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今はコンテンポラリージュエリーの過渡期

コンテンポラリージュエリー(以下CJ)がなぜ国内で認知/評価されないのか。その要因についての核心が椹木野衣著の「反アート入門」内に書かれていた。結論から言うと、CJ作品には《批評》が足りないということだ。
反アート入門は2010年に幻冬舎から発売された現代美術についてのバイブル的な本であるが、その中で私がこれだ!と思った内容を紹介したい。

著書の中には、

“批評は元来、作家すらもがとらまえていない作品の価値や意味、限界や問題について、作り手とは別の立場だからこそ見えてくる可能性を、「書く」という行為のなかで容赦なく抉り出していくような営みです。…(中略)批評家と作家は双子のような存在として近代に産み落とされました。やっていることは一見すると似ていません。でも彼らは、おたがいのいずれを欠いても自立することができない、弱い存在です。”

椹木野衣、反アート入門、幻冬舎、2010、p.326(引用p.63〜64)

と書かれていた。
この部分を読んだ時、自分の中にずっと抱えていたモヤモヤが晴れた気がした。CJ分野に足りないモノは批評だったのかと。

欧米諸国ではCJについての批評や評論などの議論が行われており、ある程度の文脈化はされているが、ジュエリーの歴史が浅い日本ではジュエリーの文脈を構築することは容易ではない。しかもCJの情報や批評といった類は英語での記述が殆どで、ジュエリー文化の歴史が浅いだけでなく言語の壁も同時に日本人の前に立ちはだかっている。このようなことを想定すると国内でCJが認知されなかった歴史は当然と言えるだろう。しかし、国内でも東京や京都の近代美術館にはCJ作品がいくつかコレクションされていることも事実である(興味のある方は公式サイトで検索することをおすすめする)。

日本のCJの歴史についてごくごく簡単に説明すると、国内にCJ文化を輸入した第一人者が菱田安彦氏である。菱田氏はヨーロッパへの留学をきっかけに、1956年に『URアクセサリー協会』を設立。その後1964年からは現在まで続く『日本ジュエリーデザイナー協会』を設立したことでCJ分野の発展を促した。工芸色の強いグループである。また、専門学校ヒコ・みづのジュエリーカレッジで後継を育成していた伊藤一廣氏は、1970年代から工芸とは別の切り口でCJを追求していた。美大の絵画科出身でもある伊藤氏は、アートに近い感覚でCJ作品を制作していた第一人者であったが、残念ながら早くに亡くなってしまった。
公共施設に目を向けてみよう。CJ作品にフォーカスした重要な展覧会も企画されていた。1984年福永重樹氏キュレーションの『今日のジュエリー・世界の動向』や1995年樋田豊次郎氏キュレーションの『コンテンポラリージュエリー-日本の作家30人による-』、2005年関昭郎氏キュレーションの『日本のジュエリー100年』、2006年北村仁美氏キュレーションの『ジュエリーの今・変貌のオブジェ』などが国立の美術館内で紹介された。他にも2007年には長谷川祐子氏がキュレーションした東京都現代美術館での展覧会『SPACE FOR YOUR FUTUREーアートとデザインの遺伝子を組み替える』にヒコ・みづのジュエリーカレッジで教鞭をとる作家の嶺脇美貴子氏が参加しており、その後にコレクションもされている。約10年間隔という長いスパンではあるが、国内でもまとまったコレクションを紹介する機会があったことは間違いないだろう。
1960年代中盤以降、作り手が増えていった背景には、欧米のジュエリー文化(CJのムーブメント)と日本の工芸分野との相性の良さが挙げられる。工芸とはそもそも《用×(素材+技法)×感性》で作られた造形物であり、この“用”という部分に“ジュエリー(着用性)”は容易に置き換えられる。このことにより国産のCJが作られるようになっていった。そして重要な点は工芸の文脈を利用できたことだと言える。国内には帯留めや簪、根付けといった欧米諸国とは異なった装身具文化があり、工芸の“用”として長いこと利用されてきた。そこに“ジュエリー”が接続することで、日本独自の工芸的なCJとして1980年代中盤以降特に注目されたと認識している。
※海外との交流が盛んだったヒコ・みづのや彫刻の流れを汲んだ作家ももちろんいたが、私の専門は工芸なのでここでは工芸領域にフォーカスする。
しかしながら現在ではどうだろうか。厳しい言い方をすると、この工芸的CJは社会一般でほぼ評価されていないと言っても過言では無い。皆さんにも想像してほしい。ジュエリー文化が乏しかった時代に西洋から文化が輸入されて国内の伝統文化と融合した時の衝撃を。新しい可能性が広がった希望の時代を。それに比べると今のCJはなんとつまらないのだろうか。玄人にしか伝わらない些細な変化、視覚的なデザインの変化だけでは周囲から見放されても当たり前だ。だから作り手たちは“ジャパニーズクラフト”が再注目されている海外の市場に頼らざるを得ない。そうなってしまった理由の一つとして、冒頭で書いた“批評が足りない”ということに繋がってくると私は考察している。

作り手が増えていく過程で国内にもCJを紹介するためにアート市場のようないわゆる“ジュエリー専門のギャラリー”もでき始めた。これはCJがビジネスの一つとして機能し始めた証拠でもある。一般的なジュエリーとは違ったアプローチのCJにある一定の需要があったことは間違いないが、残念ながら中々市場は大きくならなかった。原因を挙げると長くなるので割愛するが、結果、買い手(着用者)の感想や要望に合わせる潮流ができたと言ってもいいだろう。具体的には低価格帯と着用性重視のサイズへの移行が挙げられる。完成した作品に批評がなく感想しかなければ歴史に残るようなモノはきっと作れない。“好きなモノをただ作るだけ”を続けてきた現状がCJの衰退を招いていると、果たして何人が気づいているのだろうか。

ここまで読んでいただけたならお分かりだろうが、今のCJ分野に求められているのは《批評家》というパートナーであり、批評されるべき《ジュエリー作品》の提示である。

その為にこれからの作り手が意識するべきことを提案するとしたら、

どういった文脈で作品を作るか(新しく自分たちで作るor既存や新規の文脈に載っかる)

ジュエリーに固執しない、時代を反映した作家としての考え方の提案

以上の2点である。もちろんCJの作り手が全員これを目指す必要は無いが、これらを意識することで既存のジュエリーを超えた《批評されるための独立した作品》に近づくと考えている。
表題にもある通り『今はCJの過渡期』である。諸外国では有名なジュエリーギャラリーが続々とクローズし、コレクターも高齢化からコレクションを手放し始めた。市場の変化は著しく、実際問題、CJはプロダクトデザインジュエリーやコマーシャルジュエリーとの差が無くなってきている。こう感じているのは私だけではないはずだ。このままではまずい。

これから作り手が進む道として、以下のような選択肢が挙げられると考えている。

①《現代美術の文脈/世界へ挑戦する》
②《ジュエリーの市場/デザインを突き詰める》
③《現状維持を貫く(CJの海外市場中心)》

この中から一つだけ選択しても良いし、もちろん複数選択することも可能だろう。生活する為には絶対的に何かしらの収入は必要だし、興味のある作りたいモノも重複しているかもしれない。それぞれの作り手によって考え方も様々なのは重々承知している。
私個人としては①を選択した。簡単なことではないが、不可能だとも思っていない。具体的なビジョンを説明する予定だったが、長くなったので今回はこの辺で終わりにしてまた別の機会に投稿したいと思う。

続く。

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寺嶋孝佳【装身具作家/CJST企画運営】
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