映画「ぼくのお日さま」の言葉よりも雄弁な映像表現。「視線」は口ほどに物を言う
説明的な台詞や描写が溢れる昨今、奥山大史監督『ぼくのお日さま』の映画体験としての純度の高さは異質だ。シンプルな筋書に反比例するかのように、無限のグラデーションを描く映像——映画本来の視覚言語に振り切った本作の潔さは、清涼剤のようだった。
小さな所作が忘れがたく目に焼き付く映画がある。ロベール・ブレッソン『ジャンヌ・ダルク裁判』における視線の上下、小津映画に出てくる人たちの床をスタスタ歩く足。奥山監督の『ぼくのお日さま』もまたそんな映画である。
例えば、スケートコーチ・荒川(池松壮亮)の車のハンドルを握る手の美しさ。氷上の佇まいから伝わる体幹の良さ。そこに人物の内面が滲み出る。クィアというアイデンティティを伏せながら、スケートコーチと生徒という距離感で思春期の少年少女を指導する少しだけ複雑な立場。感情を抑制した荒川の自己防衛的ともいえる態度が、その所作や姿勢からも伝わってくる気がする。
監督が雪景色を映画の舞台に選ぶ理由は、画面に余白を作るためだという。情報量の少ない画面の中で人物の動きが際立つ。しかし、この余白は視覚的なものにとどまらない。最小限の台詞と説明描写、抑制的な演技——それらが生み出す静寂の中で、人物の何気ない所作がストーリーを語りはじめる。
人は何かを見ているときには、別の何かを見ることができない
ブレッソンの映画のように、『ぼくのお日さま』は「視線」が物語の核となっている。
フィギュアスケートを練習する少女・さくらに見惚れる、少し吃音のあるタクヤ(越⼭敬達)。タクヤを応援しようとスケートを教えはじめる荒川。そんなコーチを密かに見つめるさくら(中西希亜良)。3人それぞれの憧れの視線がつなげたトライアングルが物語を紡いでいく。
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