状が加わるとショック症状といい、もう天国の門がそう遠くない。感染症で敗血症を起こして亡くなるケースだ。この時点でですぐに救急外来を探すべきだったが、私はまだ自分を過信していた。オープンウォータースイマーは脱水に強い、と。

宿舎に戻ってまず服薬しようと、胃のために少しだけパンを齧り、3剤を服用。処方薬でも合わないとまずいのでネットで一通り調べてからである。どれも一般的なお腹の風邪の対処用だった。数時間後、まだ下痢は止まらない。21:00に再度服用、ここまでで発熱から24時間、通算5度の解熱剤で漸く37°を切った。それでも朝までにまだ何度もトイレに起き、だんだんトイレにいる時間の方が長くなっていった。壊れて止まらない蛇口だ。キッチンへ行って補水液を作るまもなく、病院のアテを探す間もなくまた催すのでトイレ以外のことが何もできない。朝までベッドとトイレの往復に終始、明け方1時間ほどベッドでまどろんだがまた下痢が始まる。止瀉薬が効かないとすると、これは普通のお腹の風邪ではないのかな、と判断せざるを得ず、朝イチJicaのJakarta事務所の担当者に電話して方法を問うた。

協力隊員は全員が海外旅行保険でフルカバーされている。アフリカで3週間入院した同期の話は新しい。首都に上らなければ治療できない国も少なくないから、インドネシアのソロは総合病院がいくつもあるだけ恵まれている。ただ、ジャカルタと違ってインドネシア語オンリーだ。英語もあまり通じない。それで、入院できてwifiのある病院で最短で処置を受けられるところを希望した。wifiはGoogle翻訳を使うつもりだからだ。Google日↔︎イは少し怪しいが、英↔︎イでコミュニケするなら大きな誤解はないと踏んでいた。インドネシア語そのものは結構英語からの外来語が多い。私のテリトリーの手工芸はイ語が多いが、コンピュータ関係や機械関係は英語からの名詞が多い。ビジネス用語もそうだ。多分医学用語もそうだといいと期待した。

保険会社から電話が返って来たので、フル充電したモバイルデバイスをふたつとバッテリーやケーブル、少しの着替えや洗面具をリュックに詰めて、1人でタクシーに乗って病院へ向かった。折しもセンター内はバザーの準備で騒がしく、すれ違う私に知った顔誰ひとり気づかない。私は何ならオムツが欲しいくらいトイレが心配で、上司や同僚を探して愛想を言ったり説明している暇がなく、脱水している以上、とにかく早く病院で処置を受けて止瀉を願っていた。説明はその後だ。

だがどうしてもその出発前にしておかなければならない大切な仕事があった。ここで呆れたaki先生だと思われる方もいるかもしれない。前の週、センターに逗留しているジャワ島の他の都市からの研修生たちが、ラマダンを楽しく乗り切ろうイベントを企画し、その中の目玉のひとつ、塗り絵コンテストで、審査員として合計33点の力作を採点し1、2、3位を選出し、表彰式でスピーチして欲しいといわれていた。発症時点では、採点結果の集計とスピーチ内容の推敲は終わっていたが、私は断食続行中のなか思った以上に健気で誠実な作品の数々に想うところがあって一枚一枚の裏に、赤ペンでメッセージを入れて生徒一人一人に返却したかった。インドネシアの学校ではどうするのか知らないが、日本の先生方がそうして下さっているのと同じように、それぞれの良いところを見つけてコメントし動機づけしたかった。私のインドネシア語の推敲を引き受けてくれたガブリエルからの返信をその朝受けたばかりで、転記がまだだった。クレヨンで垢のついたA4のコピー用紙の一枚一枚の裏に赤ペンを走らせるなか、それぞれの生徒の顔が浮かんで来て、必ず回復して戻ろうと思った。スピーチも何度も音読して練習していたので、出来るだけ表彰式までに現場に戻りたいと思います、と、隣の建物に投宿していた担当学生の1人にコメントを書き終えた作品の束を託してタクシーに乗り込んだ。aki先生は強い。事実がどうであれ、その期待が私を支えている。Fake it till make it.


断食最中の塗り絵イベントの作品

アプリで呼んだタクシーが埃っぽい市内を抜けて15分ほどで保険会社の指定病院に着き、自らタクシーの後部座席のドアを開くと、3人の若いMas(若い男性への尊称)のクラークが病院の建物の前の車寄せに待機していて、そのうち1人が、僕少し英語が話せます、と率先してERへエスコートしてくれた。かつては日本でも、外国人と見るや英語を使ってコミュニケしたがる若者がいたが、まさか自分がその対象になるとは思っていなかった。彼は感じよく私をERへ引き渡すや爽やかに持ち場へ戻って行ったが、エスコートしてくれている間何を話してくれたか覚えていない。


入院する時は周りを見る余裕なんてない

青い防護服のナースやドクターが動き回っているERのカウンターは私をそう長くは待たせず、ホールの空いている急患用ベッドに寝かせた。おそらくCovid-19の時にさまざまな経験値を持って整理されたフローがそこにあり、広いホールにグレーのカーテンで仕切られた移動式のベッドが濃い青の紙のシーツを敷かれてずらりと何十も頭側を壁に沿って左右に並んでいた。主のいるベッドはカーテンが引かれて中は見えない。私が施術されやすいよう履いてきたウエストゴムの緩いシルエットのロングスカートのまま横になった左右隣のカーテンのどちらからも子どもの声とそれに呼応する親らしき大人の声が聞こえた。右からは私の後から急患で入って来た男の子の声で、PCR検査や点滴を嫌がってBukan,bukan!!pulang,pulang!!udah,udah!!(違う違う、家に帰る帰る、もう終わった終わった!)と号泣するのを、親たちがTidak,apa−apa(大丈夫大丈夫)となだめすかす声が聞かれた。パンデミックのピークでは世界中の病院でどこでもERは修羅場になっていたことだろう。


ERで受けた最初の処置

入れ替わり立ち替わり、バインダーを持った看護師が合計7〜8人は似たようなことを聞きに来た。ベッドが空き次第入室するか、保険会社の承認を待つか、それだと夕方4時ごろになる可能性があるがそれで良いか、早口で私の熱っぽい頭に突っ込まれるので、wifiが遅いERでわからない言葉をいちいち調べて理解した上で理路整然と十分にカバレッジのあるJOCVであることを申し立てる余裕もなく、保険会社を待つしかない立場であることについて首を縦に振るしかできないでいる間、キツい状態での保険云々の質問への対応がいかに面倒か、ERでの3時間の待機中、宿舎へ引き返すほうがいいのか、診察はしてもらえるのか、頭の中で心配ごとが逡巡とした。背景で保険会社が動いて話をつけてくれたのか、いよいよ病棟の方へ男性と女性の看護師がついてくれてベッドが動き出した後、何を理由の涙か、両の頬を伝って枕元にこぼれて来た。ひどい顔をしていただろう、きっと。ひとりで来てよかった。世界中の知り合いの誰にこの姿を見せられただろう。これまで堪えて来たが、どれほど親切にされようともやっぱり外国人として1人で事に当たる寂しさ心許なさ、孤軍ポーカーフェイスで何ヶ月も笑顔第一と踏ん張って来た緊張が解けたからだったのは間違いない。そしてその涙は、まだストレッチャーで病室に至るエレベーター待ちの時の、JicaのJakarta事務所の担当者からの無遠慮な書類修正指示の電話で止まったが、それも却って良かったかもしれない。彼には平和に休暇に入ってもらうつもりで、病室に入り落ち着き次第すぐ対応いたします、とした。

ERでは血圧とSpO2、点滴とPCR検査、心電図、そして病室に向かう途中、寝たままの姿勢での胸部X-Rayがあり、父のペンダントを看護師が外してくれたあと、またはめ直してくれたのが今も表裏になったままだ。点滴を手の甲にしようとするので、非常に痛いと人に聞いたから採血するのと同じ場所、肘の内側にお願いした。ご自身が不便ですよ、と看護師が注意してくれたけど、日本のように採血と点滴の別立てにせず、痛点の多い甲から採血してそのまま点滴をするに違いないし、その点滴がいったい何日に及ぶかその時点ではわからなかった。人の体に針刺す人はその時同情しないだろう。医学モデルとはそういうことだと思う。


個室で安心して養生させていただいている

病室に入ると、日頃の地味な生活に慣れたせいか、自分に当てられた病室が一瞬韓国ドラマの富豪の娘が入るような部屋に見えて、一般のインドネシア人が入院する病院の個室の4倍くらいするのではないか、VIPだねぇと私からの写メを見た仲良しのガブリエルに後で冷やかされた。上にはもっと上があるに違いないが、とにかく、日本政府の力でこうして日本の水準と大きくかけ離れていない居住性の良い広い部屋をあてがっていただいた。JOCVの保険は死亡、後遺障害5000万、治療、救援費用も5000万、インドネシア国内での治療が難しいケースはシンガポールなどへ搬送されてそこで治療する。南米からチャーター機で緊急輸送さえあり得る。ただ保険カバーレッジがあるからと、私はまだ先の長い連中に、無邪気無闇に、あるいは無謀気ままに活動して怪我や病気をして欲しくない。自分は勇敢と無謀、慎重と臆病、精勤と固執、親切とおせっかい、愛情と支配の間のどの辺りにいるのかを客観的に捉えることは必要だ。そういう私がもしこのままあの世に旅立ったら説得力がないが、必ず治ると思っていた。

病棟の1日はなんと早寝ではない。特に初日は1時間おきに何らかの医療サービスがあってせわしなかった。まず6時間おきに静注に追加する注射が2本、最後が23時、最初が5時と日に4回だ。食事がおやつ含め5回運ばれ下膳含め出入り7回、掃除はリネン交換が4時50分とフロアモップとゴミ捨てが10時/16時で2回、回診1回、投薬3回、血圧測定が3回、つまり、平均1時間に1〜2回以上看護師や介護士の訪問があってそれが止むまで寝ていられないと言うことだ。ドクター以外は全員縦割りでシフトだからいったい何人来てくれたかわからない。初日に名前はドクターしか覚えられなかった。すごい人海戦術というか、人的資源が豊富でよく機能しているとこうなるのか、私の状態がそれだけ良くなかったのかは分からなかった。病院は組織がしっかりしており、薬が来ないとかご飯が来ないとか他人と間違えられているとか、そういう漏れがなかった。渡す薬が単なる胃薬ムコスタとビオフェルミンであってもだ。最後が23時、最初が4時50分だ。よって夜更かしすると寝不足のまま起こされ、シーツを替えましょう、替えないなら寝ていて良いですよ、と言いつつ結局は寝床から退かされる。個室内に専用Kamar mandi(トイレ兼シャワールーム)があるが、内鍵が難しく、数回に一回はロックするのを諦めてトイレに座るのだが、その間もPermisi(ごめんください)と誰彼なく病室内に入ってくる。半分が男性だから、女性の私にはプライベート性がなくてちょっと嬉しくない。カギの上手くかけづらいトイレの内側から、Saya ada di sini.(ここに居ます)とノックしながら怒鳴ると、Masih lama ya? Ibu?(Mrs、まだ掛かります?)。やれやれ、トイレさえゆっくり出来たもんじゃないって事だ。

それもこれも、直してあげようという思いでのことだとつくづく感謝する。点滴を外せずシャワーも点滴を抱えて入る。まず点滴がくっついているとシャツが脱げないから手伝ってもらい、濡れないように髪を纏めるためにゴムで結わえることも片手では出来ないから手伝ってもらい、差し入れのリンゴも片手で剥けないから厨房へ持って行ってリクエストしてもらい、売店へポカリスエットを注文するのも手伝ってもらうのだが、嫌な顔ひとつせず、Saya bantu.(手伝います)と来てくれる。フローレンス・ナイチンゲール記章の受賞者はインドネシア人に何人いただろうか。何もせず働きバチに世話される女王バチならもっと価値ある仕事をしなくてはならないが、自分も働きバチな身としては人に甲斐甲斐しく世話されるのが少し苦手でいけない。そう言えば、センターの生徒も先を争ってSaya bantu.と荷物持ちしてくれるが、Miss Akiのカバンを持つ役を争ってケンカすることもあるくらいだ。そういう年齢、そういう立場になったからには、気持ちよくその役割を担ってもらい、彼女たちの小さな達成を祝わねばならない。その辺は、先生の仕事だろ、などと言う捻くれたどこかの国の子どもとは違う。センターでは壷井栄の「二四の瞳」のような場面はないが、出来るだけ手伝ってもらう事にしている。ここでもナースコースが鳴るのを心待ちにいる新人に、看護学校で学んだこと以上の事が起こりうる場に一回でも多く出てもらうためにも、少し回復してからは、出来づらいことは遠慮なくお願いする事にした。何でも自己完結できると思い込んでいたら、ピンチは乗り切れない。

こうやって色々なことにくたびれながらも、入院生活は進んで行く。

(2/2へ続く。)

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