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外国語学習|話せる=教えられる、と思ってしまう落とし穴

ベトナム語を勉強した日本人からよくこんなことを聞きます。

「発音ができなくて挫折した」
「ずっと発音の間違いを直されて嫌になった」

ベトナム語は母音も多いし、日本語で使わない子音も、声調もあって、日本語とは発音がぜんぜんちがいます。

なので、たしかに、日本人にとってベトナム語の発音は難しいです。

しかし、よくよく話を聞くと、挫折した本当の原因は、「発音が難しい」からではなく「発音の指導の仕方がよくなくて改善できないから」だと感じます。


なぜか。
ベトナム語ネイティブのベトナム人だからといって、ベトナム語の発音の仕組みを知ってるわけじゃないから、です。
むしろ、子供のときから自然に話している母語だからこそ、意識もしてないはずです。


たとえば。
すごく足が早い人がいたとして、その人が短距離の優れたコーチになれるだろうか?と想像してみてください。

自分が速く走れることと、他人を速く走れるようにすることは、まったく別だとわかるはずです。


語学も同じです。
話せる≠教えられる、なんです。

でも、なぜか、その落とし穴にはまっちゃってる人たちをよく見かけます。


よくあるのが日本人が同僚や友達のベトナム人からベトナム語を習う場合。(語学教師じゃない、英語や日本語が話せるただのベトナム人)

初日から延々と発音させられて、ずっとダメ出しされ続けてうんざりした、というのをよく耳にします。

口の形とか、どうやって音を出すのか、というような理屈の部分が説明されないので、習う側からすれば何が正解でどうして自分の発音がだめなのかわからないままひたすら声を出させられているだけです。

教える方は教える方で、自分が息をするようにできることなのに、なぜ日本人は発音できないのか発音が区別できないのか理解できません。

結果、習う側は自分にはベトナム語が向いていないわ、となってあきらめてしまいます。

しかし、残念なことにお金を払って「ベトナム語の教室」に通っても、だいたい同じ目に逢うらしいという話しもよく聞きます。
ベトナムでは語学教育の面が遅れてるので、さもありなん、という感じです。


これと似た話で、話せる=教えられる、と勘違いされているのがベトナム人の日本語教師です。

上で述べた通り、ベトナムでは語学教育の専門を学ぶ機関がほとんどありません。
「日本語」を話せる人は多いですし、「日本文化」や「日本語文法」を学んだ人はいますが「日本語教育」を学んだ人はめったにいません。

ですが、送り出し機関、日本語センター、日系企業など、あらゆるところで「日本語が話せる(だけの)人」が日本語教師として日本語を教えています。
※この"だけ"は日本語を教える技術を学んでいないという意味

もちろん、その先生たちもどうすればいいのか悩みながら努力しているのですが、そもそもの専門的な知識がない(その存在を、学び方を知らない)ために、どうにも解決できません。


どちらの話も、「言語教育」の専門性が低くみられている(故意ではなくとも)ことが原因だと思います。

それはベトナムの教育の問題だけじゃなくて、日本人も同じです。
むしろ、小•中学校から勉強しても英語でコミュニケーションできない人が多いことを見れば、日本人こそ言語教育を見直したほうがいいかと思っちゃいます。

言語にはきちんと理論があって、自身が話せることと、仕組みとして教えられることは全く別だということが、もっと世間に知られたらいいのになと思うばかりです。

***

ぜんぜん年明けの感じがない話から始まってしまいました。

ベトナムでは、旧正月を盛大にお祝いするので、大晦日や元日は特別な雰囲気がありません。

とくに、ここ2年はコロナによる制限で花火やイベントもなく、普段と変わらない休日という感じです。

それにしても、2021年はロックダウンで長い冬を過ごすような日々が続いていたので、今年はコロナが落ち着いて春の訪れとなってほしいです。

ついでに、国を跨いだ行き来がしやすくなったらいいなぁと思います。

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