元喪女、未だに恋のことばかり考える
このnoteを始めた時のわたしは、まあ、10人中9人は認めてくれるであろう喪女だった。もともと不美人で太ましくて根暗でエキセントリックで、片思いはしても浮いた話は一切なかった。その上学生時代、あまり女の子たちからは恋愛対象と思われていない友人に突然告白され、ない恋愛感情をどうにか繕おうとして振り回した挙句にすぐ振るという大事故を起こしたっきり、わたしは10年近くにわたって自分を恋愛と切り離してきた。
いまの自分について、自分だということを知らずにスペックだけ聞いたら、2年前のわたしは「そんな奴に喪女を名乗らすな。殺せ」と言うだろう。わたしのことなんか眼中にないと思っていた格好いい元同僚と、(一瞬とはいえ)心の底まで抉るように恋をして、バーで隣り合った男の子やアプリで出会った男性からアプローチを受け、そして今も、自分からきらきらと好きになったひととつきあっている。
今まで貯め込んでいた恋愛運が突如暴発したみたいに。
呪いみたいに二つの台詞が耳に残っている。一つは、直前の元彼、元同僚が別れ際に言った「あなたは魅力的なのよ」ということば。もう一つは10年前、最初の最初に私に好意を告白してくれたあの友人が、夜の観覧車のてっぺんで絞り出した、「自分のこと、モテないなんて言わないでよ」ということば。
わたしはなんだったんだろうか。ずっと、喪女じゃなかったんだろうか。
* * *
現実問題として、恋愛経験の全然ない30歳のやばい女はここに存在している。人とつきあった期間は、2ヶ月(うち7週間が別れ話)、1ヶ月、4ヶ月、そして現在2週間。〆て一年にも満たない。
残りの29年は喪女として生きていた。そうそう変われるはずもない。
わたしは日常的に、妄想するように恋のことばかり考えている、別段今ここに不足があるわけでもないのに。ようやく巡り合ったと思える彼氏のこと。何も知らず朽ちていく運命を変えてくれた同僚のこと。遠いむかし片思いで焦がれたひとのこと。行くべき道をそれぞれ指してくれた、すれ違った男性たち。仕事をしながら、電車に揺られながら、ご飯を食べながら、わたしは彼らの言葉を、声を、横顔を思い返し、そこにない未来を妄想し、ぼろぼろになるまでもてあそぶ。
ひとくちにいって異常だ。
とはいえ、喪女にとって異常な過剰妄想は通常運転だ。妄想に対し、妄想と異なる現在進行形の実態が伴っているのが異常事態なのだ。己の中に作り上げた自己の反映ではない他者と恒常的に向き合っている、この状況が。
このありようは、非定型発達の問題も抱え込んで、ますますわたしを居心地悪くさせていく。
わたしは本当の他者と向き合えるのだろうか。
恋を知って、経験を得て、魅力の証明を満足するほど貰った今この時になって、わたしはやっぱり、喪女でも非定形発達でもない、普通の人になりたかったと半分思う。
わかっているのだ、「何が魅力だかわからないのが最大の魅力」と実の母にさえ言わしめたこの”魅力”とやらの源泉が、おそらくは恋愛経験の無さとASD傾向に由来する、長年の深い孤独にあることは。すれ違った人々も、今目の前にいる彼氏も、この身の内にある孤独ゆえにわたしに惹かれてくれたんじゃないかということも。まあこの当て推量が外れていたとしても、それでも自分がそう思うくらいにはこの孤独は宝物なわけで、これがぜんぶわたしなのだけど、だけど、だけど……
わたしは、どこまでも純粋に、あなたを好きでいたい。妄想の入り込む余地もないほど、ひたむきに。
『普通の』人だってそんな恋はしない。そうかもしれない。というかそうだろう。どこにだって打算や幻影はあり、だからこそ失望や幻滅がある。ただ、どれほど人を好きになっても鏡の迷宮から出られないようなふとした瞬間の絶望、こんなものを知る人は、恋する人の一体何割になるだろう。
喪女じゃなくなっても、わたしは喪女のままだ。「恋愛」という幻想、自分を欲望し見つめる他者という概念の魔力から、執着から逃れられない。
……。
いや、案外六割くらいいるんだろうか、そういうひと…。
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