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なりきって考える
「質問力を磨く(Class Q)」の重要な要素に、「自分以外の誰かになりきる」があります。小難しくいうと「視点転換」。同じ社会事象でも、自分の目と自分以外の誰かの目では見え方が違うことを考えてもらいたいのです。この「なりきる」に春学期からこだわっている学生がいます。
授業中だけでなく後にも、しょっちゅう質問に来ています。
「なぜなりきる必要があるのか」
「なりきると◯◯の立場で考えるは同じか、違うか」
「なりきるためには『誰か』を調べなければならない。その時は『誰か』の視点で調べるのか、なりきる前の自分か」
「『自分以外の誰か』にも先入観や偏見があるはずだ。それらも考慮した方がいいのか」…。
真剣そのものの表情から安直な答えを求めていないことがわかるので、先日はハンナ・アレントの「責任と判断」(ちくま学芸文庫)の一読を勧めました。
同書には、1957年のリトルロック事件について書いた一文が収められています。公民権運動を背景に、アメリカの南部でも黒人と白人とがともに学べる学校を設け始めました。事件はその一つの高校で起きました。統合された高校から帰宅途中の黒人少女が、白人暴徒に脅しやいじめを受けたのです。この事件を報じる新聞の写真は、俯きがちに歩く少女の姿をとらえていました。その両脇を、スーツ姿の男性がガードしています。この写真からアレントは考察を始めます。
「自分が黒人の娘の母親だったらどうするか」
この問いを考えた後、もう一つの問いが浮かびます。
「自分が南部の白人の母親だったらどうするか」
わずか40ページにアレントの思考が凝縮されています。この「なりきる」から学生は何を受けとめるでしょうか。「なりきる」は「考える先生」プロジェクトの「役割」にも通じます。自分以外の誰かになりきった時、学校はどんな姿を見せてくれるのでしょうか。(マツミナ)