当たり前にいた人の逝去、当たり前に存在したものが消失と、当たり前で無くなる瞬間への遭遇、哀しみや喪失感は当然伴うものではありますが、意外と涙に直結するには一定の時間が経過し、思い出を反芻し終えた時に初めて感慨に咽ぶ瞬間が訪れるのだと思います。
人は生まれた時から死に向かって歩みを進めていくのですが、どれだけの人がいつ何時、仮に死を迎える状況にして悔いはなしと覚悟を決めて生きているのか、ふと訊ねてみたくなります。
斯くいう自分自身はどうでしょうか。
勿論目標に向かって生きて、挑戦の気持ちは日頃から朽ちることなく一日一日を積み重ねるしか、近道はないとの信条でいる事に間違いはないとする一方で、天命を知るとでも言うのか、不測に於いてもしもとした場合、悔いを残さない心構え所謂、今この瞬間について自分の意思を殊更に持つのではなく、どこか天命に従って生きたいと考えている軸をいつからか持つようになりました。
つまり長生きが決してスタンダードでなく、人それぞれの寿命に於ける使命に沿って、娑婆での日々を許されているに過ぎないのかもしれないという考え方です。逆に言えば、死の概念になかなか一般的な常識が当てはまらない事を知るようになります。それだけ死とは予測がつかない不可思議さが存在します。
これはニヒリズムとは違う、抗うことができない運命論への是非を問うものです。
人は自由意思による選択の連続から今に至ります。しかし生まれた環境や身体的な差は様々であって、その差で何もかもが決定される訳でもありませんが、意思の根拠が形成される要素である親の影響に起因する精神土壌は、ある時点の確かな自我がいつの時点で明確になるか、これは分岐点だと思います。
そこで初めて独立という意識を人は持つようになります。自然界で人間のみが強制を伴わない独立の作用を唯一許されている存在であり、保護状態から自分の意思で独立を掲げない限りそれもないという事を意味します。
結果、訪れたもしくは訪れている様々なタイミングからなる選択、そして現在。
これは偶発性と必然性、双方あって作用し合っての現象を誰も解析はできないのです。なので私は見えざる手による、どこで手繰り寄せたのか、寄せられたのか縁というサークルを信じざるを得ないし、敢えて神仏の導きなる、逆らえない何か…この何かを運命論という表現で解釈します。故にその運命論を前にして、私は謙虚になるしかないと覚ります。
そこでこの世において、何らかの使命を果たす為に生の猶予がある間は、一日を全うするに尽きると。
生殺与奪を自分自身が持つまでもなく、いずれ誰しもに訪れるものであるならば、今日の自分を一生懸命に悔いなく過ごす事がこの世に生きている人の務めなのだろうと思うのです。
自分に多大な影響を与えてもらった様々な故人への敬愛をいつも胸の中に置いて、私の心の旅は続きます。
『スルプレーザ(驚き)』
ブラジルの至宝、ミュージシャン・コンポーザーにして御歳80歳のカエターノ・ヴェローゾが1982年に発表した作品『コーリス・ノーミス』からの収録曲。
豊かなメロディと彩り溢れるアレンジでアルバム自体、ファンの間で人気の高い作品です。
この曲はアルバムの最後を締めるナンバー。心のざわめきや喧騒を押し流すかのように穏やかな日常に戻してもらえる、不思議とブラジル音楽特有の間が心地良く、今回のテーマにフィットしていると感じるのです。