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異文化理解じゃなくて他者理解が必要

外国に住むとなると「文化の違い」「カルチャーショック」なんてことが話題になって、「その国(地域)の文化を許容できるか」というような話になってくると思います。


わたしの経験をお話しすると、ベトナムに来て文化の違いはよく感じますが、そのために「ベトナムには住めない!」「ベトナム人が嫌いだ!」と思ったことはありません。

むしろ、外国=異文化環境に飛び込むと覚悟の上で来ているので、「まあ、こんなもんだろう」というかんじ。多少「イライラ」「モヤモヤ」としたり、「日本でありえないな」「自分はそんなふうにしないな」と思うことはあります。


それよりも。これまでのベトナム滞在歴で起きた、ガマンならない衝突というのは、相手が日本人であることのほうが多かったです。

「なんで日本語で話しているのに言葉が通じないんだ!!あの人の言ってることはまったく理解できないし、あの人もわたしの意見をぜんぜん聞いてくれない!!」

こんなことって、誰にでもあるんじゃないでしょうか?


わたしは日本語教師としてベトナム人に日本語を教えていますので、学生のことはどうにかして理解しようとします。

相手が日本語で上手く表現できないときはどうにかしてメッセージを受け取ろうと努めます。クラスでの行動や発言が問題に感じても、自分の視点で評価を下さないように、どうしてそのような行動・発言に至ったのか知ろうとします。

でも、例えば同僚の日本人や、ベトナム人でも同じ立場である日本語教師を前にして「この人の考え方はおかしい」と安易に判断してしまう自分がいます。


ほんとうは、自分以外の人間って、家族や恋人だとしても他人にほかならないですよね。どれだけ多くの時間をともにした相手であっても、100%自分と同じ考えなんてあり得ないです。

そんな簡単なことは、子どものときから学校で教えられて、誰でも知識として知っているはずです。

で。外国に出て、異文化に触れて、「わたしは柔軟に異文化を受け入れられる」なんて装いながら、その実「どうして同じ日本人なのに意見があわないんだ!」と憤っていたりする。

それじゃあ、ぜんぜん他者を許容できてなくて、柔軟じゃないですよね。


相手には、その人の過去があって、今置かれている環境や立場があって、その人が見つめる未来もあります。だから、このことを知らないと、真実相手の考えは理解できない。

わたしにも、自分の過去、今の環境・立場、そしてこれから進みたい道があります。だから、まちがっても自分の考えを相手が勝手に理解してくれるはずもない。

お互いに、きちんと相手の意見を聞いて、自分の意見を伝える必要があります。

“自分に近い人”というのが一番の勘違いかもしれなくて、なんでも当然に解り合ってると考えてしまうのが擦れ違いの始まりなのかもしれません。

国が、文化が違うから、歩み寄ることが必要。なのではなくて、自分以外のだれかとの関係はいつでも歩み寄ることが必要なのだと思います。

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今日の見出し写真は魚介類の屋台メニューです。

みなさんはタニシを食べるのに抵抗ありますか?わたしは、大きい種類のタニシを貝だと思って食べていたこともあり、あまり違和感なく食べています。

でも日本の家族や友人は「え…タニシ食べるの…?(信じられない)」という反応







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