映画「ピアノ・レッスン」を読む
本作品は,紛れもない傑作である。
ジェ-ン・カンピオン監督は,小説でもなく,演劇でもない,絵で語る正真正銘の「映画」を撮った。テ-マを簡潔に記号化・図式化し,それを美的映像に置き換えただけでなく,驚くべきことに,詩にまで昇華させてしまったのだ。例え,ストーリーやテーマを忘れようとも,絵は心に残るのである。スタイリッシュに映像を撮りあげる監督はいても,詩的な映像を撮りあげる監督はそういない。カンピオンは,その稀な才能を持ちあわせた監督なのである。しかし,そんな詩的な映像を言葉でいくら説明しても意味がない。ただ,見てもらうしかない。まだ見ていない人,今すぐ30周年 4Kリマスター版を観に劇場に駆けつけて欲しい。
この作品のテ-マは,「理性で見失った愛を本能で取り戻せ」。図式は,いたって簡単。文明人(=理性人)の女性が,海と山に包まれた原始の島(=本能の世界)へ入り込んでくる。そして,そこには,文明人(=理性人)の男性と半原住民(=本能を自覚した理性人)の男性がいて,その女性は,その二人の三角関係に思い悩むのだが,そこでの生活がすすむにつれて,女性はこの島の海や山のように,人間本来の自然の姿を取り戻していく。
カンピオン監督は,人間は愛を取り戻すために「本能を解放せよ」と訴えており,それがタイトルにもなっている。つまりは,「ピアノ・レッスン」とは,「本能の自覚のためのレッスン」を示しており,レッスンを受けているのは,ベインズではなく,エイダなのだ。
その「本能」の中で,最も中心に触れられているのが,「種族維持」の本能である。人間の男女の結び付きは,他の動物のオス・メス同様,子孫を残すため,つまりは,性的欲求によって成立している。
人間もオスが,メスの「肉体(表情を含めた外見)」と「感性」に惹かれ,メスは,オスの「野性(押し・アタック)」に惹かれ,受け入れる。この映画では,半野性人のベインズが,エイダのピアノを弾く姿(肉体・表情)とその調べ(感性)に夢中になり,性欲を感じるようになるというスト-リ-を仕組んでいる。理性やら道徳やらは,この結び付きについて,いろいろ綺麗な「まやかし」を並べるが,それは意味がないと言うが如く,主人公のエイダは言葉を話さなく,彼女と結ばれたベインズは文字が読めない。そして,二人の間には通訳も要らず,その役を担ってきたエイダの娘のフロラは,家の外へ追い出されてしまう。
だから,エイダが,なぜベインズに惹かれたのかという理由は何もないのだ。ただ,理由があるとすれば,本能に従ったということになるだろう。所詮,人間も他の生物と変わらない。
しかし,性欲を感じるのは,もちろんオスだけではない。メスも同じだということも,この映画は,しっかり語っており,と言うか,それがメインになっている。ベインズが,自分の衣服をピアノになすりつけている場面を思い出してほしい。あれは,おそらくピアノを自分の分身にする(男性化する)儀式だったのであろう。よって,エイダは,レッスンでピアノを奏でることで,男性の体に触れていることになり,自分の性欲に気づき,心ならずも本能の自覚することになる。そして,自分の性欲に気づき出したエイダは,その欲望を確かめるように夫のスチュア-トの体にも触れていく。自分は夫を触っても,夫に自分を触らせないのは,夫の欲望ではなく自分の欲望を確認するためだったからであろう。
誕生して以来,人間は,常識・道徳・宗教といった社会性(理性)によって,本能を押し殺してきている。たまたま,エイダのように,その本能を自覚でき,自然な人間関係に帰着しつつも,理性はそれを阻止しようとする。この作品の中で,その理性を体現しているのがスチュア-トである。しかし,理性は,エイダの強い意志(本能)を阻止するどころか,かえってエイダの心を燃え上がらせてしまうことになる。
ここで,もう少し,エイダを軸とするベインズとスチュア-トの三角関係を詳しく見ていきたい。ベインズ対スチュア-トの対決は,「本能」対「理性」の闘いなのである。そして,結果は,本能が勝利を勝ち取ることになる。しかし,それはなぜか。
そこで,考えなければならないのが,もう1つの本能の「個体維持」から派生して生れる欲望の「存在証明」のことである。人間,誰もが自殺をしないがために,自らの存在の価値を求めてさまよう。つまり,ここでは,本能が理性を支配しており,本能と理性の間には,明確に境界線が引けない部分があると言っていいだろう。エイダの存在証明は,ピアノ演奏といった「表現活動」であるが,それを認めているのは,ベインズであり,スチュア-トは彼女のピアノ演奏に何も感じていない。これは,人間の「存在」は理性でなく,本能で感じるということを意味しており,結果的には,本能が勝つということになる。
いずれにしても,本能の対決に破れたスチュア-トは,新たに本能に変貌していったエイダと闘わなければならなくなる。森の中で犯そうとしたり,家の外に錠を掛けたり,指を切り落としたりとあらゆる手を尽くす。カンピオン監督は,こうした強烈なシ-ンを連打して,道徳という正義に疑問を投げかける。と言うより,道徳を正義から悪へ塗りかえる。「レイプ」「指切り」,両シ-ンともに,スチュア-トは,結婚という道徳を振りかざし,無残にもエイダの自然な人間の感情を砕ききった。道徳のおぞましさを見事に映像化した素晴らしいシ-ンだったと思う。また,指切りのシ-ンでは,天使の羽根を付けたフロアが道徳を重んじ,スチュア-トに密告する伏線として,クリスマスの劇の中で,天使の格好をした男のシルエットが,娘の指を切るシ-ンを用意している。そして,その劇中の「指切り」を島の原住民(=本能)が止めに入ることも,ラストにベインズがエイダを救うことを予感させて効果的だったように思う。
結局,ステュア-トは,エイダの強い意志(=本能)に負けてしまうが,その敗北をエイダの瞳から感じられたということは,スチュア-トも本能を取り戻したのかも知れないと,カンピオン監督は希望を持たせてくれる。
そして,ラスト。指を失い,ピアノ演奏も出来なくなったことで,自分の「存在証明」を失くしたエイダ。生きる意味を失い,航海中,ピアノとともに自らの生命を絶とうとするが,そこでも,「個体維持」といった強い意志(本能)が,それを阻止する。非常に感動的なシ-ンだったと思う。そして,この自殺は,エイダが理性から本能へ変貌を遂げる最後の通過儀礼,もしくは登竜門となっていたと思われる。エイダのように一度理性的になった人間には,自らの本能に気づいた後も,純粋に本能の赴くまま行動するのは困難なことである。常に理性と本能の間で悩み続けることになる。人間,頭でっかちになると,理性が本能を抑え込もうとする。エイダの自殺の動機も「存在証明」を失ったという理性的側面から,「個体維持」という本能的な側面を抑え込もうとしていた。だが,その理性と本能の葛藤の末,結局,本能が打ち勝ち,エイダは自らの命を救うのだ。しかし,本当の意味で,エイダが救われるのは,その本能という「強い意志」が働いたからだけでなく,ベインズが彼女の強い意志を受け止めることが出来るからなのである。エイダは,本能を抑えて生きていかないと,道徳といった理性でできている社会を乱すことになることを身をもって知らされている。しかし,本能を抑えていくと,エイダ自身がだめになることもよく分かっている。
そこで,カンピオン監督はこう語る。このさまようエイダの本能を救えるものこそが,道徳の尺度を捨てたベインズの本能なのだと。本能を受け入れることができるのは本能だけであり,それが本当の愛の姿なのだと。
ベインズは,指を切られ,本能を出すことが出来なくなったエイダに義指を与えた。つまり,この義指は,単に外面的なことだけでなく,内面的にも傷つき,本能を出すことに臆病になったエイダに対するベインズの愛だと言っていいだろう。そしてこの愛が,エイダのためというよりは,自分が惹かれた「感性(ピアノの演奏)」と「肉体(指)」のため,つまりはベインズ自身のためであるということが,道徳のように偽善ぽくなく,いかにも本能らしいと思えるのだ。
ただ,受け皿があっても,すべてを打ち明けるのは難しいこともカンピオン監督は暗示している。ラスト・ショットの「綱でつながれた海底のエイダ」の映像がそれで,無論これは,あそこで死んでいたら,こうなるであろうという,言語を捨てた「6才からの心理状態」という現在を示すとともに,無意識の世界の中に,自覚できていないが,自分を支配している「未知なる部分」がいつまでも存在するという未来を示していると思われる。だが,この監督が,その「未知なる部分」や「閉ざした心」を自覚・表出し,コミュニケ-ションをとっていこうという前向きな姿勢であることが,エイダのピアノと言語の復活から読み取ることができる。つまり,受け手がいなかったため,言語を捨てた6才児が,心を開きコミュニケ-ションの再出発をかけるという希望に満ちた話なのだ。
だが,最後に一言付け加えておくと,この映画のテ-マは,社会の中で,誰に対しても心を開けときれい事を言っている訳ではなく,あくまで個人的な関係についてのみ語っていると言っていいだろう。流し手と受け手があってこそ,初めてコミュニケ-ションが成立し,この流し手と受け手のバランスがとれていない社会では,心を閉ざし,嘘をつくこともやむを得ないとしている。個人的な関係と社会的な関係を区別する二枚舌は必要なのだ。エイダが,スチュア-トにベインズとは二度と会わないと約束しながら,ベインズに「私の心は,あなたのもの」とピアノの鍵盤に書いて渡そうとしたのは,そのためであろう。
この映画をみて,私はエイダと違って,道徳的な人間だから,自分とは関係ないと思う人がいるかも知れない。しかし,そんなことはない。誰もが,本能を生まれてからの教育で目隠しされ,最初のエイダのように自覚していなかったり,または,気づいても道徳に反するからといって内に秘めたり,勇気を出して外に出しても,傷付けられた痛手で抑えたりしていると思う。
「こうあるべきだ」という理性の自分と「こうしたい」という本能の自分。自尊心の高い人間ほど自分自身を見失いがちかも知れない。とにかく我々は,本能の自分を受け入れてくれる相手を見つけるとともに,エイダのように表現活動を始めたりするなどして,もっと自分自身を見つめることが必要だろう。そうすれば,恋人との愛を深めることが出来るかも知れない。