昭和の記者のしごと⑬左遷
第1部第13章 「左遷」の効用
日本の記者でフリーというのは少なく、大半はサラリーマン記者です。サラリーマン記者はポジション(任地、役職)によって、取材し書く対象の範囲が決まってしまいますから、左遷されるかどうかは、出世するかどうかでなく、仕事上きわめて重大な問題だということは、お分かりいただけると思います。こう書き出したからと言って、今更、左遷をめぐって、会社への恨みつらみを言おうというのではありません。むしろ逆で、左遷は仕事人生にとって、悪い事ばかりないというのが、私の経験に基づく意見なのですから。
さて、お前の左遷経験は、と聞かれれば、胸を張って?あります!と言う返事になりましょうか。ここで、急いで補足しておきますと、左遷は当事者の実績、実力に比し、ポジションが釣り合わない(低い)ところへ異動させられることですが、釣り合わない異動かどうかの判定は客観的な基準があるわけではなく、左遷されたと思う当事者の主観的なものだということです。私の(主観的な)左遷は、昭和56年、1981年、丁度40歳になった時、NHK社会部を出て、新潟、盛岡、前橋のローカル局で3年ずつ、計9年のデスクをした時期がそれにあたると当時は考えました。特に新潟では、上越新幹線の開業、田中角栄元総理大臣のロッキード事件裁判の判決があった時期で、その地元の反響などを全国ニュースできちんと出せたと思っていただけに、次の異動先を岩手の盛岡、と言われてびっくりしました。岩手は、石川啄木と宮沢賢治を生んだ素敵な土地柄ですが、事件取材が得手の(ほかのことはできない、と思い込んでいた)私には向かない、と思えたからです。うーん、会社は俺には仕事をさせないつもりか、これが左遷というものか、と唸りましたね。
さて、前章まで、私がNHKの記者として取り組み、放送したものの中で、改めて伝える価値のありそうなものの取材記録を並べてみました。それを読み返してみますと、初めて新潟のデスクになって若手記者のチーム取材を指揮して取り組み、農業の行く末を心配する人たちから絶大な支持を得た「減反10年」をはじめとして、政府の無理な畜産政策の陰で農家が返済に苦しんだ「巨額農家負債」、今も尾を引く「外国人労働者問題」など、9年間の「左遷」の時期に、我ながら優れた仕事に取り組めていることに驚かされます。
なぜ、「左遷」されていた記者に、こんな仕事ができたのでしょうか。こうした仕事の共通点として、①東京でなく、地方に取材の舞台を移したことで、日本が抱える問題、課題に気が付いた②東京が指導してくれず、かえって自由に仕事ができた③「減反10年」の取材をきっかけに、取材のテーマをはっきりさせたうえで、10回、20回(時に30回)の連続放送で、問題を幅広くとらえることが出来た。勉強会など新しい仕事のやり方もすぐ導入できた、ことなどがあげられます。そして、①は「左遷」のおかげであり、②も③も左遷のおかげです。つまり、左遷なのになぜできた、ではなく、左遷されたからこそできたのです!
「減反10年」の取材記録の冒頭は、新潟に向かう“転勤列車の中で、私が「減反10年」のテーマとタイトルを思いつくシーンから始まりますが、これは地方局のデスクの内示を受けてからずっと、新潟で何をしようか、と考え続けていた証拠で、まさに左遷の効用とでも言いましょうか。
ここでついでに、「左遷された」(と、一時思い込んだ)私のその後の評判にも触れておきましょう。9年間の地方デスクを終え、東京に戻って2年後、報道局の「首都圏部長」に抜擢(?)された時のことです。NHKの食堂前の廊下を歩いていたら、それほど付き合いのない、記者の先輩に呼び止められ、大きな声で「首都圏部長、おめでとう。君は、奇跡だよ。この会社では、左遷されたら、もう浮き上がれない、というのが相場だ。奇跡だよ、奇跡。ともかくおめでとう」と言われました。恥ずかしくて、挨拶もそこそこに逃げ出しましたが、やはり私は左遷され、「奇跡的に」カムバックしたのでしょうか。