この恋、浮気?それともポリアモリー? 〜不倫に対するフクザツな気持ち〜
週刊誌や情報番組において芸能人の不倫報道が特に過熱しはじめたのは、ここ5年程でしょうか。その時期はわたしが現在のポリアモリーの彼と交際を始めた時期と重なります。メディアでの不倫をしたとされる芸能人への苛烈なバッシングを目にして、ポリアモリーであるわたしはまるでポリアモラスな性質を持つ自分自身もバッシングに遭っているかのように気が塞いでいました。
ポリアモリーは当事者との合意の下、複数人と性愛関係を構築します。この基本には、男女を問わず相互に性的自由を完全に認め、それを享受していこうという考えがあります。そのため、不倫報道において、男性芸能人は「男の甲斐性」「芸の肥やし」「子孫を残そうとする男性の本能的だから仕方ない」という評価を受けるのに対し、女性芸能人には苛烈なバッシングが行われることには強い違和感を感じます。性的自由は男性のみが享受すべきものという性差別的な社会規範は、一女性として受け入れられるものではありません。
また、芸能人とはいえ個人のプライベートの写真が勝手に撮影されたり、秘匿性の高いはずのメッセージアプリのやりとりまで公開されたりすることが、公共性の低い報道としてなされる必要があるのでしょうか。「有名税」という言葉がありますが、それにしても芸能人というだけで人権が軽視されてはいないかと思います。
たしかにわたしは両手をあげて「みなさん、各々楽しんで!」「どんどん不倫しましょう!」と言うことはできません。
「不倫とポリアモリーは違う」という議論があります。不倫は基本的にパートナーとの間に複数愛の合意がない「約束破り」として行われる傾向にあるのに対し、ポリアモリーは相手との合意の下になされるものだからです。このような区別から「不倫って相手はどう思ってるの?ちゃんと合意はあるの?」という点が気になり、「相手の合意がないのないのなら、それは“正しくない”。ポリアモリーとは違う」とも思います。
また、女性の社会的地位の問題もあります。一夫一妻制が確立してきた経緯を考えると、日本でモノアモリー規範が確立し始めた明治から昭和にかけて多くの女性は経済的に自立することが難しい状況にありました。そこで、不倫を契機に養うべき妻子を顧みない男性に慰謝料や養育費を支払わせたり、社会的制裁を加えたりすることは、女性や子供の保護的な措置として画期的な先進性を有していたといえます。
令和の現代において、女性もバリバリ働き経済的に自立するできるという建前は確立してきました。でも、男女の平均賃金の格差やケア労働の女性への過剰な偏り、出産・育児に伴ってハマるマミートラックの罠…等、解消されていない男女の不均衡は厳然と存在しています。そういった権力勾配の下で不倫される妻子の立場は大変苦しいものです。簡単に「別れる!」と言うことはできませんし、個人の欲求や感情を押し殺すしかない場面もあります。世間のお題目とは裏腹に、現代の女性の性的自由は事実上完全なものとは言えないのです。
わたしとしては、子どもの養育費の支払いに伴う強制執行の手続きの改善や共同親権の実現、女性の経済的・社会的地位の向上によって、複数愛の前提となるべき女性の性的自由はより充実したものになると信じています。しかし、そのような制度や価値観の変革は未だ実現していません。
ただ、権力の不均衡はジェンダーのみならず、モノアモリーとポリアモリーの間にもあります。今の社会では圧倒的にモノアモリー規範が強いです。ポリアモリーの実現でパートナー間の情報格差が是正され、ルールを手作りできるとはいえ、もしモノアモリーの人とポリアモリーの人がカップルになった場合、ポリアモリーの人が安心して自らの思いを開示し、対等な関係になるということは案外難しいのです。
わたしがモノアモリーの人と交際すると必ず言われるのは、「あなたには他にもパートナーがいるからいいよね。」という台詞です。まるでわたしが彼より多くのものを持っていて、加害者で、彼は被害者である、ということ表す言葉のように聞こえます。しかし、彼にも性的自由があり、彼はモノアモリーだから彼の性質としてあえてそれを行使していないのであって、わたしがなにか多くのものを所有しているわけではありません。もし自分の子どもに「お父さんにはお兄ちゃんがいるからいいよね。」と言われたら、どんな気持ちがするでしょうか。
モノアモリーの人と交際しているとき、わたしはいつも常に彼に対して「借り」があるような気がしてしまいます。わたしがポリアモリーであるということ自体が、決して返済することのできない大きなマイナスなのです。わたしがどんなに譲歩し、気にかけ、愛を伝えても、それを埋めることはできない。わたしはどんどん疲弊し、萎縮し、ついには自分から彼に何かを伝えることをやめてしまいます。社会から受けるネガティブな評価(「彼氏が可哀想」「ビッチ」「ポリアモリーはポリアモリーだけで恋愛していてよ。こっちに来ないで!」等)も追い打ちになります。
わたしはいつも社会から踏み絵を差し出されるような気分になります。モノアモリーの人から「あなたは弁えているもんね。」「ポリアモリーとして“ちゃんと”しているもんね。」「他の“浮気者”とは違うもんね。」と言われる度に、“ちゃんと”したいという気持ちの一方、「いつまで“わたしはマトモ”だということを証明し続けなければならないんだろう。」という息の詰まるような、重苦しい気分になってきます。「他の〇〇とは違う(〇〇には自分が属する社会からマイノリティーとされるような特性が入ります。)」という名誉市民的な地位はいつ脅かされるかわかりません。多数派から突きつけられる条件をクリアできなければすぐにでも奪われてしまう不安定な承認です。
このようなことを思うと、「ポリアモリーと不倫は全く違う!!相手の合意してない不倫なんて弱者を傷つける極悪非道の振る舞いだ!!!!」とはやっぱり言えません。ポリアモリーの人もたまたまモノアモリーの人を愛してしまうことはあります。愛する人と共にいたいがゆえに嘘を重ねてしまうこともありえます。
わたし自身はできれば恋人に隠し事をしたくないと思っていますし、相手に複数愛の同意が取れないときはなるべく早期にその場を去るということを行動指針としてやっています。ただ、恋愛には様々な大人の事情が存在します。なにをもって誠実/不誠実とするかは他人が簡単にジャッジできることではありません。わたしも他のポリアモリーの人の恋愛事情に軽々と口出しすることはできません。
どんなに想像をめぐらせても当人達の事情をすべて知るすべはありません。たしかに他者の身に起きた出来事に思いを馳せ、自分だったらどうするだろうか、なにをもって誠実となし善とするのか、思いを馳せることを無理に止める必要はありません。それはそれでわたしたち個々の営みの一つです。
しかし、わたしたちは誰も傷つけずに生きることはできません。脛に傷のない人生などありません。放った言葉は相手に反響して、必ず自分に返ってきます。「浮気をする人はひとでなしだ。」と言えば、あなたが一線を超えたときにその言葉はあなたを責めるでしょう。「まともに働きもしないでフラフラして!」と誰かを見下せば、あなた自身が病気になって働けなくなったとき、その目線があなたを苦しめます。「結婚も出産もしないで女として失格だよね。」と誰かを腐せば、あなたがパートナーや子どもを失ったとき、世界に居場所がないように感じられるでしょう。
そういう意味で、わたしは言葉ってすごく怖いものだと感じています。誰かの恋愛に口を出せば、それはそのまま自分の人生に返ってきてしまう。取扱い注意の刃物です。わたしたちは時に被害者であり、加害者であり、同じ社会に暮らす生活者です。見知らぬ者同士であっても社会規範という屋根の下に同居しています。わたしたちは感情を持たない藁人形ではありません。どうか言葉を使うときには、特に攻撃的な言葉を使用する際には、少しだけ自分とは異なる価値観をもつ人たちのことも思い出してほしいのです。