感受性の差異とは、その人なりに備わった特性であるというのは以前の回でお話しした通りですが、年を重ねるに連れて知識量は増え、その根拠を深めていく方向と新しい感性を身に付けていくことの幅の広がりを持てる方向、例えば時代的な価値観、テクノロジーへの対応能力やジェンダーやグローバリゼーションの捉え方を至極当然に受け止められる柔軟性の是非とでも言うのでしょうか。
映像の分野でも360度カメラの登場はいわゆる構図という根本概念を打ち砕くものであります。
出版業界では取り次ぎ店を通さない書籍流通、直販売が浸透し始めています。このnoteの登場もその潮流の中にあるとも言えます。他多分野諸々、既成概念から解き放たれたインターネットを通じてのビジネスマターが席巻し、そのスピードは止まる事を知りません。
もしかすると、これからの時間経過において、冒頭に述べた感受性の差異は徐々に解消されていくのではないかと思わずにはいられないのです。
これは先ほどの均一化された環境のもとで、専門性に触れる機会の減少が進み、根拠に乏しい曖昧なネット情報のみで、ある種の価値観が生まれるシステムが出来上がる理屈です。
実際、人権への理解が声高に叫ばれる割には、あまりに稚拙なレッテル貼りや白黒つけたがる二元論が横行しまくっている現実には矛盾しかありません。
しかし先ほど顕した知的素養が浅薄になった上で、且つ思考力の低下は、そうした状況を作って当然と考えられます。
逆にかつての1960年代に吹き荒れた学生運動を起こした当事者たちの読書量は今より遥かに多かったはずであり、プロテストアートへの造詣も深く、社会参画への明確な意志を標榜していた若者がシェアを占めていたのです。
周知の事実として結果はともかくも、何かを変えたい、だから行動するというシンプルな初期衝動からの従順な展開には、少なくとも熱が生じた故の知識をつける事に必死だったのだと思われなくもありません。
現在は少子高齢化の中、怒られた事がない子供も多いと耳に、私自身も目の当たりにします。彼らはとかく純粋培養で協調性に長けている反面、打たれ弱さはまず間違いありません。声高な意見に左右されやすく、異論を唱えにくい傾向がこの国の本質になりかけていると見ます。
要は感受性の差異があるからこそ、それぞれが疑問に思う視点も異なり、多様性はそこに育まれるという観点があるのです。
それぞれの人の気づきが時に物語の創作や仕組み作りに転化していく理由と言って良いでしょう。
同調性に重点を置くことは、発展にとっては弊害の方に繋がりやすく、これこそ本質を覆い隠します。
世の中が「あるべき」「なければならない」に陥ったように感じられる時、何故そうなのかを考える事から始めたいものだと思います。
今回、感受性をテーマにしたという意味では、感受性の塊みたいなアーティストこそ、このアルバムを作ったトッド・ラングレンの存在には物凄く惹かれるものがあります。いつかトッドについては、思いの丈を語らせていただきます。
写真は名曲『I Saw The Light』も収録の名盤『Something/Anything?』