柳宗悦「工藝の道」
きっかけは自粛期間に流行った「ブックカバーチャレンジ」が回ってきたことだったのだが、「好きな本」というものからもう少し掘り下げて「どうにも捨てられない本」を掘り返してみた。私はこれまで就職を機に実家を出てから浜松で4回、アメリカで2回、日米往復の2回、合計8回の引越しを経験している。そのため荷物は最小限に近い。本も相当処分した。その状況で残り続けている本というと本当に限られた数冊に落ち着く。
「工藝の道」はそのひとつだった。
柳宗悦「工藝の道」(1929年初版, 2005年改定)
柳宗悦は知っている人は少ないかもしれないが、柳宗理を知っている人は多いのではないだろうか。柳宗理はインダストリアルデザイナーとして著名で、オリンピック関連とかでもよく出てくる。宗悦はその父親だ。
あまり知らない人が多いかも、と言ったがそれは宗悦が単に昔の人だからであって文化功労賞まで受けている有名な宗教哲学者であり大正から昭和初期に起きた「民藝運動」の中心人物だ。「工藝の道」は1920~30年ごろの著作や雑誌への宗悦の寄稿をまとめたものである。
民藝運動はざっくりで言うと豪華主義的な美術から離れ、より質素で単純で一般的なものに存在する美を追求するスタンスを示した活動のことで、その後のインダストリアルデザインの領域には確かな影響を及ぼしたと言ってよいだろう。
詳しいことはWikipediaでも参照して欲しい。
15年経って読み返したわけだが、この最早1世紀前の書物がなんとも驚くほど多くの示唆に富んでいる。そしてこの15年で経験したことを宗悦の文脈と撚り合わせることでまた新たな文脈が生まれた。
なお当然だが私は工藝家ではないので、あくまで「エンジニア」や「ものづくり」に置き換えて読んでいる。
100年前の書物で懸念されていた未来を今私たちは生きている。残念ながら過去の賢人の警告はそのまま我々がなぞっている現在となっていて(その点は渋沢栄一の著書を読んだ時にも同じことを思った)愚かさを戒められるとともに未来に対する明確なビジョンと具体的戦略を強く求められている気がしてならない。
工藝の定義
当時、美術と工藝、それに加えて工藝美術というカテゴリが生まれていた。時代の変化が早くなり定義もあやふやで、文化が高められることなく新しいものが生まれて忘れ去られていくような、あれ?現代の話?いやいや宗悦が語る100年前の話だ。
ある問答で宗悦はこう答えている。
Q: 工藝美とは何か
A: 用に即した美をいう
用途への奉仕、これが工藝の心である。日々の伴侶たる親しさが工藝の性質である、と宗悦は言う。いわゆる美術品の対局としての工藝。中世より美術に高い評価があるのはそれはそれとして、大衆の手元にある様々な物にも美が見出せるのではないだろうか?というのが宗悦たちがおこなった社会への問いかけだった。
当時彼らは「下手物(げてもの)」と呼び多くの器を収集した(下手物は「上手物(じょうてもの)」の反語としてつくられた当時の造語)いわゆる一品ものではない多産の無名作家の作に美を見出した。
民藝の強み
・用を離れない
・廉価である
・たくさんできる
・大衆の役に立つ
・技巧の病がない
・無心である
・単純、自然、作為がない
器の存在は人間が自分自身を語るためのものであってはならない。自然を記念するものでなければならない。
なお工藝美術は工藝から派生したように言われることがあるが、個性が強くまた絵画性が高いため美術の一分野であると考えるのが自然だろう。
エンジニアとして製品を作っているとその過程にある競合分析などで様々な他社製品を見るわけだが、その中でも美を感じることはある。
例えば私が感じてしまうのは技術的合理性と見た目の素直さが同居するような設計になっている基板(少々マニアックだが)無駄がなく、ひと目見れば様々な情報が回路図を見なくても伝わってくるような整然としたデザイン。そういうものを見るとグッとくることがある。
また、たまにステージでベースを弾くことがあるが(日本に帰ってきてからめっきり減ってしまったが)私はある意味ポンコツベーシストの類で、楽譜も読めないし音楽理論も中途半端だ。そしていざ演奏となるとほとんどがステージ上でのアドリブである。手癖ばかりに落ちないように、演奏するときは他のメンバーの演奏を聞いてアレコレ考えたら細かく計算したりする(演奏は数学だ。実際、スキルが不十分な私は答えがわからなくてよく演奏しながら暗算してるのだ)しかし、良い演奏ができる時というのは大抵そういうのをあまり考えないで自然な流れと何か大きな意思に全てを任せることができた時だと思う。そういう経験をする。不遜な言い方をすれば、これがいわゆる無我というものなのではないのだろうか。
美とは
美は娯楽ではない。真の生活たらしめる大きな基礎である。
また美の法則に今昔はない。敬念は過去へのものではなく、永劫への敬念である
工藝の美は「健康美」
丈夫で危なげがなく、質と安定がある。感傷、廃頽、病が無い
主我の念は許されない。奉仕の美。恩寵の美
無地のものはしばしば美しさを放つ。「単純」は「単調」ではない
カビール(詩人)「Simple union is the best」
初代の茶人たちは小さな傷や歪みにさえ特殊な美を認めた。「渋さ」は屈強な美である
美は生活の土台だという指摘は大きな救いではないだろうか。加えて、意識の解像度を高めよ、というメッセージのようにも受け取れる。小さなことに目を向ける、愛でる、満足する、そういう生活が美しいと。
宗悦は「初代の茶人」たちを評価する。その一方で後世の茶人たちを真っ向から非難する。これは非常に面白いポイントで、茶道の初期は「渋さ」も含め新たな着眼と洞察によって無価値と思われていたものたちに価値と美を見出した。これは非常に希少な試みだっただろう。しかしその後世の茶人たちは偉大なる先人が積み上げたテンプレのみを利用し、それらを「権力」や「金」で汚す行為しかしていないと。
インダストリアルデザインの領域にこの指摘は響くかも知れない。特にスマートフォン、画面のUI、引いてはUXまで、ある種のテンプレをなぞれば正解という風潮が否定できない。本当にそれは美しいのか?それが正解なのか?と常に疑問を投げつけ続けるような哲学的、批判的な姿勢を忘れてはならない。
美術と工藝の対比
美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。レベルの高い美術は高く位する、レベルの高い工藝は近くに親しむ
美術は、天才の道、理解の道、個性の道
工藝は、民衆の道、無心の道、没我の道
ただし没我は個性の否定ではなく開放である
高ぶる知は美の世界において罪
高ぶる叡智は幼き叡智。自然の前に如何に力なきかを知るべし。
作られたものに美が薄いのは自然に背いた報い
自らを言い張り、知を奢るものは、神の前では小さき者と呼ばれる
個人作家は天才を要求する。だが天才は稀有なものである。その天才が世を去った後、次の天才を待ちまた委ねるのか?
天才の個人的仕事においては技術的な無理が多く生じる。
宗悦は美術と工藝のどちらが良い悪いという言い方はしない。
同一視するな、それぞれの道を理解せよ、と言う。しかし100年前というと「中世」と呼ばれた時代がそこまで遠い昔の話ではないのだろうか。金満的な高級美術重視の傾向に憤りを感じていることは節々から伝わる。しかし現在に至ってもそれはさほど変わらないのではないだろうかと思う。高級美術品は有益な投資先であるとともにある種のステータスとして所有欲を満たしてくれる、という少々一般人には無縁な特性を持った市場製品だ。日本だけで公表されている範囲だけで年間取引高3000億円程度といわれるのだからそこそこの優良市場だ。
しかしこの手の「THE・美術品」の恩恵に預かっている人というのは人口比においてどれだけだろうか?
高級ホテルの入り口に飾ってある?美術館で観覧する?
本来であればその規模を遥かに超え、国も地域も問わず、富むものも貧しいものも、小さいかも知れないが確かな、手に取れる、日々の伴侶とすべき「美」が存在するのではないか、という。これは非常に希望に満ちた提案である。
機械との正しい関わり方
機械化を弁護する者は常に「今後爆発的に人口が増えるのだから妥当な対応だ」と言う。そうして「機械化が進めば生産量も増えるし安価に提供できるようになる」と言う。
しかし現状(100年前)を見ると、機械は競争を生み、競争は過剰供給をもたらし、失業者は増加した。
誰か幸福になったのか?富が集中した一部の資本家たちである。
民衆は貧しくなり社会は俗悪に染まった。
増大する人口に幸福を与えると約束した機械たちは我々に何をしたのか?更なる生活の不安を作り出しただけではないか
機械は人の補佐である。その主従が逆転すると醜悪がはびこる
機械を排せよなどとは言わない。再び人を主に据えよと言っている
機械を無視する文化は成り立たない、また機械製品に特殊な美があることは否定しない。と同時に、人間が機械の奴隷となる文化も成り立たない
したがって社会は機械を無制限に要求するべきではない
人智の適用が人類を不幸に導く場合、それを放棄する勇気を持つことは愚かだろうか?私たちは「発達した」という事実に捕われて、そこから生まれる不幸に目を瞑って良いのだろうか?
機械が生まれたから手工が終わったというのは、科学が発達したので宗教が不要だという決めつけと同じ。
科学時代になればなるほどむしろ信仰の意義は見直されていくはずだ。
経済学的考察から明らかなように機械主義は大衆を貧しくした
資本主義制にならなければここまで機械主義は発達しなかった
宗悦は手工を推す。それは当時(100年前)徹底した機械化が進んでいたからではないかと想像する。
スタートアップだけに関わらず「事業を立ち上げる」「新規製品カテゴリを立ち上げる」ということをある種のライフワーク的に呼吸をするように行い続けているのが私のここまでのキャリアではないかと思う。そういう活動をする際に自己批判的な姿勢はとても重要だ。
「本当にその製品・サービスは必要なのか?」
「それで誰が幸せになるのか?他の幸せになる方法はないのか?」
そのような角度で半ばひねくれた脳内ディベートを繰り広げることがよくある。その際にこんな問いが出てきたことがある。
「本当にテクノロジーは人を幸せにしているのか?」
「経済的な成長が正しいと誰が決めたのか?」
「厨二か!」というツッコミもごもっともだと思うし「社会不適合者」と言われたらそのとおりなのだと思う。しかしこれも私の一部だ。
宗悦のような人間も批判的アプローチの中できちんとしたら理論を体系化し、その結論を実際の活動へと落とし込んでいったからこそ評価されているのだと思う。そうでなければこの手の話はただのニートの戯言なのだ。
資本主義とギルド社会主義
なぜ資本主義が民衆の美を殺すか
利が目的で作られるから、用が二次である
資本制度から工藝の美は生まれない
全ての醜さは瓦解した社会組織に起因する
そこには、
暴虐があって相愛がない
奴隷のみがあって同胞がない
人格の否定のみがあって自由がない
離反のみがあって結合がない
階級闘争のみがあって相互の補佐がない
生活の不安のみがあって固定がない
貧富の懸隔のみがあって平等がない
製品の目的は奉仕から利欲に転じ、労働は誠実から苦痛へと化した
公衆に媚びる俗悪と、自己に利する粗製のみが見られる
工藝とギルド社会主義は一致するところが極めて多い
反経済主義的な発想ではなく経済の成長と工藝の発展は落とし所があるはず
別途「リベラリズムはなぜ失敗したのか」のところでも細かく整理しているが、
このような視点をすでに100年前から持っていたということこそがまさに慧眼と言うべきか、それとも歴史は繰り返し、なんの反省もないまま我々はそのレールに乗せられていると捉えるべきか。現代を見たら果たして宗悦は何とコメントするのだろう。
ギルドとは
ギルドとは同胞愛の力で結合された集団のこと
道徳性に基づいた秩序があり、その道徳が質、工程、価値に不正を許さない
そのため社会的信用を得て、そこに安定がある
「個性の実現」ではなく「統合する人間性の実現」を目指す
生活のために協団があるのではなく、協団がある上に生活がある
協団はイデアである
資本主義は秩序なき拘束を、個人主義は秩序なき自由を
協団に求めることは秩序
個人主義から結合主義への転換
そもそも優れた古作品の多くが合作である。何人も歩き得る大道をつくり上げなければならない。
器の正しさは制度の正しさを要求する
かつて世の中は、
相互に助け合って幸福を守った
尊敬が見え礼節が保たれた
社会は秩序を守り、組合は固く護られた
利潤は個人ではなく協団を富ませ、貧しいものを救った
師匠は弟子を愛し、弟子は師匠を敬った
結果生活は整頓され、価格は支持され、経済は安定した
仕事に愛着があり、正しく作ることに心が注がれた
利得はこれに伴う穏やかな報いに過ぎなかった
作る者はほとんどの場合で営むものと同一であり、また使う者の一員でもあった
ギルド社会主義者の言うようにギルドが市場をコントロールするようにしたとしても、次に待っているのは国家と国家の対立であり、その勝利のために結局機械が用いられるようになる
私は資本下の社会において工藝の美の再建する努力は徒労に終わると考える
個人道に工藝の美を期待する根気も放棄する
協団のみに工藝の美を期待する
求道者の集団を修道院と呼ぶ。屈強の美
自己の救済は歓喜であるが、それは最少の歓喜
宗教に個人主義が成り立たないように美にも個人主義は高い価値を持たない
集団の形成がひとつの対資本主義の解答となり得るというのは、これもまた先ほど挙げた「リベラリズムはなぜ失敗したのか」の方でも事例を挙げて整理されていたとおりだ。それをさらに経済主体として突っ込んで考察すると、やはりギルド的な性質を持った職業集団のようなものが必要ではないだろうかというのが宗悦なりの特異性ある主張と言えるかも知れない。
工藝家が持つべき姿勢
もし稀有なものを作る時に美があるなら、普通のものを作る時にはさらに美が加わる
もし貴方が何人にも作り得ない作をつくった時に歓喜を覚えるのであれば、貴方は美から遠ざかっている
美を見て美を意識するようであればまだ二義である。美の内に入って美を忘れる時が幸福である
多量は忘却に近づく
多く作り、また早く作る
活き活きとした自然の勢いが得られる
沈黙において自然の言葉を聞き、安心、静寂の域に入る
わざと平凡を目当てに作るとしたら、それは既に稀有である
工藝家は平常心に活きなければならない
多量に作ることで廉価になり、民衆の用に耐える
そして特殊な意識からの離脱、無駄なき単純、これらは多量がもたらす報いであり、美へと繋がる
個人道こそが自由だと思うかもしれない。しかし宗教的体験は繰り返し教える。帰依に勝る自由はないと。
秩序への帰依、自然への帰依、自由は責任とともにある
個性美より秩序の美
正しさはただ自然と組織の法則に準じる時のみ可能である
大我に入らなければ真我はない
人はそうするとき個人的限界に留まらない
キリスト教中世藝術に「無謬」という言葉がある
無謬に誤りは生まれない。工藝もそうありたい
無謬。自然に任せれば間違いはないのに何故自我を主張するのか、というのが宗悦の問いかけだ。自然を信じ、素材を活かし、在るがままを受け入れ、共存することで得られるものが最も豊かであるのにそれをわざわざねじ曲げて無理やり答えを出そうとしても、それはより一層「病」を強くするだけだと。
この点においては人間の成長過程というものがあるように思える。
若かりし頃、私は集団の中でさほど目立つようなキャラクターではなかったと思う。成績が良かったり、生徒会を任されていたり、サッカー部でキャプテンをやっていたり、というような話ではなく、いわゆる「イケてる男子」だったか?という話だ。
本人的にはイケてない感を感じることはあり、時には憤っていたんじゃないだろうか。きっと。(もうあまりよく覚えていないけど)
服装に気を使ってみたり、髪を染めてみたり。盗んだバイクで走り出すことはなかったが、方向性を模索して色々と手をつけた記憶はある。
しかし、今=40代は?というと、髪型なんて短くて清潔感があればそれで良いと思うし、髭は剃ると青くなるからそれなら伸ばしてた方が不快じゃない、という程度の理由でたくわえているだけだ。もう10年くらいこんな感じだから周りがどう見てるかなんてもう全く気にならない。どうしても服はモノトーンが増えてきたし、ブランドものより着心地だ。流行りのビジネスを追う気持ちはゼロで、それよりも本当に世の中の役に立ったり、社会をちょっとでもよくすることがやりたい。資金調達できようとできまいとどちらでも構わない。例えどちらでも「やる」と思ったことを形にするスキルとノウハウはもう身についている。その時に自分が表に立つか、裏方か、名前が出るか出ないかなんてこともどうでも良い。できればめんどくさいので出たくない。
とても自然で、変な作為、欲がない。
そして、その方が「イケてる」と思えている。
20代の自分が聞いたらビックリだろうな。
幸福とは
パウロ「人の叡智は神の前には愚かなり」
小さき自我を棄てるとき、自然の大我に活きることができる
仏教における誓願
私たちは自らを救おうとするのではなく、どうしても救おうと誓う仏に一身を任せなければならない
誤謬の私を放棄し自然に任せよう
仏の意志に洩れはなく過ちもない
私たちは労働を短縮することによって幸福を保証しようとするべきではなく、労働に意義を感じるように事情を転じなければならない
労働には時に嘉悦、時に苦痛がある。しかしこれをもって意義としてはならない。
完璧な労働には苦楽の忘却がある。
「一日作らざれば一日食わず」生活との一体。
労働は人間に課された任務である。幸福はその賜物である
宗教は「われ」や「我がもの」という言葉を慎む
自己を否定して進む道はない
否我は愚かであり、有我は賢である。しかし没我にして始めて聖である
真の富裕は清貧以外にあり得ない。宗教的法則はまた工藝においても法則だ
現代の我々は宗悦が嘆いたキャズムはとっくの昔に飛び越えてもう戻れないところまで来てしまったようにすら思える。
冒頭に私はエンジニアなので「工藝」というよりは「ものづくり」と置き換えて読んでいるというように触れたが、また一方、これは100年前の話なので「機械」の文脈で書かれていることを「AI」の文脈で読み直すと、これはまた、きっと沁みるはずだ。
そしてこのキャズムもきっと我々は軽々と飛び越えて、また二度と引き返せない奥地へと向かっていくのだろう。
狂人ラスキン
宗悦が参考にしつつも真っ向から批判的な態度を取る人物にラスキンという中世の思想家がいる。客観的には彼らはある種の系譜と捉えて問題ないはずだ。しかしラスキンの美に対する道徳的要求は高く厳しく、そして残念なことに著しく非現実的だった。
とはいえ宗悦も指摘するようにラスキンがその有象無象の夢想家と違い、高く評価すべきところは、その一見非現実的な理想を実行に移したところである。
彼が実際に設立した「聖ジョージ組合」が実行に移した理想郷について
・蒸気機関も鉄道もなし
・全ての生き物は保護される
・病めるものはあっても悲惨なものはない
・死ぬことは免れぬとも怠けることはない
・自由はなく、明らかな法もしくは一定人物への服従がある
・平等はなく、良きものは承認され、悪しきものは否認される
・最も貧しい農場においても砂糖が与えられる
・蜜柑の皮も卵も残さない
・料理の仕方がわからないようなご馳走は机には並ばない
・全てのものは博物学とラテン語、歴史に長ける
このようにラスキンは社会に極めて強い倫理的秩序を切要するようになっていた。しかし明らかに高尚すぎて結果的に現実が追いつかなかった。
世界を異常な高さに高めようとした狂人ラスキン。しかしそれは逆に、現実に即して社会を高めることを諦めてしまった残念な結末だったとも取れる。
おまけ:数行でポイントを整理すると
宗悦が説いていたことを簡潔に数行で整理すると以下
・美術と工藝はその精神性と追い求める美が大きく違う。もっと工藝の美に興味を持つべき
・工藝の美はとても身近で日々存在する親しみある美しさ
・奉仕の精神と無我の融合が美を生む
・個性を競争ではなく集団の協調のために活かすべき
・適度な制約や責任の中に活き活きとした精神が宿る
・機械化は必然の世の流れだが、あくまで機械は人を主とした補佐であることを忘れてはならない
・資本主義は格差と不安を生んだだけで人を幸福にしていない
・秩序ある協団のみがこの状況を解決し得る