『三行で撃つ』を読んだ
タイトル画像はみんフォトを「撃つ」で検索したら出てきたエビさんである。そしてこの書き出し三行は本書の主旨を理解していない証左である。
これ。
ぼくはライターでもなければ作家でもない。でも書くことは好きだ。じゃなきゃこんな記事書いてない。noteでいつも見惚れてしまう文章を書かれる方々に想いを馳せつつ、割と終始頷きながら読んだ。
仕事では文章を扱うほうだと思うが、法律や契約書など正確性の期待されるものばかりだ。本書が目指すべきとする文章とは対照的な、誤読の許されない文章。広がりのない文章。
もちろんこうした文章も読み手の「解釈」に委ねることは多々ある。だがそれは技術的であって技巧的ではない。まあそれを考えるのが好きで、人一倍楽しんでいる自信はあるけれど。
本書は、文章の技術も技巧も教えてくれる。勉強になることは多かった。だがそれ以上に目を引いたのは、「文は人なり」「エクリチュール(書き言葉)は、動いていく」といった熱のこもった終盤部分。自分の考えかたを支えてくれる一方で、揺さぶってくれる感覚を覚えた。
新しい読者が増えるほどに、書き言葉には新しい意味が付け加わっていく。新しい読み方、解釈、ときには創造的な誤読がなされる。いわば、テクストが太くなっていく。その書き言葉の「運動」に、書き手は異議を唱えることができない。異議を唱える資格がない。書き言葉とは、書き手の所有物ではないのだ。書いた時点で、テクストは作者のものではなくなる。書き言葉とは、読者のものだ(本書P.310)
ここでいう「誤読」は誤った解釈ではなく、本書のいう「誠実な誤読」「まだだれもしたことのない"誤読"」(P.164)のことだ。ぼくはこれを、自分の頭で考えた最善の解釈の結果であり、その文章に新たな生命を与える息吹を意味すると理解した。以前書いた下記のnoteと相通ずるものを感じて、背中を押される気がした。
今の時代、大概のことはもう語られている。自分に書けることなんて、と書くのを怖気ずく。それでも書く。自分だけの語り口、本書のいう「ナラティブ(narrative)」は無限に存在するから。
読みながら、ソシュールの言語観を思い出さずにいられなかった。言葉は世界を分ける。世界に線を引く。同じ位置に引かれる線は一つとしてない。その差異がオリジナルとして価値となる。価値とは、隣接するものとの差異でしかない。
これは下記の引用部分とも重なる。文章や思想の「つながり」は本書の後半でも繰り返し強調されていた。
企画とは、結局、編集なのだ。すでに世に出ていることを、総覧して、なにか新しい共通項、切り口があるのではないか。共通するキーワード、嫌なことばだが「時代の気分」があるのではないか。そうした目で「切る」のが、企画なのだ。(本書P.179)
この文脈の直前では、次のようにも述べられている。noteで毎日幾多のエッセイが綴られ、読まれている理由がわかる気がする。
わたしにしか、書けないもの。それは<感情>です。(P.168)
なにが企画となるのか。それはわたしの、できればわたしだけの、喜怒哀楽です。(P.168)
感情のうち「怒」「哀」は比較的多く扱われており、次して「喜」、「楽」を書くのが一番難しいという。喜が自分の嬉しいこと・楽しいことだとしたら、楽は誰かにとっての嬉しいこと・楽しいこと。ユーモアのある文章だけが楽をもたらしてくれる。ふっと肩の力が抜けるような、笑える文章。それが一番難しい。なるほど。確かに一番書きたいやつだ。
怒・哀は言葉にしやすく、喜・楽、特に楽は言葉にしづらいともいえる。昨年、noteの #磨け感情解像度の私設コンテストに応募した作品で、次のように書いたことを思い出していた。
言葉という抽象的な原理によって世界を手なずけることでしか安心を得られないのだとしたら、生きるとは、説明されていない世界を言葉で説明可能にする営みだといえないだろうか。そしてそれが、こと対処を要請されることの多いネガティブな感情―それは社会・文化・人によって異なる―に対して、自分に最も最適な形の輪郭線を与えるために必要なものだとしたら。
同コンテストの応募作品には、喪失の悲哀や孤独の不安などネガティブな感情を描いたものが多かった。ネガティブな感情こそ高解像度の言葉を要求するという仮説、間違ってはなさそう。
だが、笑える文章は喜をテーマとしたものに限らない。ユーモア(楽)は喜・怒・哀のどれもが昇華した形をとることができる。本書では喜怒哀楽の4つの感情が並列して扱われておらず、楽だけやや特殊な位置付けであるように見えた。
ポジティブな文章というか、笑いを届けられる文章と言葉の解像度の関係は奥が深そうだ。ユーモアについてもっと真剣に考えてみたいと思った。
ここに来て突然、今日のお昼は海老出汁カレーだったのを思い出した。なのでタイトル画像はこの上なく適切である。そして最後のこの三行はユーモアを理解していない証左である。