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塾講師が真剣に「勉強」の「必要性」を考えてみた

真剣に考えてみるのも悪くないと思える話題自体がこの世の中には限られているのですが、その中でも自分の立場的には考えざるおえないものもあるわけです。
僕は塾講師を初めて約10年ですが、常に問い続けている命題があります。
それは、勉強は必要かどうか、ということです。
世の中に溢れている答らしい答えも、僕にとっては全ては嘘のように聞こえます。何かしら教育に関わっている人たちの中でも少なからずこの問いを取り巻く不穏な空気感に違和感を感じる方もいらっしゃるかと思います。
そのような方々の中には、僕と同じように自問自答し続けておられる方もおられるかもしれません。
一部の人たちにとっては悩ましい命題なのですが、そもそも勉強は必要かという問いには、端的にいうと解決不可能な矛盾があり、その矛盾を見ないふりしたところで結論などでない命題の構造上の問題に加え、勉強というものに関わるスタンスの違いによってさまざまな切り口があるが故の複雑さがあるという話をしたいと思います。

勉強が必要かどうかを議論することを難しくしている原因の一つは、「勉強」を定義する段階からその人の立場が深く関わってしまうという点でしょう。
学校の先生は、勉強を比較的広い定義で捉えている傾向があると思います。塾講師からすれば、狭義の勉強(5教科、つまり、受験勉強に関わるもの)を重要視する傾向が強いかもしれません。保護者の目から見れば、我が子が社会的な自立するための課題程度、あるいはできないと不安なもの(みんなある程度できるからそれに追いつけないと不安、将来のために一定以上の大学には入れる成績じゃないと不安)と捉えておられるかもしれません。だから、我が子が勉強できないことに対してお金を出してまで解決したいと思っておられるのでしょう。
子どもたちからすれば、大人に認められる手段と捉えている子もいるでしょうし、しなければならない嫌なものと捉えている子もいると思いますが、一概に言えることは、子どもたちはみな、漠然とした社会というものに対しての接点として勉強を捉えているように感じます。勉強できれば社会に繋がれる、できないと繋がれない。できれば学校社会に包括され、できなければはじかれる。そんな潜在的恐怖を前提に定義している子が多いと思います。
本心から楽しんで勉強している子は見たことがありません。ほぼ100%、裏側には不安が潜んでいると考えて差し支えないでしょう。
それぞれのレイヤーで勉強の定義が違う以上、勉強を定義するときに立場を超えた支柱となるものがなければ、その先の必要性など議論しようものないということです。

勉強とは何か

勉強とはなんでしょう。これまたやばい問題です。
これについては辞書を引いても意味はなく、先述の通り、当事者たち(学校の先生や学生、保護者)の意見を聞いたところで解決もしません。

では、どうするか。
議論を複雑にしている側面を定義に組み込んでしまい、その側面を前提に分析することによって、答えを出すという手法を使います。
勉強は必要かどうかを議論するとき、問題を複雑にしているのは「必要性」についての議論ですね。なので、勉強を定義するときに必要かどうか議論の分かれる側面を盛り込みます。
そして、その側面を含んだ定義をもつ「勉強」を分析します。つまり、必要かどうか考える余地のあるもののみを「勉強」と定義し、新しく定義されたその勉強は必要かどうかを考えてみたいと思います。

ここでは、技能/知識etc...を獲得する必要性を考えるべき対象を獲得することをあえて「勉強」と定義し、その必要性を問うてみようと思います。
くどいようですが、必要性を考えるに値する対象を「勉強」と考えることが重要なのです。
学ばなくてもいいものをわざわざ「勉強」と定義したところで自ずと結論は導かれます。その逆もまた然りです。
ですから、ここではあえて「必要性を議論する必要性」があるものを「勉強」と考えて議論をスマートに進めたいと思います。

必要性を考えるべくもなく、必要であると言える勉強は「勉強」とは呼ばないことが重要であることは述べました。
例えば、「赤信号は止まる」「車に乗るときはシートベルトをつける」等の生命に関わる一般常識を獲得することを「勉強」とは言いません。
また同様に、「箸の持ち方」も「靴の履き方」を獲得することも勉強とは言いません。ある程度の必要性があることは議論の余地がないと考えるからです。(基本的に日本で生きていれば、箸は使いますし、靴も履きますから)
また、それとは反対に、「釣具の使い方」や「将棋のさし方」、「ギターの弾き方」を獲得することも「勉強」とは言いません。これは一般的に必要性の高い(広義の意味での)知識であるとは言えないと同意いただけると思うからです。(釣りが趣味である、実はギターに才能がある等の顕在的・潜在的能力が豊かに生きていくためには必要であるものになり得ますが、一般性は低い(全員に当てはまるとはいい難い)ということです)

すると、自然と「勉強」はある象限に存在する技能/知識を習得することであることが浮かび上がってきます。
1つ目、短期的、直接的には生命に関わるものではないが、長期的、間接的には広義の「生命」に関わるかもしれないこと。
2つ目、広く一般的に必要かどうかについては議論するに値すること。
この定義が今後の論の全てを物語っていると思うのですが、「勉強」を定義する時点で、必要性を議論するに値するものでないと「勉強」と呼ばないことは極めて重要ということです。少なからずみなさんが用いている「勉強」という言葉の中にも上記の2つ性質は帯びていると思いますし、納得いただけると思います。

「勉強」の先に「幸福」は待ち受けているのか

僕たちが議論する「勉強」というものの全ては上記のように、「勉強」する対象がそもそもふわふわしていて、切り取りずらい側面を持っているわけです。また、「勉強」には、定義の中に必要性を…とややこしいて直しを加えたところで依然として強固に矛盾を孕んでいます。勉強することによって、個人単位では人生は良くなるかもしれないが、それは一般的な良し悪しを判断することができるものではないため、一般に議論することを難しくしてしまうという矛盾です。
5教科が人生をよりよく生きていくために必要かどうか、全員が知っていなければならないかどうかは議論すべきだと思います。
体育や道徳、美術さえも多様化を認めようとする社会のなかでどこまで必要かどうかは議論すべきでしょう。
ある程度の結論をここで提示しておくと、獲得するべき技能/知識かという点で議論が分かれるゆえに勉強なのだと僕は思っています。箸を持つことが重要かどうかは議論に値しませんし、ギターを全員が弾ける必要があるかということに対しても同じくです。しかし、5教科のような汎用性の高い基礎知識はどうでしょうか。大工は微積分は使わないかもしれませんが、根号を知らないのは危険ではないでしょうか。もう少し範囲を広げて考えるなら、「良い市民」たるためには一般的に議論されている社会課題に対しての一定の理解、あるいは理解できる素養は必要かと思います。それについてでさえ、不要という方もおられるかもしれませんが、議論が分かれる=可能性は収束しないということと受け取るのであれば、必要性を議論する必要性のある分野であることは明らかなわけです。つまり、「勉強」そのものであるわけです。

それと並行して考えなければならない点もあります。「勉強」することの「目的」」についてです。この点に関しては、社会参加を円滑に進め、豊かな人生を自分自身で構築することで異論はないと思います。
「勉強」したところで社会に参加できないのであれば、少なくとも初等教育の意義は失われます。また、豊かさは個々人で異なるにしても、多くの人たちにとって自分自身が信じられる豊かさを追求できないのであればそれこそ本末転倒でしょう。
社会参加を円滑に進め、豊かな人生を自分自身で構築することができる青年がいたら、人はその人を幸せだ、恵まれていると呼ぶのではないでしょうか。本人も社会との齟齬を感じながらもある程度の納得と環境への力の行使を目指すことでその齟齬は消化・昇華されていきます。過度に社会に適応することなく、また、過剰に自分の幸福だけを絶対視することなく折り合いをつけて生きていくことができるのです。それが大多数の人たちにとっての幸せと言って差し支えないと僕には思えます。
幸せな個人の育成が「勉強」する先に待ち受けていると信じられるかどうか、によってやはりその「勉強」が必要だと言えるかどうかが変わってくるわけです。
要は、社会に出たあと、その子が幸せになれるかどうか、あるいは、幸せに寄与する因子たり得るかどうかが重要な視点で、その点において結論が分かれているのです。

勉強は必要か

結論、「勉強」する必要は十分にあると言えると僕は考えています。
一方で、「勉強」する必要性があるかどうかが議論される必要は今後もあるとは思います。
しかし、そのような議論を生めば生むほどが、それがゆえに必要なのです。

よくある議論ですが。
ある子どもにとっては、微積分を学ぶことは必要です。
数学者になることによって、その子にとっての社会参加が円滑に進むかもしれません。あるいはエンジニアを目指す子どもにとってもそうかもしれません。
しかし、大工になりたい子どもにとっては一見、必要ではありません。
対して、美術の授業はどうでしょう。前者の子どもにとっては不要で、後者の子どもにとっては必要かもしれません。
つまり、「勉強が必要かどうか」という問いは微積分、美術を「勉強」する必要性についての問いではなく、個人の人生選択に対しての最適化の問題となってくるのです。
それは「勉強」に関しての議論を簡略化・解消する一つの論法としては有効だと思いますが、それだけで「勉強の必要性は子どもによる」と結論づけてしまうことは明らかに問題です。

「勉強の必要性は子どもによる」という結論を出すまでに、別の視点も忘れてはいけません。
先の例の数学者を目指す子どもが芸術を今後の人生の糧にする可能性も捨てきれないのです。数学者が美術館をめぐることを趣味とする可能性だってあるでしょう。
大工だってそうです。大工になってから趣味で数学の論文を読みたいとき、一定の数学的知識が必要になるかもしれません。そこまでの趣味を持つ人は少ないにしても、数学的体系に対しての一定の了見は人生を豊かにする可能性を捨てきれないつまり、習得すべきか議論の余地のある知識なのです。

僕が「勉強」を定義した際、繰り返し述べた「必要性を議論する必要性」があるものを「勉強」と考えるということの重要性はここで生きます。
「勉強」する必要があるかどうかを議論する必要がある、つまり、全員にとって必要だと言い切れないことこそ「勉強」する必要があるのです。
「勉強」を人生選択に最適化した結果、切り捨てられた可能性が人生を豊かにしなかったとは誰も言えないということです。
人生の不確実性・複雑性を加味すれば当然の結論とも言えます。

以上のことから、「勉強」は全員が開かれた精神で向き合うべきものです。
必要性を議論したくなるようなことでさえ、そうなのです。僕たちの人生はどうなるかわかりませんし、誰もそんなことを議論し、断じてしまっていいものでもないのです。皆が、自己の人生を収束させることに過剰にエネルギーをかけるのではなく、開かれた精神で向き合うべきもの、議論に余地があり、要不要が人によって分かれるものであるからこそ、触れておいた方がいい、向き合うべきものが「勉強」なのだと思います。
それは理想論であるという批判もわかります。現実はそうはなっていないからです。僕の論と現状を乖離させている要因は、「子どもに勉強させる」という表現に代表されるような大人の傲慢が「勉強」に潜んでいることです。
子どもたちが小さいときから自分が社会に参加することを前提として、世界の不確実性、人生の可能性に開かれた存在として育まれる土壌があれば、「勉強」することの意義など議論する必要はないのかもしれません。「勉強」させる必要があることかどうかという取捨選択(大人のエゴのフィルター)を通って、承認されたもののみを「勉強」と位置付けていることその姿勢が子どもたちから真の「勉強」を取り払っているのかもしれません。
僕は教育者の端くれとして「勉強」アレルギーが、僕と出会うまでに生徒の内部に醸成されてしまっている現状、それを醸成してしまう社会に対してもどかしさを感じずにはいられません。

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