取るに足らない言葉は命を守るよ
大丈夫、という言葉を口にするとき。本当に大丈夫であることもあるだろうし、もしくは大丈夫じゃなくとも、そう言っておいたほうが物事が円滑に進むからその言葉を選ぶこともあるだろう。さらには、嘘でも大丈夫と言い続けているうちに自分自身が騙されて、ある程度大丈夫になってしまうこともある。
つまり「大丈夫」の輪郭というのは力技である程度動かせてしまうのだけれど、それを言い続けていると、なにが許せて、なにが許せないのか……という自分を生きる上でとても大切なことが、自分でもわからなくなってしまう。
この短歌の詠み手は岡本真帆ちゃん。今は歌人としても活躍する彼女と私は7〜9年ほど前、同じオフィスで働いていたこともあった。職場の中で働くまほぴ(と私は呼んでいる)は誰からも憎まれようのない、朗らかで優しい人だった。
そんな彼女がどういった心境でこの短歌を詠んだのかはわからないけれど、私は歌集に並んだこの一首のところに付箋を貼って、しばらくこのことについて考えていた。
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言葉というのは厄介だ。口から音として出てくる言葉と、心の中にある感情にはいくらかの誤差が、もしくは大小さまざまな嘘が含まれることがある。じゃあ、口から出てくるのがすべて容赦なしの本音であれば良いのか? といえば、そんな世界は考えるまでもなく住みづらい。他人に踏み込まれないように、もしくは踏み込みすぎないように、私たちは必要なだけの嘘を付きながら生きている。
そうした嘘は、ときに自分を守りながらも、もう一方で自己理解を難しくしてしまうこともある。さらに今の時代はそこにSNS上の言葉まで加わるのだからややこしい。心の中の感情、他者に向けた言葉、SNSに投稿した言葉……と、どれが本当でどれがニセモノか、第三者はもちろん、その感情の張本人にすらわからなくなってくるんじゃなかろうか。
SNSの投稿は第三者に見られるという前提があるのだから、どうしたって見栄や忖度、同調圧力による発言などが多分に含まれてしまう。私達はそうしたSNSを日記の代用品のように使うことによって、自らの本音を積極的に見えづらくしているようなところがある。
いや、こんなことを書くと、「私は本音のようなものをSNSに書いているよ」と主張したくなる人もいるかもしれない。というか、私がそう思っていた。私は子どもの頃からおいおい泣きながら深夜にブログを書き殴るようなところがあり、そうして書きなぐった文章を本音と呼ばずなんと呼ぶ!とは思うし、実際に本音であることには間違いはないのだ。ただそれは沢山ある本音の中の、他者に見てもらっても構わない部分なのである。もちろん他者に見せるのは憚られるような本音だって沢山あり、そうした感情にわざわざ言葉を与えてやる機会は少ない。
たとえば、近しい人に長年抱き続けている不満。社会的に正しいとされることに対しての苦手意識。日常の中での小さな怠慢や、ずっと心に引っかかっている自分の過ち。公にはしたくないような自らの癖や、わざわざ具体的に書く程ではない小さな喜びや痛み。
そうして言葉にしなかった感情は、言葉にできた感情たちの影に隠れて、存在が薄れていってしまう。というのも、感情は言葉を与えてあげるとぐんぐん育つ。言葉にすることでその輪郭が明らかになり、他者にも共有しやすくなるし、「あぁ、私はこう考えていたのだな」と、驚くほどに自己理解が深まることもある。自分自身の書いた言葉に鼓舞されることだってある。SNSは、そうやって自らの感情を育てていくのに向いている。
ただそうやって言葉を与えた感情は、ときに育ちすぎてしまう。一部の感情の種だけに肥料を与えたことで、それだけが地中に根を伸ばし、幹は空に向かってぐんぐんと育ち、沢山の葉を携え、他の弱々しい感情たちの上に大きな影をつくり、栄養も日光も独占してしまう。本来は多様な草花が雑多に生えていた……かもしれないのに、SNSに出す感情を取捨選択し続けてしまったせいで、そこには「私の本音はこれである」と書かれた大きな樹だけが残ってしまうのだ。そうした状況は、ぱっと見は立派に見えるかもしれないが、かなり脆弱で、壊れやすい。
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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。