ブルネロ・クチネリ「人間主義的経営」(書評)経営の本質とは
軽井沢で午後の数時間を過ごした際に出会った本がある。
ブルネロ・クチネリの「人間主義的経営」。
ブルネロといえば、誰もが知る最高級のカシミヤの世界的なファッションブランドだが、感嘆すべきは、プロダクトというよりもその経営にあった。その経営思想は、一朝一夕には作られるものではなく、彼の幼年期の経験、その後の長い哲学的な思索と習慣によって築き上げられたものであるが、何よりも、人間、自然、労働を尊重し、事業はそれを達成するためのものという位置付けに、経営の本質を見た気がした。
私自身この1冊の本に深く傾倒し、3回読んだがそのたびに新たな発見があり、自分が将来会社を経営する際に、バイブルにしたいと思っている。今回は、少ない紙面の中、少しだけ紹介させて頂きたい。
ブルネロ・クチネリは、カステル・リゴーネという小さな村の貧しい農家に生まれた。13人の大家族が一緒に住み、テレビも電話も水道もなく、自然と一体となった暮らしを営んでいた。毎日、朝家を出るときには両親に「神の御加護がありませうように」と額にキスをされ、畑仕事を手伝うと有難がられた。
物質的な豊かさや便利な生活はないかもしれないが、家族の愛と美しい自然の中で幼年期を過ごす。牧歌的な風景が浮かぶ文章を読みながら感じたのは、「絶対的な人間の肯定」だった。彼の現在の経営哲学の原点として垣間見れる「人間の存在自体を肯定する心」、その人間を肯定するために「労働を尊重する心」は、ここから生まれたのだと思う。
ブルネロ一家は、中学生の頃、町に引っ越して父親が工場勤務をはじめた。すると、父親は人が変わったように疲れ果て、工場で人としての尊厳を傷つけられているその姿に心を痛める。こうした経験から、彼にとっては労働は利益を生み出すための手段ではなく、人の生きる意義を与えるものであるべきだという考え方を強くしたのだろう。
だから、現在の彼が経営する会社は、徹底的に人の手仕事に価値を置く。職人学校を建設して人の手仕事の価値を磨き、会社を構えるソロメオ村の再生プロジェクトを通して人が暮らす土地や自然環境に投資する。それによって、手仕事の価値を更に高めていく。高められた価値によって生み出された利益は、人や土地への投資となる。その循環がブルネロ・クチネリの会社経営だ。プロダクトはあくまで手段、人間や自然に還元するための循環を作るのが、彼の経営だった。昨今「SDGs」が叫ばれて久しいが、まさにブルネロは何十年も前から、循環型の経営を行っていたのだ。
最後に、私のお気に入りの一節を紹介する。
一度に全部を手に入れるとその対象が潜在的に持っている価値を減じてしまいます。制限のあることは貧しいことではなく、制限があることによって想像力が刺激され、創造性が生まれるのです。
目を閉じることによって目を開けているときには見えないものが見え、全てを見た時に未知であるがゆえの魅力や価値は消えてしまうのです。
まさに、私がイタリアに感じていた「豊かさ」が言語化されたようだった。
無いものを手に入れようとするのではない。無いものを受け入れて、そこから新たな面白みを見出す。そこで生まれたものはどこまでもユニークで、マイナスがあるからこそ全体として美しい。
マンマの料理も然り。
イタリア料理の根幹をなすクッチーナ・ポーヴェラ(庶民の料理)では、手に入る材料に限りがある。だけど、その中でなるべく美味しいものを作ろう、人を楽しませよう、という創造性を込めたものが、家庭のユニークなパスタになっている。恐らく、手に入らない食材をお金を出して遠くから運んできたり、宮廷料理のレシピ本を見て同じものを作ろうとしていては生まれ得なかった幾多の料理こそが、イタリア料理を深く魅惑的なものにしているのだ。
資本主義の世界では、いかに早く効率的に資本を生み出すかが勝負であるがゆえに、無理をしてでも現在価値を最大化しようとし、不透明であることはネガティブなものとしてそこには価値は見出されない。
ブルネロは経営者として立派に資本主義の中で成功していても、一方で「人生の面白み」を忘れない。「目を閉じることによって見える魅力」として、そこに一人間としての面白みを見出している。その意味で、彼自身が「人間」であり、そのことが「人間主義的経営」を可能にしているのだと、はっとしたのである。