尾道の町には「余白」がある。支局時代の出会いで気付いたこと (報道センター社会担当・田中謙太郎)
「ここは余白がある町だと思ったんだよ」 ある男性から聞いた言葉が、ずっと頭の中に残っている。
その町は、今年の2月まで4年間、支局の記者として暮らした広島県尾道市。広島市から東に80キロ離れた、瀬戸内の港町だ。自ら選んで住んだわけではないが、確かに余白を感じる町だった。人を引き寄せ、溶け込ませる不思議な力があった。
尾道で私は昨年、「雑居雑感(ざっきょざっかん)」という本を書いた。さまざまな人が寄って「雑居」する町で、人々が思う「雑感」を記録するという意味を込めた。内容は、尾道の消えてしまった場所を巡る物語だ。いわゆるリトルプレスという、出版社を介さない本。続編も作ろうとしている。
記者稼業に飽き足らず、なぜそんなことをしているのだろうか。私にもよく分からない。ただ、見出しが立つ記事にはならずとも、町に眠っているさまざまな声を掘り起こし、形に残したい。それは記者として町に暮らしたからこそ、思ったことでもある。町の余白が私を後押ししてくれているのかもしれない。
そんなわけで、離れてからも尾道には通い続けている。ときには中国新聞の記者として、ときには雑居雑感の書き手として。
深夜に見つけた余白
「尾道は余白がある」と言ったのは、私と同じ28歳の藤井基二さん。尾道の飲み屋街のそばで、元診療所の建物を借り、古本屋をしている。店名は「弐拾dB(にじゅうデシベル)」。本のページをめくる音の大きさにちなんだという。平日の深夜11時から開く、不思議な店だ。
藤井さんは隣町の福山市出身。京都の大学を出た後移住し、ゲストハウスでバイトをしながら店を開いた。尾道に配属されたばかりだった私は、地域欄のネタになるかなというのと、同世代の知り合いが欲しいと思って、店を取材に訪れた。
「店のコンセプトは、特にないですよ。自分の考えを押し付けて、お客さんが居心地の悪い店になったら嫌じゃないですか」
「なんで福山に戻らなかったかって? 僕は大嫌いなんですよ。あんなしょうもない町…」
私の質問に、藤井さんは毒を帯びながら、けれども自分の言葉で返してきた。それが面白くて話が弾み、気付いたら深夜3時の閉店までいた。
取材をきっかけに、深夜や休日に町をふらふらするとき、弐拾dBに立ち寄るようになった。
とにかく雑多な店だった。品ぞろえは堅い思想書や純文学から100円のハウツー本、郷土本までごちゃごちゃ。小さな出版社の新刊もあった。一見気難しそうで、しゃべり始めると落語家みたいに愛嬌(あいきょう)のある藤井さんのキャラクターもあり、入りづらくなかった。
客もいろいろ。観光客、ゲストハウスに何泊もする旅人、地元の本好きのおじさん、やたら差し入れをするおばさん、どう生計を立てているのかさっぱり分からない移住者…。警察署の次長も常連になっていた。出会った人と話が盛り上がれば、近くの酒場に流れることもあった。
市役所の職員と話すのとは違う、生の町とつながれる場所ができた気がした。藤井さんと仲が良くなると、缶ビールを飲みながら町への思いを話すようになった。
肩肘張らずに関われる町
「僕は京都が好きだったんだけど、今思えば洗練されすぎてる気がしたんだよね。その分尾道は、いい意味で田舎っていうか、肩肘張らなくていい気がした」
藤井さんが大学時代を過ごした京都は文字通り文化都市。しかし、居続けたい場所には思えなかった。地元の福山は日本有数の製鉄所があり、そこそこ発展した都市。だが中高生の時から退屈だ嫌いだと言い続けてきただけに、戻るわけにもいかなかった。
一方の尾道は、産業が弱くて衰退しつつも、空き家の再生などで移住者を引き寄せていた。他の町では消えてしまったような古い店もあり、歩いているとお年寄りが声を掛けてくる。人の生活が肌で感じられる町が、地元のすぐそばにあった。
「魅力的すぎてたり、逆にどこにでもあるような町だと、そこでただ暮らすだけになっちゃう。尾道の余白って、自分でも何か新しいことができそう、町に関われそうって、思えるとこじゃないのかな」
進学や就職というレールに乗っかり、受動的に住む町を決めてきた私にとって、それは新鮮な視点に思えた。
楽しそうな「尾道人」
もう一つ、大きな出会いがある。
林良司さん、44歳。生まれてからずっと尾道の中心部で暮らし続けてきた生粋の「尾道人」だ。
尾道市の歴史をまとめた「市史」を編集する事務局で働いている。もとは、廃刊した尾道のローカル新聞の記者。市民や研究者たちと町の埋もれた歴史を発掘するグループ「尾道学研究会」もつくり、中心になって活動していた。
尾道は平安時代に港が開かれ、江戸時代は北前船が寄港して商都として栄えた。明治維新後も数々の銀行が生まれ、陸と海の交通の要衝としてもにぎわった。
「でも華やかな歴史ばかりじゃなくて、光の当たらない所にも面白い話がたくさんあるんですよ」
林さんはよくそう言っていた。
私の取材対象も、自然とニッチな方に寄った。元遊郭街の今、幕末に活躍した謎の落語家の足跡、古い木造船との別れを惜しむ漁師のおじいさん。どれも派手な話ではないが、林さんと雑談する中で教えてもらった人や史料をもとに、書いてきた記事だ。それぞれ、町に生きた人の息づかいを感じることができた。
林さんは祭りや寺のイベントなどに関わっていて、私も取材の傍ら準備を手伝った。尾道は夏から秋にかけて、みこしが繰り出す祭りが続く。地元の世話焼きなお年寄り、クセのある商店街のおじさん、熱いあんちゃんたちと触れ合う場でもあった。
「尾道を特別な町とは思っとらんのですよ」と、林さんは言う。
「海と山に挟まれた景観も路地の町並みも、自然と見て育ったですからね。でも祭りばやしが聞こえたら心が躍るし、昔はどうじゃったんかって気になる。あれこれ動きよったら、周りの人も助けてくれます。子どもみたいな好奇心で、今まで続けとるんです」
地元の人が町に積極的に関わって、楽しんでいる。だから外の人も引きつけられる。林さんを見ていて、やっぱり尾道は余白がある町だと、実感した。
にぎわいの裏にある矛盾
ただ4年間暮らして、良い面ばかりが見えたわけではない。
コロナ禍まで、尾道は観光地として脚光を浴びていた。サイクリング人気もあったし、レトロな町並みや空き家を改装した新しい店の多さは、インスタ映えを求める世相にも合った。平日も若い観光客がたくさん歩いていた。
支局の先輩と観光地化する尾道のいまを伝える連載企画に取り組み、町の多様な魅力や、宿泊施設が少ないからお金が落ちないという課題を書いたりした。しかし、それだけではないような気がした。
町を歩けば、古い建物が解体され、駐車場や空き地になっているのが分かる。道が狭くて車が入りにくく、整った集合住宅も少ない中心部は、どうしても住みにくい。自分で改装ができる移住者もあくまで少数派。衰退に歯止めをかけるほどではない。
「沈んでいきよるのを、観光や空き家再生でにぎわっとるように見せかけとるだけよ」
住民たちから、そんな冷めた声をよく聞いた。日用品の店が少なくて買い物難民になるお年寄りもいたし、小学校は統廃合を巡ってもめていた。
尾道と聞いてイメージする町の姿自体、ごく一部のエリアの話だ。
市民の多くは、郊外の便利な住宅地に住んでいる。余白にあふれた中心部の雰囲気に、関心がない人もたくさんいる。
15年ほど前に合併して尾道市になった島のエリアは、全く別の文化圏だ。私は週に何度も車を飛ばして、因島という造船業で栄えた町に通っていた。取材で出会った島の人たちはとても優しく、そしてはっきりモノを言った。
「合併してからいろんな機能が尾道に集約されていきよる。私らは市役所の会議に出るのでさえ、片道600円以上も橋代がかかるんじゃけえのう」
仲の良い自治会のおじいさんがぼやいていた。サイクリストが快走するしまなみ海道は、壁にもなっていた。造船にかつての勢いはなく、若い世代は橋代の負担を嫌って離れる。残った人は閉塞感から、尾道に複雑な感情を抱いていた。
「因島は因島でまとまらんといけん」。まちづくりの取り組みもイベントも、やたら因島単独でやろうとすることが多かった。意地を感じる反面、かたくなになっているようにも感じた。
にぎわいづくりの後押し、地域愛の称賛…。新聞では、地域の読者を元気づけようと、そんな記事を書いてきた。それは必ずしも良いことなのか。住む人から見た町の姿を、正確に捉えているのだろうか。取材しながらモヤモヤを抱きつつ、漠然とした思いでは形にできなかった。課題を書くにしても、人口減への対応が急務とか、持続的な観光振興策が重要とか、どこかお題目のようになってしまう。
本当は、福山が好き
そんな中でコロナ禍がやってきた。町から観光客が消え、お年寄りも外出を控えた。商店街はがらんとし、祭りは中止や縮小が続いた。新しくなったJR尾道駅のテナントが全て撤退した。目の前の打撃を追い掛け、記事にするだけの日々が続いた。
「僕が福山のことやたら嫌いって言ってたのは、結局好きの裏返しだったんよ」
その頃、藤井さんはよく地元福山への屈折した愛を口にした。ロードサイドのチェーン店と、味のある大衆食堂や喫茶店が混在する福山の町。会社員としての働き口も比較的多い。その程よさが、落ち着くという。
「最初は尾道の方が生活感がありそうな気がした。でも実際の生活に根ざしていて暮らしやすいのは福山の方なんだよね。尾道はそうじゃないから、観光に依存していったんだろうな」
尾道に住んで矛盾を肌で感じたからこそ、藤井さんは今の古本屋を続ける決意を、一層強くしていた。
「観光客も地元の人も分け隔てなく、目の前のお客さんを大切にしたい。うちをきっかけに、町を好きになってくれたらいいんだよ」
林さんは尾道の姿を、より冷静に見ていた。
「尾道は中世から現代までの要素がごちゃまぜな町並みでしょう。伝統的な建築物の保存地区とは違う。生きとるんです。じゃけえ、古い建物を全部残そうとか、逆に全部開発して暮らしやすい町にしようとか、極端に考えん方がええ。今も変化の途上ですよ」
コロナのさなかにあって、2人の町との向き合い方は、浮わついても、突き放してもいなかった。根を張り、あくまで余白を保ち続けようとしていた。一方で、私は数年が過ぎれば、転勤で離れてしまう身だ。
もっと一個人として町と関われないだろうかと考えた。時期に合わせる、体裁を整える、コンパクトにまとめるといったニュースの形でなくていい。住む人と接さないと分からない町の姿を発掘し、記録し、共有していくことができないのだろうか、と。
余白に背中を押されて本を書く
今考えると「雑居雑感」は、そうしたモヤモヤへの答えと言える。
この本は藤井さんに声を掛けられて一緒に作ったものだ。昨年発行した第1号で取り上げたのは、1990年代まで尾道駅近くの海岸沿いにたたずんでいたバラック街。「マーケット」と呼ばれた商店街で、再開発で今は跡形もない。
終戦直後のヤミ市の名残で、高度成長期には立ち退き交渉でもめて市が強制撤去したエリアもあった。ボロボロの外観や成り立ちから「尾道の恥」とたたかれもしたが、映画や雑誌で取り上げられ、次第に「風情がある」と再評価もされていった。
時代遅れの町だと言われつつ、やがて人気になっていた尾道を象徴しているような気がした。
市議会の議事録などをあさって歴史をまとめ、マーケットで暮らしたり店を営んだりした人々に聞き取りを繰り返し、物語のように書いている。今も近くで食堂を営むおばあさん、魚屋の大将だった父を介護して暮らす娘さん、強制撤去の屈辱をバネに再起した焼き肉屋のおじいさん…。失った場所への割り切れない思いや、今の尾道とどう向き合っているのかを、つづっている。
最初にきっかけをくれたのは林さん。関係史料も教えてくれた。調査結果を林さんの尾道学研究会で発表すると、藤井さんが「地元だけで共有するのはもったいない」と、リトルプレスに編集する道筋を付けてくれた。
2人に引き込まれるまま、私も町の余白を観察する側から、生かす側になっていた。
発刊したのはわずか800部と、新聞の数百分の一に過ぎない。それでも藤井さんがツイッターで広報を頑張り、全国の小さな書店から注文があった。尾道や福山でトークイベントをやったときは、昔を知る中高年だけでなく、20、30代の人も興味を持って買ってくれた。
「私の住んでいた町にも、記録されずに消えていった場所や人の記憶があったんだと思います」
そんな感想を聞くとうれしかった。一見旬が過ぎたローカルな話も、普遍的に受け入れられる伝え方があるのだと思う。特に再開発や空洞化で、どの町からも日々消えていくものがある今の時代は。
また、尾道へ通います
尾道を離れてから半年以上がたつ。町は今もコロナ禍で苦しい。観光依存や地域間の格差などの矛盾を、記事でしっかり書くことはできず、力不足だったと思う。
今も仕事があまりうまくいっているとは言えない。机上で物事を考えることが増え、度重なる緊急事態宣言で人脈も築きにくく、鬱屈とすることも多い。
そんな中でも、尾道の町とのつながりは心強い。雑居雑感をきっかけに知り合った人が、記者としての新たな取材先になることもある。親しい市役所の職員からは、コロナ禍でリモートワーカーや会社員の移住が増えていると聞いた。町はまた、変化している。
第2号の発行準備のため、今は島の方に足を向けている。埋もれていく声に耳を傾け、町と関わり続けたい。藤井さんや林さんに教わった余白の、自分なりの生かし方だ。
書いた人・田中謙太郎(たなか・けんたろう) 2016年入社。28歳。報道センター社会担当くらしチーム記者。食やライフスタイル、福祉などくらし分野の取材を担当。長崎の佐世保で生まれ育ち、大学時代は神戸、そして尾道と、人生の大部分を港町で過ごす。
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