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インフラとボーダーレス…ロマンポルノ論

東京出張の折は映画館で映画を必ず一本は観ることを決めている、楽しみの一つとしています。

先日、上京した折、山口県と隣接の北九州市では上映機会に恵まれず未見の濱口竜介監督が手掛けたカンヌ国際映画祭受賞作品『ドライブ・マイ・カー』がキネカ大森で上映している事を調べ、向かうこととしました。

浜松町をベースでの移動でしたので、京浜東北線でほんの数駅で大森まで行けるところが人身事故が発生した為、京浜東北線の運行停止で、田町で下車。予定の路線変更を余儀なくされざるを得なくなったのです。

そこで思いついたのが、名画座の渋谷シネヴェーラ。現在、日活ロマンポルノ開始50周年の特集上映にシフトチェンジすることにしました。渋谷到着からのタイミング良く加藤彰監督作品『OL日記 濡れた札束』を鑑賞しました。

ストーリー概要を解説すると、実際の事件を下敷きとしたフィクションながら、1974年の作品として背景が大阪、そして高度経済成長著しい当時の日本と‘戦後は昔’という言葉も流行り始めた誰しもが平和を当たり前にモラルより利己主義が蔓延しつつある世相を皮肉ったような、ある種の風刺を感じる作品です。
端的に言えば、主人公の女性行員が男に貢ぐため横領を重ねて露見前に偽名で逃避するも、結果逮捕に至るまでが描かれます。

劇伴、構成に脚本、芝居、カメラワークと70分内での見事な表現スタイルに惹き込まれました。ただご存知だと思いますが、10分に1回は絡み、濡れ場のシーンを入れなければならないロマンポルノの制約の前に、ドラマのテンポをスローダウンさせるジレンマを生じさせるのが、「早く次の展開を見せてくれー」と思わずにはおれない点は仕方ないと感じました。しかしよくよく俯瞰して作品を考察すると、執拗に現れる絡みのシーンを通して人間の弱さや哀しみが浮き彫りになって、ラストに収斂される効果として有りだったのではないかと考え直したのです。

一般的にロマンポルノを観る目的は濡れ場だと思われますが、プロデュース側には興収が上がればよし、監督側には制約を逆手に取って作りたい、描きたい表現を実現していく場としての利用価値は大きかったと、いつしか濡れ場よりも物語に観入ってしまう映画ファン、もしくは映像志望な人々は間違いなく少なくなかったと、画面から念のようなパワーが伝わるのです。

当時、アート指向が強い映画作家はATG(アートシアターギルド)を志したのでしょう。しかし、アートではなく一般的な日常や私小説的なもう少し分かりやすい映画表現を指向するには当時の環境では日活ロマンポルノしか映画監督への道は無かったと改めて解析します。これは現在的にはミニシアターの分類に近いという捉え方もできると思います。ロマンポルノを経てメジャーの監督になった数々の名匠がその証左と言って他なりません。

更に観終わってどんよりした気分にさせられる特徴もこれは作品にもよりけりではありますが、概ねの作品に通じる作家性が感じられる根拠とも言えます。ちなみにロマンポルノの代表作とも言える中上健次原作『赫い髪の女』は現在の映倫査定ではPG15となり、成人映画指定から外れます。

まさに映画質感や作家的な志は時代の価値観や多様性の理解が深まっていく中で、残るものは残っていくという伝えるに値するものだという評価に変化を遂げるのです。
その点である一定の縛りや狭き門の時代の作品には、その中を掻い潜ってきた逞しさが自ずと宿っていることが分かります。
インフラが整備され、誰でも自由に映画監督を志せる時代にもしその志向性があるならば、何が必要なのか敢えて述べるならば、一定のハードルを設定することだと思います。そのハードルは難解な方が良いでしょう。そのハードルをどうやって越えていくかを考えられる作品を作ることが望まれます。

誰でもできる時代だからこそ、誰でもができない何かに取り組むことが、私には生き甲斐に繋がることだと思えてなりません。

渋谷センター街近くにあるその昔、よく打ち合わせで利用した喫茶店。貼り紙に閉店の挨拶文。再開発真っ只中の渋谷の光と影を見た瞬間でした。

移転していたディスクユニオン渋谷・ロック専門店の入口回廊の壁紙。ほぼ聴いた名盤ジャケットの応酬に驚き。いろいろ変わっていた渋谷の一面の一つとしてです。

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