我思う、ゆえに我あり:デカルトの疑いと真理の探究
生徒: 今日はデカルトについて教えてくれるかな?
先生: もちろんよ!デカルトは17世紀のフランスの哲学者で、「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉で知られているわ。すべてを疑う「方法的懐疑」を提唱して、「考えている自分」が疑いようのない真実だとしたの。
生徒: 我思う、ゆえに我ありは有名なフレーズだよね!
方法的懐疑やデカルトの他の哲学的思想についてもう少し教えてくれる?
先生: いい質問ね。まず、「方法的懐疑論」というのは、すべてを一度疑うことで、確実に真実だといえるものを見つけ出すための手法なの。デカルトは、真実を求めるためにまず感覚を疑ったの。たとえば、私たちの感覚は錯覚や夢によって簡単に騙されることがあるからね。彼は「夢と現実の区別さえも疑わしい」と考えたの。
そして極端な例として、「もし悪霊が私たちを常に騙しているとしたら、数学的な事実、例えば『2+2=4』という事実さえも疑う必要がある」と考えたの。最終的にデカルトが見つけたのは、「自分が考えている」という事実だけは絶対に疑えないということだったの。たとえ悪霊が私たちを騙していても、「考える行為そのもの」は存在しているとしか言いようがないからね。
ここから、彼は心と物質は別々の存在であるという「心身二元論」に至り、さらに理性によって世界や科学を理解しようとする探究に進んだのよ。
生徒: うーん、悪霊が常に騙していたらというところがちょっとわからないな…。そうだとしても、2+2の結果は変わらないし、むしろ「考えている主体の自分」の方が騙されている可能性が高くない?
先生: 確かに、そこにはデカルトの考え方に対して感じる違和感があるわね。悪霊が「数学的真理」まで捏造している可能性をデカルトは考えたけれど、あなたの言う通り、2+2=4という論理的な事実は普遍的だから、悪霊が関与しても変わらないという意見はもっともよ。そして、「考えている自分」も騙されている可能性があるという指摘も、非常に鋭いわ。
でも、デカルトは「たとえ悪霊に騙されていたとしても、その『考える』行為自体は実在する」と結論づけたの。つまり、「私は今、何かを考えている」という事実自体は否定できないとね。そこが、彼の「我思う、ゆえに我あり」に至る論理的なポイントだったの。
生徒: なるほど、デカルトにとっては「考える行為」そのものが揺るがない基盤だったんだね。でも、そこからどうして数学的な真理や科学の探究に進んでいったの?
先生: そうね、デカルトは「考える自分」の存在を確信したあと、その基盤をもとにして、理性と数学を使って世界を理解しようとしたの。彼は「世界は機械のように動く」と考えて、自然現象を数学的な法則で説明できると信じたのよ。実際、彼が発明したデカルト座標系は、数学を使って空間を解析する手法で、物理学や科学の発展に大きな貢献をしたわ。
生徒: 最終的には、「悪霊の仮定」を乗り越えて、数学的な真理を信じていたってことになるのかな?
先生: そうよ!デカルトは最初に「すべてを疑う」ことで確実なものを見つけようとしたけれど、最終的には数学的な法則や理性的な思考を真理と認め、そこから科学的な探究を進めていったの。だから、悪霊の仮定は単に疑いのプロセスの一部で、最終的には数学や理性を信じる方向に進んでいったのよ。
生徒: なるほど、今日も勉強になりました、ありがとう。
注意書き
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