写真と蕎麦
先日叔母がグループホームから特養に居住を移した。
コロナ禍があけても、いまだガラス越しでしか面会できなかった叔母と約四年ぶりに触れ合うことができた。
言葉も消失し、体も骨と皮となった叔母であったが記憶だけは色濃く残っていたのか、私のことだけは覚えていてくれて、手を伸ばして泣きそうな表情をつくってくれた。
つかの間の時間を過ごし、そのままも私と父と後見人のSさんは以前のグループホームに戻り、家財を整理することになっていた。
特養は多床室であり、今まで自宅の個室のように過ごしたGHのように家財や衣服などを持ち込むことはできない。
叔母は以前にも書いたが、独り身で頼れるのは80歳を過ぎる父のみ。自身の資産もなくした彼女の持ち物は私と父が処分することになった。
父も私の弟夫婦と同居で、叔母の持ち物は持ち込むことはできない。弟は「使えるものじゃなくても、自分が処分するから」と言ってくれたが、義妹が結局苦労することが目に見えていたので、使えるもの以外はこちらで整理することとした。残念ながら私の自宅も平屋の小さな家で家財を預かるような場所はなかった。
衣服などはサイズアウトのものも多く、また着古したものも多いためGHで整理して地元の古布引き取り業者へ持ち込んだ。
雑貨類もそのまま処分することとなった。
写真はどうするか?と父や後見人と話しをしながらもアルバムも処分することにした。
叔母がGHに入所するとき、まだ少しはっきりとした意思がある叔母から処分してほしいと言われていたからだ。
それでも元気なころの写真をすべて処分するのははばかれ、写真立てに入った写真だけは私の手元に置いておくことにして、写真立てから出そうとするとそこに叔母からの手紙が一通入っていた。
見つけた誰かへ
そう書かれた手紙と写真。
幸せなころの私です。
何かあった時にはこの写真を…
そう書かれていた。
その日地元はこの夏一番の気温で、GHの狭い個室で汗をかいていた私は、汗だか涙だかわからなに何かが、頬を伝ったのを感じた。
全てを整理して、遅いお昼をとることになり、父と蕎麦屋に入った。
蕎麦を食べながら父からお願いされた。
自分が先か妹が先か。
わからないけど。
できれば一緒のお寺にいれて欲しいと。
7年前GHに入所するときは、妹が認知症になったことをどうしても認められず、後見人を立てることになったのだが、ようやく自身よりも10歳若い妹の病気を認められるようになった。
順番ならお父さんだから、そのあとは任せて!
そう私が言ったら、蕎麦をすすっていた父は私を見て、今日はじめて笑った。