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「自分の頭で考える」ではなく「他人の頭で考える」

「自分の頭で、じっくり考えてみてください」

哲学、という文字がタイトルに入った本を手にとったとき、そんなことが書かれていた。まずじっくり考える。つぎに、考えていることを言葉にする。そして、相手の考えていることを聞き……それが哲学のはじまりです、と。


えっそうなの? と疑問が湧いてくる。私もそれなりに自分の頭で色々なことを考えているし、それをこうやって文章にしたり、本にしたりもしている。じゃあそれはつまり、既に「哲学」がはじまっている、ということなのか? ほんなら、僅かであれども哲学してるんだったら、ワタシの本の帯にも「哲学」という文字を入れてあげたほうが、なんとなく知的に見えそうな……(しません)。



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お恥ずかしながら、「哲学」という文字が表紙に書かれている本を、上手に読めた経験が乏しい。


まずは、著名な哲学者の書いた本。昔の、そしてある程度権威ある男性が書いたものが多いので、現代のいち女としては「ウッ……いや、まぁ、時代っすね……」といちいち自分をクールダウンさせなきゃならないのだけれど、それでも面白いな、と感じられることはある。ただその前に、次々と出てくる固有名詞や概念に対して説明がなく、「この程度は知ってて当然」というスタンス。知識を得たいから本を読むのに、本を読むための知識がない。これでは、なんの装備もせずに雪山を進もうとするような状況である。


ということで、まずは雪山を登るための装備を手に入れよう……と、「哲学」に加えて「入門」という文字も書かれた本を手に取ってみる。こんどは読みやすい! が、なんだかテスト勉強をしているような感覚になってくる。いや、テスト勉強というよりも、「この哲学者の有名なセリフはこれ!(これだけ押さえといたらウンチクとして喋れるで)」というような……。うーん。わがままかもしれないが、入門にせよ、もう一層だけ深く潜りたいと思ってしまう。あと余談だけど、私は記憶力という点ではかなり阿呆の分類に入る(自宅の住所すら覚えられない)。そうした人間にとって、「記憶すること」を主目的としているような本はすこぶる相性が悪いのよ。


ということで、現代の哲学者が書いたベストセラー本をいくつか手にとる。著者によっては繊細な文章のことも、過激な文章であることもあるけれど……今度は、エッセイとの大きな違いがわからない。そして、冒頭のように「自分の頭で考えること」が推奨されている場合もあり、いよいよ悩ましくなるのだ。


そうして自宅の本棚に「哲学」という文字が書かれた本が何冊も積み上げられている中で、またその文字が書かれた本がタイムラインに流れてきた。『スマホ時代の哲学』。今度も途中で諦めてしまうかもしれない……と思いながらも、著者が私の母校で教鞭を執っているし、同世代だし……という親近感もあって買ってみた。すると、こんな一文が出てきたのだ。

「自分の頭で考える」の代わりに私が勧めたいのは、「他人の頭で考える」ことです。それは、「他者の想像力を自分に取り入れる」ことだと言い換えられますが、足飛びに説明せずに、着実に議論を進めることにしましょう。

『スマホ時代の哲学』より(太字は私によるもの)


他人の頭で考える……!

この言葉に私は喜んだ。というのも、「自分の頭で考える」はさんざっぱらやってきたが、やってきた故に、その道が行き詰まっていることもわかってきたから。自分の頭で考えていると、自分の内側から湧いてくるような「本当の声」に耳を傾けていく。そこにあるのは往々にして、「私はこれが嫌だ!ずっと不満だった!」という赤子のような叫び。

一方で、人と楽しくお喋りしているのも「私」であるし、壇上でエラそうに喋っているのも「私」。恋人の前で顔の筋肉をゆるませきっているのも「私」で、6歳の姪っ子と一緒に、子どものように遊んでいるのも「私」。思想はまったく合わないけど、でも仲の良い友人と飲んでいるのも「私」。こうして文章を書いているのも「私」。つまりその日の予定の数だけ、「私」の顔は変わっていく。攻める日もあれば、保守的になる日も、なんもしない日もある。

けれども、自分の頭で考えて、自分の声をちゃんと聞いて……とやっていくうちに、内側に閉ざしていた赤子のような声ばかりが過剰に大きくなり、そのキャラクターに自分が支配されていくのだ。それをSNSに乗せて発信することで、賛否の声が集まり、そのキャラクターはますます強く、大きくなっていく。いや、それは一見強くなっているようで、とてつもない虚弱性を抱えているのだけれど……。

(というようなことが、本書にも書いてあった)

「自分の内面と向き合え」「心の声に従え」という助言は「自分の声だと今の自分が思っているもの」を増幅させ、自分の中にある葛藤や対立を早々に手放すことを助長しかねません。つまり、「内なる声に従え」は、自分を一枚岩にしてしまう考えであり、モノローグ(独り言)的であり、自己完結的です。壁に話しかけて、跳ね返ってきた一つの声をエコーのように大きくしています。自己啓発文化の影響で自分の内面にばかり関心を向けすぎた結果、私たちはかえって自分を見失っているかもしれないのです。

要するに、現代の自己啓発が促すのは、内面への関心だけを極大化させる自己完結的な生き方、つまり、オルテガが批判した「自分の生の内部に閉じこもる」生き方です。

『スマホ時代の哲学』より(太字は私によるもの)

さらには哲学に限らず、なにかを学ぶ際に「学びの初心者」が陥りやすいルートを案内してくれている。

私も御多分に洩れずそうだったのですが、何かを学ぼうとする大半の人は、学んでいる内容を安易に「自分のわかる範囲」に落とし込もうとしてしまう。しかし、哲学に慣れない人がやってしまう「自分のわかる範囲」に落とし込む理解、つまり、自分なりに理解するやり方は、独創的というより単なる曲解である場合が多いのです。

『スマホ時代の哲学』より(太字は私によるもの)


あぁ、これにも心当たりがある。たとえば、安直に理解しようとして、科学的な根拠をすっ飛ばした「納得できるレベルのわかりやすい言説」に飛びついてしまうこと。もしくは、「あの人はこうに違いない」という想像で相手のキャラクターを膨らまし、過剰に敵対視してしまうこと。もし将来的に、「曲解を含んでいるツイートを自動的に削除」できるようなAIが登場したとしたら、Twitterは随分と平和なプラットフォームになるんじゃないか……というくらい、Twitterの中は曲解で満ちているような(というのもまた、曲解?)。


『スマホ時代の哲学』には、とにかく様々な哲学者や思想家の「考え」が出てくる。それの具体的な事例として、漫画やアニメや映画も出てくる。ただ、そうして登場する作品や人の固有名詞を一切知らなくても、なんとか読み勧められるだけの優しさもある。とにかく他人の頭を借りる。あと、著者である谷川さんの頭も借りる。それなりの装備を都度貸してもらいつつ、様々な植物の生い茂った森を進みながら、気持ちの良い登山が出来てしまう。

(本書にはエヴァからの引用がマジで多いのだけれど、エヴァを通らずに生きてきた私でもなんとか読了することは出来たよ)

が、登山の途中にはチクチクと刺さるような厳しさもある。でも「上から目線でムカつく」とならないのは、著者の谷川さんが「自分もダメです」と自己開示しつつ書いてくれている所以かな。まぁ「痛気持ちいい」を通り越して「痛っ…!!!」という箇所も多いのだけれど、私はそれくらいスパイシーなほうが好き。


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と、非常に面白い本だし、他の人が読んだ感想も知りたいから、これは読書会でも開きたいな……と思っていたのだけれど、ご縁あって著者の谷川さんと対談することになってしまった。これは読書会というより、読者による著者への質問会。明日、19時、梅田です。オンラインあります。1週間はアーカイブも残ります。3月17日(金)18時にチケット販売終了なので、ギリギリ参加不可能なのでご注意を!

SNSが加速させる分断、自己啓発書ブーム、SNSで自分を晒して生きること……話したいことが沢山。楽しい金曜日の夜に、きっとなるはず!

(私もサイン会の時間隣に座ってるので、何か持ってきてもらえればサイン書きます)


さて、ここから下は購読者さん向けの散文。


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新刊『小さな声の向こうに』を文藝春秋から4月9日に上梓します。noteには載せていない書き下ろしも沢山ありますので、ご興味があれば読んでいただけると、とても嬉しいです。