可哀想の基準
病気を公表したとき、多くに人から「可哀想」という言葉を投げかけられました。可哀想… もうお付き合いはできないね、もう結婚はできないね、もう働くことはできないね、もう旅行はできないね、もうオシャレはできないね…そういう発言の前後には必ず「だから可哀想」という単語が出てきました。
実際、健康だった頃と比べてできないことは格段に増えており、それと共に普通と思えていた日常が変化しています。「もう〜だね」は当たっているといえば当たっていて、健康な方が私と比べると「可哀想」が妥当な単語(表現)なのだと思います。
でも、少し考えてみてほしいです。
本来の「可哀想」という言葉は、何とか手を差し伸べたいという思いが込められた単語だったと聞きます。それが今では、上から下を見下すように「(発話者とは明らかに様相が異なるために)もう〜だから可哀想」という形で発せられることがあり、手を差し伸べようという思いやりの心は遠くへ飛んでいってしまったかのようです。私の周囲にも、その言葉を発し去っていった人々がいます。致し方のないことだと思う反面で、「可哀想」は、マジョリティの人々に判断(レベルづけやラベリング)が委ねられる単語なのだと感じることが多くなりました。何処へいっても「可哀想」と言われ、好奇の目はついて回ります。しかし、この「可哀想」という単語を聞いた側は、心に小さな穴が開いていることもあるんだということを知ってほしいと思います。
ただ…その反面で新たな人も出てきます。例えば私は、「あなたはこのような困難に置かれていますが、これができますよ」「あなたはこのような困難に置かれていますが、私が代わりにできることがあればそれを指示してください。そうすればもっと楽にやれることが増えますよ」など、本来の「可哀想」の単語に含まれていた、手を差し伸べる思いを言語化して伝えてくれる人が少しでも出現し、そんな人たちは、人種・職種などに関係なく存在してくれています。
私の心にあいた穴のつぎはぎ、ポッカリと空いた黒い無数の点は、人数は少ないけれども様々な色で人によって埋められていく感覚にあります(とはいえ、まだまだ黒い点の方が多いのが事実ですが…)。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?