性愛の「デフォルト設定」を捨てて、手作りのルールで幸せになる〜ポリアモリーは"本当の愛"じゃない?〜
ポリアモリーを自称していると、よく「それって本当の愛を知らないだけなんじゃないの?」といったネガティブなニュアンスを含む声掛けをされることがあります。
おそらくこの言葉の背景には「一対一の排他的な関係=モノアモリーこそが本物の愛」「排他的な関係ではないポリアモリーは本物の愛ではない」という前提があるのだろうと思います。
ただ、わたしにはその前提こそがモノアモリーの規範の“思い込み”ではないかと思えるのです。
モノアモリー(単数愛者)であれば、性愛関係の大体のルールやイメージというのが頭の中に浮かびます。異性愛者である男女が、一対一で、デートをして、告白をして、ゆくゆくは結婚し、子どもを産み、家庭を持つことを目指す…こんなところが「デフォルト設定」になるでしょうか。こうした関係性の「合意」は特に口にされることも文書にされることもなく、世間でなんとなくパッケージが共有されているものだと思います。
しかし、「ポリアモリー」つまり「一対一の排他的でない関係」というのをスタート地点にすると、この前提がすべて崩れていきます。親密であること=排他的であることという図式は必ずしも成り立ちません。複数愛者は、子どもが複数人いる親のように恋人たちそれぞれを本気で愛しています。もちろん、性愛関係においては排他的であること=親密であることの証であると考える人がいてもおかしいことではありません。むしろそのような考え方の方が現在の日本では一般的であることは理解しています。ただ同様に、排他的であることと親密であることはイコールではない、と考えることもそこまでおかしいことでもないのです。
そして、ポリアモリーとは当事者との合意の下、複数人と性愛関係を構築すること、なのですが、この「合意」の中身は人によって多種多様で様々です。パートナーとのデートの情報は事前に毎回承諾を得る?それとも事後承認?パートナーに他に好きな人ができてその人と一緒に生活するかもしれない。日本では複数婚は認められていないため、結婚がゴールとは限りません。子どもは?複数の男性のパートナーがいる女性が妊娠した場合、子どもの父親は誰になるだろう?…等
モノアモリーのように性愛の「デフォルト設定」は通用せず、ルールはいちいち手作りになります。わたしの場合は毎回デートの情報を共有することはせず、日常会話の延長で「こないだあそこに行ってさ〜」と話すこともある、くらいのゆるい運用にしていますが、Googleカレンダーですべての予定をすべてのパートナーと共有している方もいます。子育ては生物学上の父母で行う人もいれば、パートナーみんなで暮らして一緒に子育てしている方もいます。スワッピングを行うカップルもいますが、複数性交は苦手という人たちもいます。それぞれの価値観や生活スタイルに合わせて「合意」の内容は様々です。すべてカスタマイズしていかなければならないのです。
そこには手作り特有の面倒臭さもありますが、よいこともあります。関係性の自由度が極めて高く、自分を苦しめていた抑圧から解放される契機を得ることです。わたしはモノアモリーの規範から解放されることで、自分が実は結婚や出産を心から望んでいたわけではなかったことに気が付きました。
それまでわたしは将来キャリアも育児も両立しなきゃ…そのためには何歳までにアレをやって…と焦ってばかりでした。しかし、「今のパートナーとの関係性に集中しよう。わたしは他の人とは違う道を行く。」と決めてから、そのような焦燥感からは解放されました。わたしの結婚・出産願望は社会から広告されて押し売られていたものに過ぎなかったのです。(もちろん心から結婚・出産願望がある人がいることは当然ですし、そのような欲求は社会的にもっと支援されるべきだと考えています。)
さらに、わたしは道なき道を行くための大切な力を手に入れることができました。vulnerability(傷つく心の力)と言われているものです。これはソーシャルワーク研究者のブレネー・ブラウンさんがTEDでプレゼンテーションしたことで一躍有名になった言葉です。彼女曰く、心が傷つくリスクを冒し、自分の弱さをさらけ出す勇気を持った人こそが他者と良好な関係を築くことができる、といいます。わたしがポリアモリーを選択することで得たのは、まさにこの力でした。
「複数の人を好きになってしまう」というモノアモリー社会において「不完全な」「“まとも”ではない」自分を認め、オープンにすることで、結果としてパートナーや友人と充実した関係を築くことができました。なぜなら、「わたしはどんなに不完全であろうと愛や友情を得るに値するはず」と自分に言い聞かせて冒険し、成功体験を得ることができたからです。これは大きな自信になりました。わたしは妥協なき愛を求めてもよいことを学んだのです。もうわたしを「君の話は聞くに値しない」と打ち砕こうとする人と共にいる必要はないのです。
恋愛スタイルに限りません。「女だから」「若いから」「人と同じではないから」「変わった考え方をするから」…そのような理由で「わたしはここにいるのに値しない」と思わせる人からは距離を取ってもよいのだと気がつきました。そして新しい人間関係を求めて少しだけ勇気を出して外の世界へチャレンジすることにしました。幸いわたしを必要としてくれる人を見つけるのにそんなに時間はかかりませんでした。
少しだけコツがあります。そのような人と出会うために自分の弱みを隠すのではなく、表に出すこと。世界中のすべての人にさらけ出す必要はありませんが、信用の置けそうな人にそっと自分の秘密を渡してみると、人間関係に思いがけない変化が生ます。相手も自らの弱さや情けなさを開示してくれることが増えていくのです。そして、そういった相手の事情を知ることで、わたしは他者により優しくすることができるようになった気がします。万が一裏切られてしまっても、渡すプレゼントを少しずつ小分けにしておけば大丈夫です。「ちょっとこの人、まずいかも。」と思ったときはすぐに撤退することもできます。傷は回復することが可能です。そして、そうした営みを繰り返し、他者とのつながりを得たとき、どんな大事故にも耐えうる頼れる味方を手に入れることができるようになっていました。
このようにして、わたしは、結婚も出産もしない女のまま、存在することの後ろめたさから解放されたのです。