カネコアヤノ『光の方へ』〜空っぽ・充溢・氾濫〜
私が今回取り扱う歌詞は、カネコアヤノの「光の方へ」という歌だ。
しかし、私にはカネコアヤノの全てを解釈するほどの余裕はない。
だから、他の曲との連関の中で語ることはできない。
また私には音楽的素養があるわけではない。
音の高さやリズムや表現に対し、微細な注意を向けられない。
だから今回は、「光の方へ」をあくまでテキストとして解釈し、そして批評し、自身のためにもう一度位置付け直すことを目的としよう。
最後まで読んでいただければ幸いだ。
この歌を理解するために、三つの概念を導入しておきたい。
空っぽ、充溢、氾濫である。
歌の中ではこれら三つの概念が立ち替わり入れ替わる。
概念はひしめき合い、重なり合い、イニシアチブの循環運動をなす。
また当然であるが、運動のためにはエネルギー源を必要とする。
そのエネルギーとなるのが「光」なのだ。
我々は生まれた瞬間、何も持っていない。
「空っぽ」の状態だ。
そして、それを「充溢」させるのが日々の生活である。
この歌の中でも同じだ。
歌の歌詞を貼り付けておこう。
「視界で揺れる髪の毛先が好き 茶色く透けている綺麗だね」
歌の冒頭、髪の美しさに気づく。
これは些細な発見だが、そのおかげで心に幸福がたまる。
「空っぽ」が少しだけ「充溢」に近づく。
また、この歌詞に「光」が導入されていることに気づくだろうか。
髪が透けるのは「光」が髪を透過するためだ。
「光」のエネルギーから「空っぽ」→「充溢」に運動するのだ。
「言葉が反射する心の底に 言葉じゃ足りないこともあるけど」
まず注目すべきは「心の底」に反射すると言うところ。
何かが「底」まで辿り着くには、その容器が満たされていてはいけない。
そう「空っぽ」である必要がある。
言葉は、その「空っぽ」の中を通過して、必然的に底へ直進し、そのまま反射する。
しかし言葉ではまだ足りないこともあるらしい。
足りない、不足している。
言葉を注いでも、まだ「空っぽ」。
容器の「充溢」には時間がかかる。
「瞳は輝きを続ける」
瞳は「光」を反射して輝き続ける。
瞳が輝くのはもちろん「光の方」を向いているためだ。
そしてその勢いのままサビに突入する。
「充溢」に向けて、そしてまだ示唆さえされていないその先にある「氾濫」に向けて。
「たくさん抱えていたい」
ここまでの話を一気に抽象化する。
たくさんの抱えは「空っぽ」→「充溢」のシフトを示している。
「空っぽ」の私を埋め合わせるように、手にいっぱいを抱える。
「抱えていたい」と、願望の意を含む助動詞で終わっているように、これはまだ満たされていないが、少しずつ、少しずつ、容器に溜まっていく。
「次の夏には好きな人連れて 月までバカンスしたい」
ロマンチックな歌詞だ。
ロマンチックであるが故に解釈は困難だ。
困難な理由はたくさんあるが、第一に、解釈を投じるのは無粋かもしれないという理由が大きい。
しかし、そんなことは歌詞に対して解釈を投げ始めた時点でわかっていたことであるり
だからもういっそのこと、ここではあえてかなり確定的に記述しておこう。
私の解釈では、このサビはここまでのまとめ、つまり、「空っぽ」→「充溢」へのシフトの段階を、豊かに妄想していると考える。
少しずつ満たされながら、容器の中に幸福が溜まっていく。
もうしばらくすれば、初めの何倍の量にもなるその幸福の内容物。
ずっと先には何が待っているのだろうか。
また、このフレーズでは、次の夏、好きな人とのバカンスを妄想する。
解釈を二つ加えておこう。
一つ目は「次の夏」という表現についてだ。
普通、日常生活の中で、「次の夏」と発するのはどのタイミングであろう。
もちろん春夏秋冬いつ発しても「次の夏」という語は通じるが、しかし、最も有力なのは、夏の終わりだ。
今年の夏が終わり、それを振り返りながら「次の夏」に夢を投げる。
たまりゆく幸せのその先を来年に馳せる。
秋にでも冬にでもはたまた春にでもいいが発せられる語だが、「次の夏」という語がより強調されるのは「夏の終わり」であろう。
重要なのは、そうした解釈と同時に、「充溢」の進行が強調される点だ。
また、この分析は、もう一つのサビと時間的な距離を比較するためであるから、覚えておいてほしい。
二つ目は「月」という表現だ。
周知の通り、「月」はそれ自身が発光しているわけではない。
月は太陽の光を反射しているに過ぎず、薄暗く夜空を照らす。
また周知の通り「光」は留まることを知らない。
直進しては反射する。
同じ場所でじっとしていてはくれないのだ。
「光」は「充溢」を目指していたが、そしてその夢は次の夏へと投げられていたが、果たして月へのバカンスの妄想は成功するのだろうか。
「隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね だから光の方 光の方へ」
そのバカンスが、「充溢」への妄想が、その「充溢」ゆえにこぼれ落ちてしまう。
そしてそれは苦しいことだ。
「だから」こそ「光の方へ」。
ここはこの歌の最大の意味を持つため後からもう一度考察しよう。
「靴のかかと踏んで歩くことが好き 潰れた分だけなぜか愛おしくて」
靴を踏んで歩く。
毎度毎度踏んで歩く。
そうすると、しばらくして、へこたれて、靴は潰れていく。
時間の累積が、時間の「充溢」が、靴の崩壊、元の形態の「氾濫」を目指す第一歩だ。
でも、ここで単純な疑問だが、なぜ靴を意図的に潰してしまうのだろうか?
なぜ潰れ行く靴に愛おしく感じるのだろうか?
そこで次の歌詞にも注目してみよう。
「僕だけの命 チューブのチョコレートみたいに けち臭く 最後まで」
先の歌詞と連結して話すために、「けち臭く」という語に目を向けよう。
比喩的に捉えられた僕だけの命、チューブのチョコレートを最後の最後まで捻り出して使い果たすドケチ根性。
不思議である。
これは、靴をワザとすり減らして潰してしまうような感性を持つ人間が、同時に持ちうる感性とは思えない。
しかし、実際には何も不思議なことではない。
なぜなら、これは「光の方へ」と進み続ける人間にとって必然なことだから。
「繊細に指先で触れる」
これまでを一旦まとめると、1番の歌詞では、「空っぽ」が「充溢」していくのを見てきたが、2番の歌詞では「充溢」が「氾濫」の方へ進んでいくことについて触れた。
この歌詞は、特に「充溢」の「氾濫」を明示的に語る。
これまで溜まってきた容器はもういっぱいだ。
水面はぷっくり膨れ上がって表面張力を呈しており、少し触れただけで溢れ出してしまう。
繊細に指先で触れるとそれは「氾濫」してしまうだろう。
「壊れそうだよな 僕ら」
そう壊れてしまうのだ。
ギリギリ限界の液面に沈み込む一枚のコインが、河川の決壊を引き起こす。
壊れてしまった僕らは「充溢」が「氾濫」し、また「空っぽ」に近づく。
「空っぽ」を埋めながらここまできたのに、そしてそれが完全に「充溢」したはずなのに、「隙間からこぼれ落ち」て「氾濫」し、内容物はもうここにはなくなっしまった。
「空っぽ」は再起する。
またここで「僕ら」という表現にも触れておく。
僕は一人ぼっちではない。
「僕ら」なのだから。
半ば決めつけてしまうが、複数形で示される所以は、おそらく「好きな人」と共にいるためだろう。
その決めつけのもとに進めよう。
では、次に、壊れてしまうものは何だろうか?
複数挙げられると思うが、一つ示しておきたいのは、「僕ら」の関係である。
つまり、「僕ら」の関係が崩壊する。
好きな人ができて一緒になる。
「空っぽ」は「充溢」する。
2人の関係は親密になる。
しかし、堆積した巨大な塊は、その姿を保つのに苦しく、今にも「氾濫」してしまいそうな有様だ。
「僕ら」の関係も同じである。
今ある関係性が全くの同一性を持って永続するのはあり得ない。
堆積した関係性は時間軸の線路に乗って流転していくのだ。
「次の夜には星を見上げたい」
これもロマンチックな歌詞だ。
あえて先と同じような感想を述べておこう。
なぜなら、先ほどの「次の夏には好きな人連れて 月までバカンスしたい」と、字数の取り方は異なるが、全体を通して、また特に前半部分はかなり対句に等しい表現であるからだ。
また一応補足しておくが、「次の夜〜」を「ちっぽけだから〜」と分離したのは、「ちっぽけだから〜」が明らかにその次のフレーズ「もっと勝手になれる」に対する副詞節として機能しているためだ。
閑話休題。
ではこの対句的表現を追求するために「次の夏には〜」と「次の夜には〜」を比較検討しよう。
まず、先に挙げた「次の夏」と「次の夜」の時間的な距離を比較する。
すれば、明らかに「次の夜」の方がより直近の未来だと分かる。
そしてその夜「星を見上げたい」らしい。
「次の夏」と同様これもロマンチックな妄想だ。
さらに、対象が「月」から「星」へと変わっていることが分かる。
「月」は光を反射する衛星に過ぎないが、「星」はそれと異なる。
「星」は自ら光を発する恒星。
「月」と比べ、その光の強さは強烈だ。
つまり、「次の夏」への妄想と比べ、「次の夜」への妄想は、より直近の未来に、より強烈な光を求めている。
なぜなのだろうか?
おそらくそれは、再起した「空っぽ」に今すぐ光を注ぎ込みたいからだろう。
積み上げたものが壊れ、焦燥に駆られる。
今すぐそれを埋め合わせたい。
ゆえに、強烈な光を今すぐ求める。
少なくとも次の歌詞で言えることがあるから見てみよう。
「ちっぽけだからこそ もっと勝手になれる」
「ちっぽけ」という表現は「空っぽ」にリンクする。
そしてそう「だからこそ 勝手になれる」。
明らかにしておきたいのは「勝手」のイメージだ。
「勝手」とは自身の欲に真っ直ぐな様を表す。
そして、それに係る比較級「もっと」を踏まえれば、それは「more〜 than…」として機能するため、比較対象を見なくてはならない。
今回、この歌の中でその欲を真っ直ぐに表現したフレーズは「たくさん抱えていたい」、つまり、「充溢」への欲求だ。
踏まえれば、「もっと勝手」というのは「もっと充溢」を欲望することを意味し、さらに、「もっと充溢」のための前提条件として描かれる「ちっぽけ」は「空っぽ」を意味する。
したがって、これらの概念を通して言えることは、「空っぽ」が強調されるが、ゆえに、「充溢」が強調されるということだ。
ではここで価値判断の話に移ろう
「勝手になれる」という言葉はどう機能するのかという話だ。
普通、「ちっぽけ」を肯定する者はいない。
「ちっぽけ」な存在者はその個として脆弱。
「ちっぽけ」はただ誰にも気づかれないような影の薄さみたいなものも含んでいる。
しかし、ここではあえて、その脆弱さを、影の薄さを、いかんなく発揮。
むしろ、「勝手になれる」からいいじゃないか!と翻す。
これは明確に逆張り的な論法だ。
こうした論法は歌の歌詞にはよく見られ、成功した場合には、逆張り肯定の賛歌として聴くものを強く魅力する。
ちなみに私は、この類の歌を「ルサンチマンミュージック」と、または「ニーチェブチギレ案件」と敬意を込めて勝手ながら呼ばせていただいている。
つまり、価値判断の次元においては、本来なら否定的に捉えられやすい「ちっぽけ」を、翻して、肯定していくのだ。
しかし、ここで注意しておきたいのは、一般になされるルサンチマンミュージックとは異なり、その逆張り的翻しをもっと抽象的に捉え直すことで、段違いな音楽へと昇華している。
この歌は、ただ逆張り的埋め合わせをしているだけではない。
その根拠は、「靴のかかと 踏んで歩くことが好き」である。
綺麗だった靴が少しずつ「ちっぽけ」になること、「氾濫」による「空っぽ」化を、楽しんでいる、愛おしく感じている。
やはり、単純に無理やりに逆張りしているだけでなく、むしろ、かなり自然に「ちっぽけ」を愛している。
「たくさん抱えていたい 次の夏には好きな人連れて 月までバカンスしたい 隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね だから光の方 光の方へ できるだけ光の方へ 光の方 光の方へ」
ここまでをまとめながら、「光の方へ」という歌詞を、歌自体を再解釈していきたい。
この歌は、空っぽ、充溢、氾濫、の三つの概念を、光による運動として捉えてきた。
光が作用することで、三つの概念は入れ替わり立ち替わる。
歌の中で、空っぽは、満たされたように、充溢したように思えたが、しかしそれは束の間に過ぎず、やがて氾濫し、再び空っぽになる。
「空っぽ」に対する苦しみは「隙間からこぼれ落ちないようにするのは苦しいね」に現れる。
しかし、先に述べたように、「空っぽ」になること、「ちっぽけ」になることには、決して端的に苦しいことではない。
むしろ、愛おしさのイメージを同居させてもいる。
苦しみと愛おしさの同居はそれ自体相反するので、これを解釈するには弁証法的図式から次元を持ち上げる必要がある。
そこで解決の鍵になるのは「光の方へ」だ。
「できるだけ光の方へ 光の方 光の方へ」進み続ける。
仮に、今まで述べてきた、空っぽ、充溢、氾濫、さらに次ぐ空っぽの激動を、状態変化と呼ぶならば、その状態変化を巻き起こすエネルギーが「光」である。
それぞれの状態には「苦しいね」と感じたり、「愛おし」いと感じたりするように、その状態変化に強く感情を揺さぶられ、しばしば、感情に気を取られすぎて、単純な評価を、「苦しい」から悪い、「愛おし」いから良いといったふうに、与えてしまうことがある。
しかし、この歌はそういう個別な対応はしない。
そう、むしろ、これらの状態変化を引き起こす「光」の輝きの方を評価するのだ。
「光の方」をみれば「瞳は輝きを続ける」。
その先に何が待ち受けているかは分からない。
どのような状態変化が起こり、如何なる感情が目覚めるかは分からない。
そうした激動に対するアンサーとして、「光の方へ」突き進むのだ。
そう解釈すれば、先の「苦しい」と「愛おし」いの相反にも耐えられるだろう。
「光の方へ」
私にとって、「光の方へ」は特大なエネルギーを与えてくれる。
ここまでの文章は全て、「光」のエネルギーによって書かれたものだといって過言ではない。
読んでいただけたなら分かるだろう。
最後に言っておきたいことがある。
「光」は太陽として描かれなかったのだろうか、ということだ。
普通「バカンス」は灼熱の太陽のふもとで行われることだ。
しかし、その「バカンス」は「月」へ向かう。
私は「状態変化」という語を用いたが、これも普通は熱エネルギーを介した運動の変化だ。
だが、この歌ではそうした熱は描かれておらず、「光」だけが描かれる
熱のない「光」として。
そして「光」は反射したり、こぼれたりしながらも、幾つもの状態変化を経たとしても、「瞳」は輝き続ける。
いや、輝かせ続けてしまう。
太陽を凌駕する「月」の輝きを充分に吸い込んで、この批評を閉じてしまおう。
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