世の正義のためのわがまま?自己正義のためのわがまま?
自分のためなら、他人を無下にしたり、ときには蹴落としたりする人とたまに出会います。
正義の方向性がどこに向いているかが違うんだと気付かされます。
何が正しいかはわかりませんが、ぼくはそんな人にはなりたくない、と言うかなれないなと感じます。
でも一方で、そういった立ち振る舞いができることに少しだけ感心しつつ、羨ましく思う瞬間もあります。
その人にとっては自分のことを一番大事にしていて、自分にうそをつかずに生きているんだろうなーと感じるからです。
でもぼくが苦手な人であることも事実ですし、「長いものに巻かれろ」と言う言葉がありますが、個人的に失くしてほしい言葉です。
簡単に巻かれるな・・・と思うわけで。
だから一時期、人間不信までは言わなくても、そんな同僚との距離を置きながら仕事をしていた時期があったり。
その後、個人で仕事をし始めた当初は、誰かと協働することに一歩を踏み出せなかった自分がいました。
1, 正義とは?
まだ本は読んでいませんが、「これからの正義の話をしよう」という本があります。
哲学的な話になっていますが、その中で正義には3つあって、
・幸福の最大化
・自由の尊重
・美徳の促進
知らない方は是非調べていただきたいのですが、
「幸福の最大化」と「自由の尊重」は極端な話だと感じ、「美徳の促進」は理想論だと感じました。
そしてどれも正義だし、どれも正義じゃないとも感じました。
と言うことで、個人的には正義を定義つけることはできないのではないかと思ったのが率直な感想でした。
2,映画「空飛ぶタイヤ」を観て感じた正義
今更ながら「空飛ぶタイヤ」を観ました。
正義の形のひとつが観れる映画だと思うので、是非ご覧いただきたいです。
簡単に言うと
・トラック運送会社の整備不良による事故?
・車メーカーの製造不良による事故?
という狭間で戦う人たちの物語です。
最初はどちらも「自分の会社を守るため=自分のため」という描写が描かれつつ、それがどちらも悪のように描写されていました。
しかし最終的には未来に同じ事故を繰り返されないために貫いた正義があり、ある意味いい意味でわがままであるべきだと感じました。
そのわがままが結果として、世のためにつながるかどうか。
それが結果として正義になるのかもしれません。
なので、一番の理想は世の正義のために行なっていることが自己正義につながっていること。
自己正義の延長線に世の正義があること。
そのためにはわがままであるべきタイミングもあるかもしれません。
そうすることで本当にステキな大人になれそうな気がすると感じました。
3, うそをつくか、うそをつかないか
うそをついたことがない人はいますか?
ぼくはうそをついたことはあります。
きっと誰もが何かしら、小さなうそをついた経験があるのではないでしょうか。
自分にうそをつかないことって、他人にうそをつかないことより大事なのかもしれません。
目をキラキラさせて夢を追いかけている人って、うそがないような生き方をしているように見えます。
上司の前ではヘコヘコしているけど、影では愚痴をこぼしている。
これって、自分にも他人にもうそをついていることに入るかと思います。
それも一つの生き方ですが、なんだか真っ直ぐに生きていく方が、気持ちが良さそうです。
ぼくは数年前まで真っ直ぐ生きてこれてなかったのですが、環境を変えることで、徐々にマインドに変化が起こりました。
ちょっとのわがままを持ちながら、世の正義になるために真っ直ぐに生きていきます。
では