昭和の記者のしごと㉒忘れえぬ昭和の人びと
第3部 忘れえぬ昭和の人々
〇弁護士・坂東克彦さん
「新潟水俣病の30年―ある弁護士の回想」の出版
記者を育てる人として、まず、デスクや先輩記者が思い浮かびます。また新人研修や3年目研修など、折り目節目で行われる研修の講師―ほとんどが記者の先輩―も忘れてはなりません。しかし私は、最も強く記者に影響を与え、結果的に記者を育てるのは、取材先の人々だと思います。私も、仕事のやり方、人としての生きる道などについて、様々な取材先の人々に教えられましたが、ここでは、特に忘れられない、昭和の時代に活躍した4人の方々を紹介することにしましょう。
新潟弁護士会所属の坂東克彦弁護士は新潟の第2の水俣病事件を裁判に持ち込む原動力になった人です。そしてその裁判の結果、新潟水俣病の原因と責任を明らかにする道を開き、さらに新潟水俣病事件と熊本の第1の水俣病事件を結びつけ、第1の水俣病事件についてもその原因と責任の追及に力を尽くした人です。
環境問題は21世紀の地球の最大の問題と言われていますが、それに取り組むには、私は「公害の世紀」でもあった20世紀の経験に学ばなければならないと思っています。ところが近年の日本はせっかく積み上げてきた公害・環境問題に立ち向かう時のルール、原則がないがしろにされていると私は感じ、危機意識を持ちました。そこで、第1、第2の水俣病事件で取材した坂東弁護士に、新潟水俣病事件とその裁判をたどり直し、あの事件で何が問われ、何が国民の共通の理解として残されたのか、改めて国民に伝えてほしいとお願いしました。
その結果、定年で記者をやめ、出版社に勤めていた私が編集担当になって2000年(平成12年)に出版しましたのが「新潟水俣病の30年―ある弁護士の回想」(NHK出版、坂東克彦著)です。この本の中で坂東弁護士が強く主張しているのは、公害問題では汚染の原因と責任をはっきりさせるのがもっとも大事、ということです。公害・環境問題には被害者の救済とか、環境の維持、復元などさまざまな側面がありますが、そうした全ての問題を解決する基礎になるのが汚染の原因と責任をはっきりさせることだ、というのです。
新潟水俣病事件が起きるまでの日本では、公害の原因が突き止められることはなく、したがって公害企業が責任を問われることもありませんでした。公害の被害者はわずかな見舞金をもらって泣き寝入り、というのがパターンでした。公害の原点といわれた悲惨な栃木県の足尾銅山事件を思い起こすまでもありません。新潟水俣病事件でも当初、新潟県が患者さんに1億円で丸く片付けることを提案し、汚染の原因と責任をうやむやにしようとしました。これに対し坂東弁護士は新潟県の1億円は毒饅頭だと喝破し、孤立を恐れてしり込みする患者さんたちを説得、新潟水俣病事件を裁判に持ち込みました。
坂東弁護士は本の中で熊本の第1の水俣病について、1959年(昭和34年)、患者にわずかなお金を出して責任追及を断念させる見舞金契約が結ばれたことで水俣病事件に第1の幕引きが行われた、と指摘しています。つまりここで、水俣病事件を解決する要となる「汚染の原因と責任」がうやむやにされ、その結果、水銀汚水垂れ流しの続行による被害の拡大につながっていく、と言っているのです。
新潟と水俣を疾風のように駆け巡る
この見舞金契約から10年後の1969年(昭和44年)、熊本の水俣病患者が新潟に2年遅れて裁判を起こしますが、それは坂東弁護士を中心とする新潟の闘いのおかげとも言えます。新潟の患者さんたちが裁判に踏み切ったこと自体が熊本の患者さんたちにとって大きなショックであり、再び汚染の原因と責任を追及して闘うきっかけとなりました。坂東弁護士の下には水俣現地から「水俣でも立ち上がろうという動きが出てきた。どうしたらよいか」とたずねる手紙も飛び込んできます。坂東弁護士は新潟と水俣を疾風のように駆け巡ることになりました。
坂東弁護士の本の中の叙述を引用すると、
「新潟水俣病は第2の水俣病であり、『水俣病の前に水俣病ありき』であった。だから昭和電工の責任は、単なる過失にとどまらず故意に近いものだ」。
こうした主張をするにはまず、第1の水俣病の原因と責任をしっかり確定しておかなければなりません。チッソ水俣工場の排水が水俣病を引き起こしたこと自体が揺らぐことはないにしても、そのことをチッソはいつ、どのような経過で知ったのか、またチッソの同業者である昭和電工はどのような情報を得ていたかーこうしたことをしっかり固めなければならないのです。
細川一博士はチッソ水俣工場付属病院の元院長で水俣病の発見者です。坂東弁護士の本の中の第2部「忘れえぬ人々」で、この細川博士を1969年(昭和44年)、四国の大洲市に訪ねていくくだりはひときわ生彩を放っています。細川博士は水俣病発見後、猫を使って工場の排水による水俣病の発症実験を繰り返しました。その結果、アセトアルデヒドの製造工程から採取した排水で「400号猫」を発症させますが、坂東弁護士は細川博士からその前後の事情を詳しくうかがうとともに、実験結果を記した「猫実験ノート」の写真撮影に成功しています。
これらの証拠は翌1970年、ガンで死の床にあった細川博士に対する、坂東弁護士による臨床尋問を経て、熊本の水俣病裁判でチッソの過失責任を決定的にするものになりました。このように熊本の水俣病事件についても、その原因と責任を明確にしていく上で、坂東弁護士の果たした役割はきわめて大きいのです。
21世紀に残すべき社会的財産
新潟の水俣病事件の裁判では昭和電工側の農薬説を1枚の航空写真で打ち破り、公害を民法の不法行為と捉える新理論でその責任を追及、また被害に対する慰謝料の一律請求で被害者の団結を守りました。また裁判所もこれに応えて判決で「汚染源を追求して工場の門までたどり着けば因果関係を証明することになる」との新しい理論で被害者側の立証責任を軽減しました。
新潟水俣病事件とその裁判には公害・環境問題を正しい解決に導く、言い換えると汚染の原因と責任をはっきりさせるための知恵が種々詰まっていて、それは様々な公害問題に悩まされている国民にとって、大事な財産になるものでした。我々が20世紀の経験をもとに21世紀に残す財産とはIT技術ばかりではありません。公害・環境問題にどう立ち向かうか、そのルール、知恵もまた残すべき社会的財産です。公害が発生したら、住民も、行政も、いわゆる専門家も、関係する企業もまず汚染の原因を突き止め、その責任を明確にすることに全力を挙げる、このことがルールであり、知恵であったはずです。
坂東弁護士は新潟水俣病第2次訴訟の和解による決着を目前にして、1995年(平成7年)2次訴訟の弁護団長を辞任しました。長年、その方々を支援するために闘ってきた、患者さんとの関係を絶つ形になることは坂東弁護士にとって身を切るつらさであった、と思われます。しかし、坂東弁護士は公害問題に取り組むとは汚染の原因と責任をはっきりさせること、という信念に殉じられたのです。
〇公害問題追及者・宇井純さん
宇井さんとの最初の出会いは1963年の初頭、私はまだ大学の3年生で、NHKの記者ならぬ東京大学新聞の記者をしていました。東大新聞は紙面が普通の新聞と同じ大きさの4ページ建て、毎週発行で、学生が編集するには相当負担が大きい新聞でした。まだ無名の大学院生だった宇井さんは突然、東大〈本郷〉第2食堂2階の東大新聞編集部に「原稿を書かせろ」と訪ねてきました。
当時東大はその前年からの、政府が大学の管理を強化するといういわゆる大学管理問題を巡って、紛争とまではいかないが、かなり騒然としていました。大学院生を含めた活動的な学生から、対応が手緩い,とか、理念がないとか、茅誠司総長以下の大学当局への批判がかまびすしかったのです。毎朝、赤門などの大学の入り口で、この問題への意見を書いたビラを山ほど渡されました。ビラを配っていたのは、第1次安保闘争の後分裂した学生運動のセクトが中心ですが、何かモノを言いたい一般学生のものも結構ありました。
宇井さんはこのビラの中に新しい大学論や大学自治論、新しい思想の芽があるとして、ビラを集めて東大新聞紙上で評論したい、というのです。確かに当時の東大では、ビラが最も手軽な媒体であり、そこには最新の情報と主張があったわけです。東大新聞の記者としてもビラをニュースソースとして記事を書いたり、そこから取材を広げたりしていました。しかしビラをそのまま、いわば正規のミニコミとして認め、評論の対象とするというのは編集部でだれ一人考え付かなかったことです。そのあまりにジャーナリスティックな発想に一同すっかり感心し、「学内論潮」というコラムを作って、その後しばらく書いてもらいました。
この話には、ちょっとした続きがあります。翌1964年、宇井さんは合化労連の機関誌「月刊合化」に富田八郎の筆名で「水俣病」の連載を始めました。社会的に葬られようとしていた水俣病を改めて世に出した、日本公害摘発史に残る著作で、富田八郎とは何者か、と関係者の間で話題になりました。実はこの筆名、東大新聞でコラムを連載してもらう際、「とんだ発想をする野郎だ」という意味で宇井さんにつけたもの。宇井さんも気に入ってそのまま流用したらしいのです。
宇井さんとの付き合いは私がNHK記者になってからも続きました。無名だった宇井さんは東大新聞に顔を出したころから、水俣病問題の数少ない追及者として、あっという間に有名になっていきました。
1965年6月、私が新人記者として赴任したばかりの新潟で、新潟水俣病が発生していることが新潟大学の発表で明らかになった時、宇井さんが乗り込んできてNHKだけでなく全マスコミを対象にいろいろ啓蒙、指導してくれました。また、私が新潟から東京の社会部に転じ、環境庁を担当した時は、環境白書の評論で、宇井さんにNHKのラジオに出てもらい、私が聞き手を務めたりしました。
そのころ宇井さんは東大工学部応用化学科の実験助手(学生の実験を指導する役。そのまま助教授、教授と昇進する立場ではない)でした。しかし、どこでどう押して話をつけてきたのか、夜間、工学部の大きな教室を借りて、「公害原論」という一般市民を対象とする講座を毎週開いていました。
1971年9月、新潟水俣病賠償請求訴訟の判決で患者側が勝利。さらに2年後の1973年3月の熊本水俣病(第1の水俣病)の同様訴訟の判決で患者側が大勝利。この判決をきっかけに各地の水銀汚染が問題になり、水銀ショックと言われました。時代は高度経済成長、経済至上主義に対する反発もあり、反公害で大きく盛り上がりました。公害原論の口座では宇井さんの講義のほか、全国で反公害運動に取り組んでいる人々が次々に集まってきて、公害とそれに対する運動の実情を報告、全国の反公害運動の一大情報センターの様相を呈しました。
公害環境問題を担当する記者として、私は毎週のように東大工学部の実験室に押しかけて宇井さんに知恵を借りていました。ある時、反公害の市民運動をしている中年の主婦らしき女性が訪ねてきて、「お願いした原稿、出来たでしょうか」と聞きます。すると宇井さんは、「ああ、あの原稿ね」と言いながら、目の前の広告のチラシを裏返しにして、鉛筆でするすると原稿を書き(記者の私が書くより、よほど速い)、はい、これ、と言って渡しました。
横で見ていた私は、成程、宇井さんのこの能力、この親切心(原稿料が出るわけではありません)が、全国の反公害運動を支える力の一つになっているのだな、と感心したことを覚えています。
その後の宇井さんは、沖縄大学の教授になって東京を離れ、一方私は仕事の分野が司法担当となって公害問題にはあまり縁がなくなり、宇井さんとの直接の取材の関係は希薄になりました。しかし問題によっては電話1本で宇井さんの見解が聞けると思い、記者としての心の支えとなっていました。
宇井さんも、この後紹介する検事の佐藤道夫さんもすでに亡くなられました。お二人のような、知恵があって、反骨心があり、しかし根は親切な人たちがいなくなってしまったことが、日本社会の厚みがなくなってきていることの背景にあるような気がしてなりません。
○検事・佐藤道夫さん
検察の捜査を検察首脳が批判
1992年(平成4年)9月29日の朝日新聞を開いた読者は一面トップに並ぶ2本の記事にびっくりしただろうと思われます。メインは5段抜きの見出し「金丸(自民党)前副総裁を略式起訴 罰金20万円求める」というもの。これと並んで3段抜きの見出し「『聴取なし』に疑問 札幌高検検事長が投稿」が異彩を放っています。金丸前自民党副総裁が佐川急便から5億円受け取ったことについて、検察当局が事情聴取もせずに政治資金規正法違反の罪で略式起訴の処分を決めたのに対し、検察首脳の一人である佐藤道夫札幌高検検事長があからさまに批判する投稿を行ったのです。
「検察官の役割とは何か」(朝日新聞15面に全文掲載)と題する投稿で、
「検察官が格別の理由なしに、国民が知りたい、聞きたいと思っていることについて尋問しないのは、重大な任務違反になる」
「法の下の平等を持ち出すまでもない。刑事訴訟法の前では身分、地位、職業のいかんにかかわらず、どんな人でも同じに扱われてきている。隠れもない超大物だから特別丁重に扱う、一介の名もない庶民だからどう扱ってもいい、他の世界ならいざ知らず法律家である検察官がそんなことをするわけがないし、できるわけもない。『厳正公平』とはそういうことであり、検察がその長い歴史を通じて『権力に屈せず、権勢を恐れず』任務を果たしてきたことは、先輩から後輩に、折に触れ数々の事例を挙げて語り継がれてきた。
そのことをすべての検察官がどんなに誇りに思っていることか。このシンの疲れるシンドイ仕事を支えているのは、その気概だけといってもいい」
「特別な人を特別に扱うのは司法の世界では絶対にあってはならないことである」
などと明解に述べています。
この“検事長の反乱”は国民の大きな反響を呼び起こし、金丸氏はまもなく国会議員を辞職、さらに半年後検察当局から脱税容疑で逮捕され、金の延べ棒など莫大な隠し財産が暴露されました。
佐藤検事長と取材先として付き合いのあった私はこの投稿を読んで強いショックを受け、10月15日付で次のような手紙を送りました。
検事長への手紙
「拝啓。私は東京と盛岡でお世話になった中尾庸蔵であります。(略) 先日の朝日新聞に書かれた論文、お懐かしいということもありますが、マスコミに身を置く一人として、はっと胸をつかれました。
論文の中身の当否は言うまでもありません。それよりも、このような問題について鋭い論理の言論を持って批判し、それによって国民の共感を呼び、事態を動かしていく(金丸氏は昨日、代議士を辞職しました)、そのような行動を取られたこと自体に衝撃を受けました。 これこそ我々マスコミの本来の仕事であります。
ペンは剣より強し、この道に志して以来、常に自負し、心がけていたことでありますが、今回の事件について我々はなすところなく、ひとり佐藤検事長が代わってペンを振るわれ、検察、マスコミの足らざるところをカバーされました。日本国はようやく安泰であります。
取調べの代わりに上申書では何故駄目か。5億円の授受がそもそも政治資金規正法違反に問われるだけにとどまっていてはどうしていけないのか。
政界の腐敗事件が起きるたびに事件の追及とともに政治改革(システム作り)が叫ばれます。というより事件の追及の代わりに政治改革が云々されますが、私はそのような時、いつも思い浮かべる文章があります。
『人は病気にかかることを恐れるべきではなく、その治療手段のないことを恐れるべきである。権力の腐敗は民主主義的法治国家にとって忌むべきことであるが、事前にこれを根絶する有効策によし欠けるとしても、これをてっ抉し、糾弾する司直の機能に誤りなくんば、なお国家の基盤は安泰を保ちえるのである・・・』(1978・9・21、ロッキード裁判児玉ルート公判 半谷恭一裁判長による嘱託尋問調書証拠採用決定文)。
“ペンは剣より強し” それを求められているのは誰か
この文中、国家を国民に、司直をジャーナリズムに読みかえて、拳拳服膺しているところであります。
適切なるタイミングと鋭い論理、佐藤論文は我々ジャーナリスト(と、思い込んでいるに過ぎないにしても)にとってこそ、ショックでありました。猛省し、勉強し、仕事に取り組む決意です」。
ペンは剣より強し。これがジャーナリズムの独占物ではないことを佐藤検事長は示しました。しかし、ペンが剣より強いことがもっとも強く求められるのは言うまでもなく、ジャーナリズムの世界でしょう。
“検事長の反乱”の勇気にただ感心しているのではなく、我々ジャーナリストこそが、ひるまぬペン、それを支えるひるまぬ取材に取り組まなければならないと思います。
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○消費者運動家・谷美津枝さん
谷美津江さんは、新潟の消費者運動家です。全国的には無名かもしれませんが、消費者運動家としての素晴らしい実績、誰もが尊敬する懐の深い人格、どこから見ても新潟の誇る人物です。わたしは幸運なことにおよそ30年、取材者としてお付き合いさせていただきました。2009年4月、谷先生は92歳で亡くなられました。私は東京から駆け付け、弔辞を読みました。今読み返すと、我ながら谷先生の紹介としてよくまとまり、私が谷先生を慕う気持ちが素直に出ています。弔辞をそのまま、紹介しましょう。
〈弔辞〉「谷美津枝先生、先生が亡くなられて、まことに残念であります。先生が亡くなられて、良いことと悪いこと、残すべき事と改めるべきこと、様々なことがあって、日本人の歴史を大きく画した20世紀がとうとう終わった、という感を深くしております。
昭和25年、谷先生が中心になって食生活改善普及会の前身、芙蓉会が発足、食品の着色について不安を抱かれ、有害色素の追放運動を始められました。「政治を国民の世論で改めさせれば食べるものは安全になると考えていた。ところが一向に良くならず、子どもたちに毒物を与えているのがつらかった」。谷先生に聞いた言葉です。
そこで昭和35年、新潟市の小林デパートで、ハム、ウィンナーなど着色しない食品の展示・即売会に初めて取組まれました。
爾来半世紀の長きにわたり、食生活改善普及会は食生活の安全確保のため、社会的な問題提起の運動と安全な食品の供給という、いわば問題を立てて自らそれに解答する二つの活動に取り組んでこられました。全国でも稀な、偉大な消費者団体であります。
谷先生はそのような団体を作り、育て、リーダーとして一貫して活動の先頭に立たれたもので、その功績は計り知れません。
私はいま、食生活の安全確保のため、問題提起とその解答という二つの活動を行う、と申し上げましたが、もとよりそれは容易なことではありません。たとえば、米の問題。有毒な農薬を使わない農家の作った安全な米を直接消費者の下へ届けようと思っても、政府が作った既存の流通制度の壁が立ちふさがります。しかし谷先生はそこであきらめず、不屈の精神で世論に訴え、行政を説得し、新たな流通ルートを切り開いていったのであります。
谷先生は歴史に残る偉人である、と思いますので、まず、公人としての谷先生について触れさせていただきました。しかしそれだけでは谷先生がどんな方だったか、伝えたことになりません。谷先生は、ひとたび有害食品追放の運動に取組めば、舌鋒鋭く、まことに厳しい人でしたが、その一方で、人を愛する、情の人でありました。
私と谷先生とのお付き合いはおよそ30年前、わたしがNHK新潟放送局のニュースデスクをしておりました時、巻原発問題で放送に出ていただいたのが始まりであります。デスク時代の3年間、様々な問題でご相談し、知恵を出していただき、また何度もご出演をお願いしました。
そのあと私は必ずしも本意ではありませんでしたが、盛岡に転勤。しかし谷先生はそのような私を忘れず、三陸海岸へ「いりこ」の買い付けに行かれた際、盛岡駅通過の時刻を連絡して下さいました。駅頭で、短い停車時間に「元気で頑張って下さいよ」というお言葉をいただきながら、がっしり握手した、あの時のぬくもりはいまもこの手に残っております。
その後私は前橋、東京、山形、東京と仕事の場所を変えましたが、谷先生とのお付き合いは続き、声をかけていただいて、食生活改善普及会の集まりで、3度も話をさせていただきました。また、先生の注文で、新潟消費者センターが取組む有機農業紹介のビデオー「有機農業・新潟の挑戦」の制作も担当させていただきました。
報道の仕事に取組む勤め人として、私もくじけそうになることが何度もありました。そのような時、谷先生に応援していただいているということ、いや、谷先生の存在自体が私の心を奮い立たせてくれました。谷先生だったら、どんな障害が出てきても、簡単にくじけたりしないでやるべきことには取組むだろう、と思い返して頑張る気になるのであります。谷先生は、失礼を省みずに言えば、私にとって、心の母、のような方であります。そして、私が確信いたしますのは、谷先生のことをそのように思っている人は私だけではなく、沢山いらっしゃるだろうということであります。
日本はいま、100年に1度という危機の時代を迎えております。思わず、どうしたらよいのか、谷さんに聞き、そのお力を借りたくなります。しかし、谷さんはその死をもって、あなたたちしっかり自分で問題に取組みなさい、あきらめずにやれることがまだまだあるでしょう、と言っておられるのでしょうか。
我々は非力ですが、谷先生の活動をはじめとする、残すべき20世紀の経験を踏まえ、21世紀の問題、課題にぶつかっていきますので、谷先生、安らかにお眠りください。
2009年4月5日 中尾庸蔵」
谷さんについてこの項の原稿をまとめていた2017年9月下旬、新潟市の有限会社・新潟消費者センターから、「本年10月31日をもって会社を終了する」という手紙が来ました。新潟消費者センターは、谷さんが化学合成物質を使用しない安全な食品を供給するため、1965年(偶然にも、私が記者生活を新潟でスタートさせた年です)設立したもので、50年を超す歴史があります。
消費者センターからの手紙では、会員の高齢化や会員の家族が少なくなったことで購買量が大幅に減少。またセンターの設備が老朽化し、働く人たちも高齢化、後継者もいない。これ以上の事業の継続は不可能と判断しました、とあります。谷さんが亡くなって8年余り、センターが存立出来る社会的基盤が崩れていく中で、よく頑張った、と思います。しかし、昭和の誇るべき遺産がまた一つ消えた、という感を深くしました。