プレハブと本棚と墨汁の香り
小学生の頃、通学路沿いの畑の隅に、小さな白いプレハブが建っていた。
プレハブは、上品な雰囲気の高齢の女性(Kさん)が管理していた。入口前の段差を上ってドアを開けると、墨汁のくすんだ香りが出迎える。ときどき習字教室を開いていたらしく、壁にかかった習字や床材に染みた墨の匂いが、そのプレハブを特徴づけていた。
プレハブの中央には長机が置かれ、それを囲むように座布団が並んでいる。壁沿いに本棚が所狭しと並び、児童文学や図鑑、国語辞典の背表紙が棚を彩る。
子供たちが学校帰りや休日にふらっと立ち寄り、好きな本を手に取って、じっくり読みたい時は借りられる。そんな小さな図書館が、そのプレハブのコンセプトだったようだ。
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「こんにちは」
プレハブを管理しているKさんが、優しく声をかける。Kさんは大抵、長机にノートを広げて何か作業をしていた。
本が好きだった私は小学3年生くらいの頃からこのプレハブによく出入りしており、すっかり顔馴染みだった。Kさんは私の祖母とも仲が良かったため、家族も了承済みだ。
当時は、ようやく家庭用デスクトップPCが普及した頃。もちろんスマホもKindle端末も無い。色とりどりな表紙に囲まれて、咎められることなく無料で本を読み漁れる空間は、学校の図書館を除けばほとんど無かった。
他の子供が数人いることもあり、どういう本が好きだとか話をしたり、トランプで遊んだりしながら、本棚を眺めて気になる背表紙に気ままに手を伸ばす。多くの人にページをめくられて縁が擦れ、窓から差し込む日光で黄色く変色した紙の、くすんだ匂いが読書に誘ってくれた。
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特に好きで読んでいたのは、宮沢賢治の短編集と、井伏鱒二訳のドリトル先生シリーズ。情景が浮かび上がるような繊細な描写、続きが気になるストーリー、語りかけるような優しい文体は、自分が文章を書くときにも少なからず意識してしまうほど刻み込まれている。
箸休め的な感覚で読んでいたのは、学研の学習漫画。理科の実験や科学の歴史、体の仕組み、各地の伝承などのテーマが特に好きだった。日常の疑問や純粋な好奇心を起点として、生涯学びを楽しむことを教えてくれた。
Kさんが勧めてくれた、「北極のムーシカ・ミーシカ」「さらわれたデービッド」。残念ながら内容を忘れてしまったので、amazonで探してもう一度読んでみよう。
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Kさんが長机の上にお茶を用意してくれる。気づけば窓から夕日が射し込み、もう帰る時間だと気づく。
まだ読み足りない本は、貸し出し帳簿にタイトルを書き、手提げ袋に入れて持ち帰ったものだ。
「さようなら。また来て」
見送るKさんの声を背に、プレハブを後にする。
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昨年Kindle端末を買って、すっかり電子書籍に慣れてしまった。この端末のおかげで、本屋に足を運ぶ時間が削減でき、本棚のスペースも気にする必要がなくなった。読書ペースも格段に上がったと思う。
だがその一方で、何か物足りないような、費用対効果で割り切れない何かを失ったような感覚を感じていた。
プレハブの扉を開けて漂う墨汁の香り、
優しく挨拶をしてくれたKさん、
学年の違う子たちとの会話、
本棚を埋める色とりどりの背表紙、
見知らぬ本との偶然の出会い、
ところどころ欠けたり折れたりした黄ばんだページ、
古びた紙とインクの混ざった匂い、
いつの間にか窓から射している夕日。
「情報を消費する」という感覚ではなく、五感を総動員して本の世界に浸るような読書体験が、たしかにあのプレハブの空間にはあったと思う。
たまには紙の本も読んでみるか。
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