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第3章:雨の絲はつなぐ聲

 (海の中に漂う私の星は、絲緒里の潮には引き寄せられなかった。ただ、それだけのすれ違いだ…)

 ぷことこ漂う星が、ひとりっきりの私。恥ずかしさと、それゆえに深くなる、大っ嫌いの黒い黒い海に、ぽっと繭玉に包まれて流れのなかを彷徨っている。

 昔、星々は人を知らぬ間に動かしたと謂うだろう。そのなかには覇者と呼ばれる者があり、天と地をひとつに繋げた。絲緒里の海に、覇者の星がその昔、一粒だけ、輝いて、さんと流れ去った。

 今、私のうえには白塗りの天井がある。その上にも星はあるはずだった。雨の音がしばらく強く響いていて、ぽ、ぷす、と、たん、と鳴っている。雨が幾つもの絲だったなら、その一本が星と私を繋ぐはずだ──光に濡れ、どちらともなく引き寄せて。天の星と海の星、互いに映し合う星々の、どちらが抗い難い重さを呈して、私を底へ彼方へと引っ張り去るのだろう。

 ずっと、この家から出てはいない。見えてはいない。それでも、あの時の果てにあった星も、この頭上の星も、繋ぎ切れまいときっと、繋いでいるのだ。

 『のきさきで妙声鳥(みょうせいちょう)の聲がかすれてゆく。』

と、まだ夜の言い様もない淋しさと、謂われのない、何処か未だ生命を駆け巡る余地が残っているかのような、そんな新鮮な感覚の混じりあう、明け鳥の鳴いている声に思い起こされる。少し嗄れた声だ。

 『にがうり』が昔描いていた、あれは唐や北宋と平安時代の『絵詞文化』に基づき描いた『戯繪連(ぎえれん)』と呼んでいただろう、あの作に出てきた一文だ。なぜだろう、あの頃にあまり興味もなく、ぱらぱらとめくっていた、にがうりが描いたあの物語がふと思い起こされた。

 「四方(よも)の光残りの潤いを
 舌先一尋(ひとひろ)
 光りかためた緑(あお)い爪先の妙声鳥が
 天を翔ぶ。
 畏ろしく尊い教えを爪にて掴み
 予も言えぬ美しき唄
 寝魂(ぬるたま)烈しき人の悲憤を
 気取(けど)りてこの人の傍に佇(た)つ。
 天と塵泥(じんでい)間にこの人を視る。
 移し世と夢の跡とを色の滲みの淡き色、
 かく其の霞の中に幻
 視る者聴く者嗅ぐ者触れる者、
 これらの者は世の心の襲(かさね)の色目に、
 居るにこそあらめ。」

 当時、『にがうり』と私は、お互いに干渉し合うことが無に等しかった。『にがうり』の描く『繪(え)』は確かに美しかったけれど、文章は直感でわからない単語の羅列に思えて、心に沁みては来なかった。その度に私は「苦瓜(くが)ちゃんの凄さが凄い」と、解らないのに分かったふりをした。

 あまり仲が良くもない『にがうり』が、私の既得権益でもある『まぼろし』について、物語中に扱うことにも若干癪にも感じていた。なのに、あの『臥龍窟(がりょうくつ)』と私達が呼んだ、あの木の二世帯住宅でつかず離れず一番疎遠だった、その『にがうり』の聲が今幻となって聴こえてくる。

 「『居るにこそあらめ。夢の跡を後にして、妙声鳥の聲をさがしたりもする。』…そう夢現のなかで妙声鳥の聲を聴いた『紫葛姫(しずらひめ)』のシーンは、仮初の世の中と夢は混在している。そこに果たして『幻を聴く者』とは何だ。その十二単のようなグラデーションのような、地続きの現実のなかで、どのような立ち位置を占めるのかって、意味を込めて描いたんですけどねぇ。
 こんな感じにハテハテハテ、どうでしょう絲緒里くん。『右の心臓』──それを妙ちゃんが気づくまで、どれだけ時間がかかるだろうね。それは妙ちゃんの一番大事なところに関わるものでもあるものね。導入はこれでどうかにゃ?」

 間違いなく『にがうり』の声、あの釘を刺されて知らず知らずに漏れている、パンクタイヤのような気の抜けるテンション。歴史漫画家だから?髪をグラデ・ピンクグリーンに染めて、妖怪の目や鋲付きの着物リメイクを着こなす、どこかパンクロックの香りを纏ったにがうり。あの子の見た目も作品も、この時代ゆえの時代錯誤感が、妙に目を引いた。

 にがうりは、大学の頃、私の通う所謂『教養なんでも学部』の歴史研究室に他学部履修生として、突如現れた。歴史資料の虫食い跡を「これは妖怪の仕業だね」と言い放ち、教授をたじろがせたあの時の彼女は、まさに常識外れのパンクそのものだった。

 「これは妖怪の仕業だね」と言う文句はいつしか、にがうりの緩怖(ゆるこわ)な決め台詞になり、そんなにがうりが話すたび、私の気持ちは奇妙にほぐれていった。それでも、その声の底に隠れた鋭さに、いつも違和感や居心地の悪さを感じ、つい耳を傾けてしまう心臓の音がくとんと返った。

 「絲緒ら殿、どうかにゃ。にゃんとも不可思議ではないかにゃ?」にがうりのふやけた声が、ふっと内の意識を『外界』へと引き戻す。けれど、あの言葉の奥底にある何かが、また私を深い思考の底へ引きずり込むように、点と点が絲で結ばれてしまう。『右の心臓』──その響きは、どうにも私の中で静かに鳴り続ける。

 気になる。やってはいけないことなのに、つい耳を傾けてしまう。

 「続きを聞かせて。それに対して、私なりの感想を述べるよ」と、これは絲緒里の声だ。思わず心臓すべてが血液になって溶けて、その下の管を流れ落ちていってしまいそうな苦しみが湧く。そして同時にきゅん…と下腹部がそれを受け止めて、優しい繭で弾み返すような時めきがあった。心の琴線を絲緒里はなぜか今も、撓ませる力を持つ。

 (絲緒里に今更この期に及んで『きゅん』なんて、)鼻で嗤い損ねて、少し辛い涙を飲み込みそうになる自分もいる。

 「助かりまする。続きいきますね」と、『にがうり』が微笑む。その少し抜けた調子に乗せられて、絲緒里は穏やかに笑った。「『…(なんと嗄れた聲だったろう。可笑しな夢もあるものだ、)と浄土の遣いに済まなく、含み笑いを欠伸(あくび)に押し変える。(不可思議である。面妖である)と、紫葛姫(しずらひめ)は巻いた忌まわしき束に触れる。』ここで絲緒里くんに補足情報た〜いむ、いえぇえぇマァマァ。」

 にがうりの、この外れたテンションを絲緒里は存外、気に入っていた。「なんだそれ、いえぇえマァマァとは。」

 「朝鮮で身分の高いおかたさまに、謙って頭を下げる表現と、英語の”Yey!!”及び日本語の『まあまあ』を感情の濃度的にミックスした我らの専門用語、所謂”Jargon”ですね」と、『にがうり』は絲緒里に叩頭(こうとう)しながら、陽気にへのりと拳を振り上げてみせた。

 「紫葛姫(しずらひめ)は垂髪(すいはつ)のなかに、ひと束だけ巻き毛があって、異国の血だ妖怪だと宮中で差別偏見に晒される、って設定なんですよ…。」

 確かに、にがうりの描いていた『戯繪連(ぎえれん)』物語のなかの描写と重なる。それでも、にがうりの文体は果たしてこんなだっただろう
か、私が自分の無知を隠すために、内心小馬鹿にした、あの難解な文章にこのような繋がりの文体があったかは、定かではない。私が今、創り上げているものだろうか?

 「もう、どんどんいっちゃいますね?一気に読み上げますよ」と、にがうりは時折、AO入試名門大法学部生の威厳を放つ。そんな幻聴が、する。「…『黒髪の束と幾筋かの後れ毛の間を、ひたひたとよこぎる月明かりが移ろうを知り、蘇蜜(そみつ)のほどけるの如くに朝の明りが降りてきて、

頸(くび)のつけねのところからすーっと耳の優しい感度までくるしみつつもあがってくる。

どうにも自由になりたいと起きた瞬間に想う。それがいけないことだとも、幸せも苦しみもたくさん持っているから豊かにさせてもらったのだともわかる。

小袖の絹の袖がかさなる静かな重みを感じながら、香炉のうえ海と天のまじわる和合の紋をたしかめ、

ああこれが我が血脈だと、けふの食樂の『声』を恋しむ。

それとおなじ純度で
わたしから抜け落ちた右の心臓が
億劫
だとおしえる。』
…どうですか、鳴神まりな処女作として、光り輝かんばかりの出来栄えじゃないですか。」我らのにがうりは、懐かしい声を響かせる。「これで、妙ちゃんに『右の心臓』のことを、どうやってドラマチックに演出できるかが、今後の鍵ですね…。」

 ぼぅっと耳鳴りが鳴る。『幻聴には耳を貸さないように』と釘を刺された一二三(ひふみ)先生の声が、雨音のように遠くから響く。それでも私は、雨音の切れ間ににがうりの声が混ざるたび、どうしても耳を澄ませてしまうのだ。まるで、星々の重力が私を押し引きするかのように。

 と、つと、と、たん。
 ち、ぷす、と、ぱっと、
 寂しさは透明に私を
 通過する。

 雨が相変わらず、仄明けの密度を与えられた空気に、充満し音を立てた。霞む湿気が天井に集まっては重たさを感じさせる。少し寒くて、アッシュグレーの毛足の毛布を唇の下まで、引き寄せて涎の硬い束を感じ取る。

 (右の心臓…右の心臓、)未だ続く『あの人ら』の会話を懸命に、心中から追い出すようにして、あまり回らない頭でその言葉の意味を、反芻し咀嚼(そしゃく)しようとする。

 (私の運命の星に関わる、なにかの大事な心臓部。もしかして私って、右に心臓があるの?いや、確かに左側で鼓動している。右の心臓…。右の心臓…。)

 それは私の何を象徴しているのだろうか。失われたもの、見過ごしてしまった何かの名残。それとも、いまだ掴めずにいる未来の形なのだろうか。

 『あっ、妙っ、天邪鬼だなあ』と記憶の御簾の向こうから父の声がする。

 『妙の心臓は右かもしれないな』と冗談めいて笑っていた記憶。何かにつけてへそ曲がりな私を皮肉った、この戯言に幼い私は真に驚いた。それが蘇った。そして、小さな私は『わたしは右の心臓をもっている!』と叫び、誰かの前で得意げに笑った──記憶のその先は曖昧だ。

 「ほら『ぐぐ』すれば僕らはフツウだ、」愛らしい年少さんくらいの時分の男の子の声が、なにかを言っている。

 (幻聴が心の声なら、私は私に何を伝えたいのだろう。)

 神と人の間の子の星、英雄の星、自然の守り人の星──。今は地球の反対側に隠れかけている、あの夜空の間にある星々。私の星も、絲緒里の星も、紫葛姫(しずらひめ)の星もそれぞれが巡る。

 あの中には『鳴神まりな』の星も多分あるな、と、ふっと思った。にがうりは、ペンネーム『鳴神まりな』として大手出版に漕ぎつけただろうか。絲緒里の星は、その星より速い軌道速度で、にがうりより先に目指す宇宙(そら)という大海原を渡れただろうか。

 あの人達は、何にも増して今どうして生きているのだろうか。少し、世界に置いてきぼりにされてしまった。

 ただの弱いひとは、勇気を出しても、なにも守れないひとは、この天体の雫として、どんな役割があると言うのだろう。

 悲しい。
 苦しい。
 辛い。

 沢山の誤解とすれ違いのなかで、皆に分かって欲しかったって泣いている、弱いひとにつく星の名前はなんだついまた気弱になる。

 (職があって
 友があって
 旦那も子供も、
 もしかしたら今や居るのかな。)

 絲緒里に?あの『覇者』以外の女性が居るなんて、もしかして隣に居るなんて?そう心を過ぎる不可侵の他愛もない想像を、「だいじょうぶだよ」と自分の声で掻き消して、

 (大丈夫だよ、一つ一つの人生の出来事で言えばさ、へなちょこだったけどさ、人生単位でいえば私は誰よりも不屈だったはずだよ。慟哭の慟哭の慟哭の怒髪(どはつ)、天を衝くかなしみを、生き抜いて来たんだもん)と愛を欲する子犬のような心を宥めて、「瞳から光が消えても、瞬きながら明滅しながら、笑えていたよ」と言い聞かせる。

 まだあの我らの『臥龍窟(がりょうくつ)』の棲家で響かせ合った、あの人らの声が彼方で鳴り止まない。(『あの頃』を引っ張って引き伸ばして、もがき続けているのを誰も知らない馬鹿みたい)と、眉を寄せ、悲しかった人生の相を悲しみながら、枕に三十幾許(いくばく)かには似つきもしない皺の寄った額を押しつける。

 ぽつり、ぷすり、と、たん、ときどき高い音が混ざる雨が降り続ける。

 て、ぷつ、と、たん。雨音ににがうりの声が溶け込んで霞んでゆく。それでも『右の心臓』の言葉だけが、繭の中の星のように心の奥底で静かに鼓動を打ち続ける。淡く消え残ってしまうのだ。
 か、こと、と、たん、と言う母の足音が階段を登り迫って来る。どうにも自由になりたいと瞬間思う。それがいけないことだとも、幸せも苦しみもたくさん持っているから豊かにさせてもらったのだと、食楽の声が、億劫。まるで、幻聴に聴いた『にがうり』の『戯繪連(ぎえれん)』の作中のようだ。

 こんな幻聴を聴く日には、
 独りで独りを
 ただ過ぎながら過ぎていたいのに。

 今朝の私の繭は柔らか過ぎて白すぎて、暗すぎる海にも、頭上に深すぎる、気が遠のくような空にも、引っ張られてしまったら恐ろしい。

 だいすきな私のだいすきな繭。

 解ける一本の絲のように辿って来た人生の軌跡が、あの絲緒里らの海と私の命運をふたたび繋いでしまうのではないか。解けかけた絲の行方を祈るように探し求める。過去も未来も、いまだ雨音のなか、揺れている。星の光が一筋、繭の薄膜を越え、私をそっと照らすように──ぽ、ぷす、と、たん。

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