〈125〉子どもの権利の話なのか
〈124〉の記事を書きながら、巷で話題になった学校健診での着衣の話を眺めつつ、自分が悩む"集団行動が苦手だから参加しない"と"集団行動が苦手だからこそ練習させる"も、行き着く先は子どもの権利の話なのでは?と思えてきたわけです。
学校健診での着衣の話は、側弯症や虐待、栄養失調、心雑音などの早期発見のための医学的根拠を元に、親の意向の前に、子どもには健康でいる、健診を受ける権利があるという話であり、そこに当たり前にある羞恥心への配慮をどう工夫するかというものだと認識しています。
この件でもあちこちで安易な子どもの権利という"言葉"を盾にした、無知故のやり取りが散見されていました。
医学的根拠を無視した、大人の感想。
ここで考えたいのは、自己決定権と意思表明権。
自己決定権…自分で自分に関係する事柄について自由に決める権利
意思表明権…自分に関係する事柄について自分の意見を言う権利
子どもの権利条約では、子どもには意思表明権があるとされています。
「見られるのが嫌だから健診を受けない」
「痛いの嫌だから予防接種を受けない」
言ってくれるのは全然いい。それが意思表明権。
でも子どもの言い分をそのまま良しとはしない。
健康のために必要なことは譲らない。
決定は譲らないけど、そういう気持ちがあることを大人は理解しなければいけない。
何のために健診を受けるのか、なぜ脱衣が必要なのか、予防接種のメリットデメリットも可能な限り丁寧に説明する義務は大人にある。
そして不安や苦痛を少しでもとるための工夫はするべき。
と、考えたら、〈123〉〈124〉で書いてきた、自己決定とは何なのだろうかと思うのです。
ここ数年、おやつは何を選ぶのか、何をして過ごすのか、宿題を学童でするのかなどの選択を子ども自身にさせて、自己決定する力を育てようとしてきたのです。
それが今年度は、宿題をみんなでする時間、みんなで座っている時間を設けて、集団行動できない子どもたちだからこそ、そのような経験を積むというのを取り入れていて、どちらが子どもたちの為なのかと悩んでいるのです。
昨年度までの支援員も、子どもの「勉強したくない」「みんなと同じことしたくない」をそのまま許しているわけではなく、見通しつくよう早めの声かけや説明、促しをしています。
それでも子どもの発達特性、やらせることや混ぜることで起きることを考えて、共にしないという選択を許容しているのですが。
社会に適合するためにはある程度求められるものはあるわけで…
意思表明として認めつつ、共同する経験を積ませることは譲らないのか…
でも共同する必要って学童保育にあるのか…
あー、やっぱり難しい。
とにかく意思表明権は絶対に守るということはわかりました。
意思表明できるようになった先に自己決定できる自分が待っているのは確かなのでしょうからね。