軍歴証明書を取り寄せてみる(終)
2021年9月25日 待ちに待った軍歴証明書が手元へ
本マガジン内記事にて「レターパックを返信用封筒の代わりとする事を強くお勧めする」としたが、いざ手元に届いてみて、その判断が正しかった事を強く感じた。
まず公の案内としては「A4サイズの書類が三つ折りで入る封筒を用意」とあったが、資料の中にはB4サイズのものもあり、また枚数も多い為(これは同時申請した兵籍資料の枚数にもよる)、とてもではないが一般的な茶封筒には入りきらない。
また、レターパックの利点として、土日でも配達があり(2021年9月現在)、多くの地域では発送の翌日・翌々日には届く。
軍歴証明書が届いた
2021年8月10日に、おもむろに思い立った「祖父の軍歴証明書を取り寄せたい」という願いがようやくにして叶った。
自分の祖父の軍歴証明書は、想像をはるかに超える情報量であった。あの戦火の中、こんなにも詳らかに記されているものなのかと驚きもあった。
祖父の実際の「軍歴証明書」がこちらである。
昭和11年1月の歩兵二等兵に始まり、昭和20年12月の陸軍主計大尉での招集解除にて「祖父の終戦」となっていた。
祖父からについて、本当に何も聞かされていたなかった事がまざまざと理解できた。これは戦争体験者として、一言では語ることは出来ないであろうし、軍位が上がる事、つまりは戦果をあげる事とは…と考えると、語りたい内容でもなかったのであろう。
ざっと目を通して頂けるだけでもお分かり頂けるであろうが、祖父は大日本帝国に関わる地域(現・日本国外)を転々と異動(移動)しながら、まさに戦争をしていたのである。
兵籍資料に目を通す
軍歴証明書とは別に「兵籍資料」が祖父の場合7枚届いた。
上記の「軍歴証明書」が、旧漢字であったり文字が小さかったり、かすれていたりと解読不明な状態の手書き資料が遺されていた。他にも様々な資料があり、よくよく目を凝らせば読む事も理解する事も出来るが、東京都の担当職員の方が、難読な部分や他の資料とリンクする文字列に、丁寧に付箋を付けて下さり、略語を解説して下さっていたり、楷書を書き添えて下さっていたり、他の資料番号を記してくださったりと、大変細やかな手仕事がなされていた。一人一人の資料にこんなにも現代の方による手仕事が入るとは思ってもいなかった。
また資料の中には、日中戦争と大東亜戦争(当時の名称)時の地図も添付されており、祖父の辿った戦跡がこれまた細やかに解説されていた。
当時の太平洋に面する地域、またその地名は現代のそれとは異なっており、上記の軍歴証明書にもあるが、国名や地名が書かれていても、それがどこであるのかわかりにくい場所が多くあった。それに説明を加え、また書き下して下さり、わかりやすく色付けまでしてあった。
これは大東亜戦争の地図の資料である。
二等兵から大尉まで昇った、一人の男の戦争の軌跡である。
多くの場所、戦地へ赴き、命令に従い戦果をあげていったのであろう。
それが戦争であり、祖父の生き残る、未来へのただひとつの道でもあったのであろう。命を賭して、生きた証でもある。
戦争について、何も語らなかった祖父ではあったが、唯一誰に言うでもなくこぼした言葉に「昨日までの友人や同僚らが次々と死んでいった」というものがあった。
戦争とは
これは祖父の言葉でもなく、自分の思うところである。
戦争とはなにか──
それは「二度と繰り返してはならない」というよく聞く定型文ではなく、それは時代であり、どの国の人間も、生き残るため、生きていくための国を未来を残したかっただけなのであろう。その時その瞬間の必死の選択肢だ。
散っていった命に善し悪しはない、ひとつの命だ。どの国の方の命にも同じ重さがあり、大切なものであることに間違いはない。
「未来が良くあるよう」願うのは、過去も現代も変わらない。
この記事を読んで下さった方にもそれぞれ思うところがあると思う。
答えなどない、ひとつでもない、正解もない。
自分は、戦争に携わった方々と同じく、自分の世、次世代の世、未来永劫、良い時代を築いていって欲しいと願うばかりだ。
戦争で命を失ったすべての方のご冥福をお祈り申し上げます。
また最後までご拝読くださり、有難うございました。
この記事にて「軍歴証明書を取り寄せてみる」を終えたいと思います。
「軍歴証明書」を取り寄せたいと思われた方へ、自分の祖父の件が、ひとつの道、資料となれば幸いに思います。