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AI時代、それでも書く理由

 AIでも文章が書けるのに、なんで僕は自分で書いてるんだろうって、ふと思った。
 AIに任せたほうがラクなんじゃないか。
 AIができることを自分でする必要はないんじゃないか。
 AIに触れたことがある創作者さんなら、大小の差はあれど、同じ気持ちを持ったことがあるんじゃないでしょうか。

 たとえば。
 僕が今まで書いてきた文章をAIに学習させる。
 そして、僕っぽい文章を出力してもらう。
 それぐらいなら、今でも十分できる。
 実際、ちょっと裏で試してみたりもした。
 いつも書いているつぶやきを、AIに任せたらどうなるかなって(あ、実際の発信には使っていませんから!)。
 それは口調や雰囲気、意識してることまで程よく抽出していてさ。
 正直、AI作だと見抜くのは、かなり難しいと思う出来だった。

 だったら、僕が書く必要はないんじゃないかって。
 AI任せにしても良いんじゃないかって。
 そんな思いが頭をよぎることがある。

 でも、さ。
 シンプルな話。
 それって、楽しくない。

 AIを操る楽しみは分かる。
 かつて、イラストやサムネイル用の画像を作るためにAIを使ったときは、楽しかった。
 AIに指示を与えて、自分が思い描いた通りの出力を得るのは、なかなかの達成感がある。

 でも、それは「文章を書く」という楽しみとはまったくの別物。
 そう。僕はラクしたいんじゃない。書きたいんだ。
 この欲求はAIには満たせない。

 たとえ、AIが似たようなものを書けるとしても。
 むしろ、AIの方が良く書けるようになったとしても。

 僕は、自分で書くのが楽しいから、僕が書く。
 「書いたもの」だけじゃない、「書くこと」という行動に、価値があるんだ。

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