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#6【自己紹介】4 高IQでこぼこ脳。で、どうする?

これは自分の中でもまだまだ整理中の課題なので、とりわけとっちらかっています。でも、現時点での記録として残します。
変化があればまた別記事として書きます。変化よ起これ(祈)。


納得はできたけど何も変わらない

最初は打ちのめされた

IQ検査の結果を受けて感じたことの一番は、
「今までの生きづらさはすべて説明してもらって納得ができた。でも、だからと言って何も変わらなかったしこれからも変わらない」
ということに打ちのめされた感覚でした。

冷静になれば、いやそもそも検査ってそういうものだよね、と思いますが、当初のわたしの主観では、

ADHD的特性に悩み、診断・受診による改善を望む。

医師には取り合ってもらえなかった。

医師の診断がなくてもWAISを実施してくれる公認心理師さんを自分で探して受検、ADHDの傾向はなくIQ125と判明。

診断・受診もできないうえに、IQ125では入れるコミュニティもない。

という経緯。現実を変えるためのとっかかりが何も得られなかったことには、深い絶望を感じました。

しかも、脳のピークはとっくに過ぎている

WAISのフィードバック面談での公認心理師さんの話では、IQは基本的に生涯大きく変わるものではないが、脳のピークは13~14歳でそこから衰えていくそうです。え、ピーク早すぎない?

ピークがそんなに早いなら、くらたのでこぼこ脳の取扱説明書はもっと早く手に入れたかったなあ。取説がなくても、休職に至るまでは大きな破綻なくやってこれたことは幸運だったといえるかもしれませんが。

↓ くらたのでこぼこ脳についてはこちら ↓

いま考えていること

「普通の人はそんなもの必要ないもんなんだけど」

余談ですが、WAISの受検をごく親しい知人に伝えたら、「普通の人はそんなもの必要ないもんなんだけどね」といういろいろと問題の多い返事が返ってきました。失礼だろ、くらただけじゃなく、WAISを必要とするすべての人に対して。
「私は必要ない」でいいのにね。わざわざ普通か普通でないかの線引きをして、自分を普通の側に入れたかったんですね。
気分を害された方がいらっしゃるかもしれませんが(わたしも胸糞悪い)、決して悪い人たちじゃなく尊敬すべき市民ではあるのでごく内々の気を遣わない会話のひとつということでどうかご容赦ください。逆に言えば善意の人でも悪気ない発言やその人の内面的課題が、不用意に人を傷つけたりするということですよね。わたしも気を付けます。

このほかにも、「自称『普通』」の方とお話しした事例を書きたいのですが、それはまたの機会に譲ります(たぶん【自己紹介】シリーズの続きで書きます)。

閑話休題。
彼らのものさしでは、休職前までのくらたは「そんなもの必要のない普通の人」の範疇だったのかもしれません。それはまあ、幸いだったのかもしれない。
でも、一人ひとり顔や体が違うように、脳も全く違うのだから、そもそも「普通」という表現自体が、あいまいで解像度が低いですよね。
自分の脳について知りたければ、WAISを誰がいつ受けたっていい。実際、心理師さん曰く、受検される方の年齢はさまざまで、高校生・大学生などの若者から、60歳を超えた方も受けているのだとか。
もちろん、必要なければ受けなければいいと思います。それは、ほんとに。

くらたがWAIS受検から得たもの

さて、「普通の人には必要ない」と言われてしまったWAISの受検後にくらたが得たものはというと、脳の特性に関する数値と、自分の得意不得意についての「これは脳の特性だから」というさっぱりとした諦観だと、今はとらえています。
数値が判明したことについて当初は絶望を感じましたが、今では諦観に代わっています。それは存外気分の悪いものではありませんでした。
また、これを得るには、自分の中の認識や知人の評価だけでなく、客観的な専門家に検査してもらって言語化してもらうことが必要でした。

生きづらさを言語化し、その原因となる脳の特性を解き明かしたのだから、生きやすくなるために改善することに近づいたことは間違いありません。

これからの課題 外界との折り合い

自分ひとりで改善していけることは思う存分WAISの結果を活用していけばいいとして(それもまだ途上ですが)、どうやって外界と折り合いをつけていくかはこれからの課題であります。

現実生活上で望むことは……、とりあえず、今のなんとなくの感覚なのですが、ひとつは、必要以上に説明を求められなくなること、でしょうか。
「普通」のものさしに納めてくれなくていいし「この人変わってる」って思ってもいいから、面と向かっては「ふーん。そうなんだ」って言ってほうっておいてもらうくらいの感じ。

理解してほしいとは言わないから、理解できなかったときに、「バカにしてんのか」って怒ったり、「俺はバカだからわかんねえや」と冷笑したり、「その心は?(わからないから説明しろ、の意)」とか言ったりしないでほしい。
あと、かぐや姫系上司から降ってきた新しい仕事をやむなくお願いしたときに「それは私の仕事なんですか?」「なんで僕がやらなきゃいけないんですか?」って質問しないでほしいし(担当だからに決まってる)、「明日の私の外出、何時に出たらいいかな?」なんて自分で考えてほしいし(くらたはそれ行かないし)、自分で処理できる範囲の苦情電話に対して「私はわからないんですぅ上司がだめっていうんですぅ」なんて言わないでほしい(全部職員が実際に言ってる。しかもくらたより10も20も年上の正社員が)。
あ、後半は高IQ関係ないですね。くらたの休職はこのディストピアからも来てるんだな。休職前は、もうとにかく四六時中、ピンからキリまで質問されて説明を求められていたわけで、残業をして帰るころには脳みそがヘトヘトになっていたのでした。

言語化のコスト 「説明しろ」と言われ続けるのはしんどい

もちろん、すれ違いがあったときになにがしかの説明をしたり、認識のすり合わせをすることは円滑なコミュニケーションのために必要なことです。仕事でも、そうでなくても。

でも恐れずに言えば、「説明しろ」と言われ続けることは正直とてもしんどい。
お子さんを育てていらっしゃる方は「なんで?どうして?」って質問攻めにあって困る経験をされていると思うのですが、おそらく似ていると思います。

『頭のいい人が話す前に考えていること』(安達裕哉/ダイヤモンド社)では、
エグゼクティブは電話はかけないし出ない。「言語化する」というコミュニケーションにおいて最も労力のかかるプロセスを電話を受ける側にも負担してもらうことになるから、
という趣旨のことが書かれていました。

よくぞ言ってくださった!言語化するのって労力がかかりますよね!

そして、「どうして?」と問われて、胸張って大声で説明できることばかりではないのも、大人の質問も子どものそれも、おそらく同じでしょう。説明するという行為には、言語化コストだけでなく心理的葛藤まで伴うのです。

いつか書きますが、くらたは地域の図書館で児童書の担当をしていたこともあります。未来のあるお子さんの成長に貢献できるなら、喜んで、できるかぎりコストの負担もしよう!
だがしかし、社会に出て何年も経過した大人、それもくらたより年齢や立場が上の人が上記みたいなことを私に説明させようとしてくるのは……少し配慮してほしいな。

なお、聞いた話によればわたしがいなくなってからのほうが、職場の皆さんはご自身で考えていろいろと改善してくださっているようです。ありがたや。申し訳ない。

最後に、謝辞

長くなりました。3500字に届きそうです。ここまで読んでくださっている方、本当にありがとうございます。

まだ記事6本目ですが、ここで文章を書くことはとても楽しいです。
「〇〇課長はこの文章で理解してくれるだろうか」「この文章は〇〇係長に『頭がいい人ぶって嫌味だ』『俺はバカだからわかんねえや』とか言われないだろうか」といった「配慮」をせずに、自由自在に書きたいことを書きたいように書けるからです。
いろいろと「配慮」しながら言葉を紡ぐのは、なんというか、三等船室の二段ベッドといおうか、車中泊といおうか、手足を伸ばしきれない、窮屈な感じがあります。
でもここでは、思い切り手足を伸ばして書くことができる。

そして、海の物とも山の物とも知れない(わたし自身もわからない)くらたの文章を読んでくださる方がいる。
みなさん、本当にありがとうございます。

正直、最初から誰かに読んでいただけるなんて思っても見なかったです。
これから、細々と書いていきたいと思っています。

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