日本語教師|教案サイトを参考にするのはいいけれど…
今の世の中、インターネットであらゆる情報が無料で手に入って、便利だなぁとつくづく思います。
日本語教師のお助けマン的存在、教案サイト*もたくさんあります。
*授業の進め方、ポイント、例文、練習方法、活動、絵カードなどが共有されてるサイト
わたしも、新人時代はお世話になりました。とくに、みんなの日本語は、フリーの教材がたくさんあります。
みんなの日本語のようなテキストなら練習や絵カードをたくさん作らないといけないので、そういうのが無料で使えるのはありがたかったです。
ですが。教材サイトの教案を参考にしたり、活用したりするのはよしとして、そっくりそのままやろうとするのはどうなんでしょう?
たとえば、自分が教える学習者に身近でイメージしやすい例文を使うと理解の助けになりますが、サイトの内容が適しているかわかりません。
パターン練習や活動も、目の前の学習者にとって、難しすぎる場合も、易しすぎる場合もあるので、ちょうどよく日本語の上達につながるように調整する必要があります。
授業の流れも、かける時間も、自分の持つクラスの状況によってかわります。
なのに、「教案サイトに書いてた=正しい授業」と考えてい、そっくりそのまま実行しようとする先生がいます。
いやいや…。そんな正しい授業マニュアルが存在するなら、全部YouTube化して配信すれば、わたしたちの仕事はなくなりますよ~って。
わたしは教育って、いきもののように絶えず変化するものだと考えています。相手にするのは人間なので。
しかも、わたしたちが扱う言語というものは、時代や地域、所属などでも違いを持つ上に、他者とのコミュニケーションツールなので、より動的なものだと思います。
だけど、「絶対に正しい教え方」という考えが、はびこっているような感じがします。
もうひとつ例をあげます。
教師の勉強会などで「ここは何回かリピートさせたらいいです」とこちらが言うと、こんな質問をする人がいます。
「リピートは何回すればいいですか?」
わたしの答えはいつも「状況に応じてちょうどいいと思う回数やってください」です。
しかし、そんな質問をする人はたいてい「たとえば何回ですか?」「1回じゃだめですか?」と質問を重ねてきます。
せめて「どんな基準で回数を決めていますか?」とでも聞いて欲しいものです。
なぜか、リピートの回数、よく質問されます。
授業ごとに適当に(この場合は"臨機応変に"の意味合い)やればいいだけなのに。融通がきかないというより、思考放棄じゃないかと思わずにいられません。
この例もやはり「絶対正しい教え方」があると考えてるからなんだと思います。
マニュアル以外のところに、おもしろみがつまっているのが教育だと。
相手が思いがけないことを言ったとき、
クラスが一体になって盛り上がったとき、
考えてもしなかったことにはっと気づかされたとき、
予定不調和な出来事が起きるのが醍醐味だと。
そして、そここそがAIにとって代わられることのない、教師としてのわたしたちのいる意味なのだと。
わたしはそう考えています。