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ある女性の一生

先日7月末に祖母が亡くなりました。
97歳で半年前に肺炎をこじらせて入院していたので
なんとなく覚悟しており
平均年齢よりずっと長生きしたのですが
半年前まで家でずっと過ごして
お正月には お寿司も少し食べていたくらい元気でした。

常々「私は100歳まで生きる」と豪語していただけに
あっけなく逝ってしまったなと感じています。

両親が共働きだったためほとんど育ててもらい
かなりの期間を一緒に過ごし
良くも悪くも影響をたくさん受けました。
というわけで本日は
戦前、戦後を生きたある女性の話をしたいと思います。

祖母の葬儀のあった週にnoteに
「ハートの女王が死んだ」というタイトルで投稿しました。
ハートの女王というのは『不思議の国のアリス』のキャラクターで
気に喰わないがあったら
「首をちょん切っておしまい!」というふうにいう人です。
イギリスのビクトリア女王をモデルにしていると言われています。

その後、もっと似ている人がいるなと思って考えたのが
『千と千尋の神隠し』湯婆婆でした。
メイクを落として顔を小さくしたイメージです。
怒り狂ってる時の感じがそのままだなと感じています。

あんな感じで思い通りにならない人や物事に常に怒っていたので
子供心に世界で最も怖い存在でした。

今回の訃報を受けて近所の方や古い友人、親戚が訪ねていらした時に
「この度はお寂しくなりましたね」という言葉の後に
「いやー、この人には本当にたくさん怒られて…」
というふうにいろんな人が言うくらいでした。

お経をあげに来られた住職さんも遺影を見て
「この人にはいつも怒られてばっかりで…
 ところでこんな顔の人でしたっけ?」なんて言い出す始末でした。

このかなり火力強めの性格はもともとの気質もあると思うのですが
時代で磨きがかかってしまったという面もあると思います。

祖母は生まれが昭和2年です。
田舎の、小作人を複数抱える地主の家で生まれました。
敷地も畑も広くて、家を囲む川、お堀には
水ではなくてたくさんの蛇が流れていたというふうに話していました。

当時その地域ではだいたい小学校
(昔でいうところの尋常小学校)まで進学する
ということが多かったそうですが
その家ではみな女学校まで進学しています。

女学校時代の思い出としては
学校の用務員さんをからかうのが楽しかったというふうに 話していました。

当時、栄養や衛生状態があまり良くなかったので
多くの子たちが年中鼻水を垂らして
鼻の下と服の袖が常にテカテカしていたというような状態だったそうです。
服の袖で鼻を拭いてしまうためです。
そんな中でも「私は鼻の下も袖もテカテカしていなかった」
ということを言っていました。

また親戚が東京に嫁いでいて
「当時、村の誰も食べたことがなかったカレーを食べた」
というのが自慢でした。
かまどで見たこともないスパイスを煎って作って
「こんな美味しいものが世の中にあるのかと思った」
というふうに話をしていました。

祖母は18歳の時に終戦を迎えています。
つまり15、6歳の時に真珠湾攻撃があったということで
思春期まっただ中を戦争と共に過ごしたということになります。
幸い空襲を受けた地域から遠く離れていて
疎開も必要ないくらいの田舎だったので
その時代を生きた人の中では
かなりかなり恵まれていた方だったのではないかと思います。

終戦直前のある夜
市街地が真っ赤に燃えるのを見たというふうに話をしていました。
その後、焼け出されて飢えた人たちが家を訪ねてくるので
食料を分けてあげていたとのことです。
気の毒でとても見ていられなかったというふうに話をしていました。

そんな祖母の口癖は「とにかく土地を持ちなさい」ということで
『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラかというくらいに
「何はなくとも土地!土地!自分の土地があればとにかく生き延びられる」
というのが口癖でした。

そんな私は未だに賃貸暮らしで、会うたびに
「あんたいつ土地を買うつもりなの?早く買いなさい!」
というふうに言われていたので
その点に関しては「おばあちゃん、ごめん」という気分です。

この戦争が祖母に与えた最も大きな影響というのは
結婚に関するものだったそうです。
当時の結婚は親が決めるもので
ある日突然父親から
「先方と話をつけてきたから、いついつからここに行け」
というふうに言われて「嫌だ」と言えない時代でした。

祖母が曰く
「いい男はみんな戦争に取られて残っていなかった。
 戦争がなければもっといい家に嫁げた。」ということでした。

口の悪い彼女の言葉を真に受けないでいただきたいのですが
結婚適齢期の男性が激減していたというのは間違いありません。
終戦当時の男性の平均年齢はなんと23.9歳
女性で37.5歳ということで
人々が焚き火の薪でも燃やすように
戦火に投げ込まれていったということが伺えます。

ということで裕福でも名家でもない
今の家に嫁いでくることになりました。
孫の私まで常々言っていたくらいなので
人生の中の「こんなはずじゃなかった」という
大きな 傷になっていたようです。

当時、日本中そうでしたが、とても貧しかったそうです。
なのでどうしようもなくなったら実家にこっそり帰って
お金が置いてある場所を知っていたので
そこからいくらか拝借して
ついでに野菜も拝借して逃げ帰るということを
度々していたそうです。

ただし田んぼだらけで身を隠せる場所がないので
逃げていく姿を発見されて
「あいつまたお金をくすねに来たのか!」というふうに
怒られていたそうです。
でも不思議と、次も同じ場所にお金が置いてあったそうです。

祖母は子育てをしながらその傍ら
市役所の臨時職員として働き始めました。
ワーキングマザーのはしりみたいな感じですが
今のように便利家電なんか当然ないので
家事は一手に引き受けて
子供が遠足に行くというような
少し良い服を着せてあげたいという時は
型紙と布地を買ってきて自分で作っていたそうです。
そのため一体いつ寝ていつ起きているのかというような
生活をしていたそうです。

私の実家のある地域は男性たちは
ほとんど遠くに出稼ぎに行って
年数回しか戻ってこないという働き方をしていました。
そのため女性たちが家を守っていました。

町では急速にインフラが整えられていく時期で
ただ急ピッチで進められるため
道路を引くにしても全員が納得するまで話し合いはできませんでした。

そのため自分の住んでいる地域に不利益をこむりそうになったら
男性に頼ることができないので
町内のご婦人方と一緒に役所に行って
戦って勝ち取ったというふうに話をしていました。
このことによりついたあだ名が「裏市長」だそうです。

そんな祖母の子育てというのはかなりスパルタで
以前noteにも書いたことがありましたが
自分の子供(つまり私の父が)習い事をサボったら
包丁を持って追いかけたり
勉強していなかったら本棚を丸ごと投げつける
(本ではなく本棚を持ち上げて投げつける)
などの数々の伝説があります。
私も何度叩かれたかわかりません。

先ほど湯婆婆の例を出しましたが
湯婆婆は怖いけれども愛情深い人でもあります 。
そしてそんな愛情の深さが逆噴射して
攻撃性として現れてくると言えます。

祖母の子供(つまり私にとっては伯母ですが)が
結婚適齢期になったとき
良い男性に見そめてもらえるように身なりをしっかりしなきゃと
何度も同じ服を着せないように
型紙と布を買ってきて何着も何着も服を縫ったそうです。

そしてアプローチしてきた男性が気に食わない時は
箒で追い返していたということで
この攻防戦というのも後々の語り草になっていました。

そのバトルを勝ち抜いたというか
祖母の方が根負けして伯母と結婚した男性は
(私にとっては伯父にあたるのですが)
最終的に地方銀行の頭取りにまで出世されているので
祖母との戦いに勝っただけあってすごい人だったなと思います。

私が結婚する時、夫(当時はまだ付き合っていた人ですが)を
家に連れてきたことがありました。
最初、祖母は「私は絶対に会わないからね」と言い張っていたので
「じゃあ、会わなくてもいいよ、でも何月何日に来るからね」
というふうに予告はしていました。

そして、居間で両親、夫、私とで話をしていたら
突然、祖母が部屋に入ってきました。
そして10分くらい一方的に話をしていくのですが
この家というのがどれだけ由緒があり
私(自分の孫についてですが)を
自分がどれだけしっかり躾をしてきたのかというのを
うわーっと一方的に話して去っていきました。

要は、私が嫁ぎ先で舐められないように
マウントを取っておこうとしたようです。
両親はハラハラしていて、夫はあっけに取られていました。

そんな祖母と長年同居していた私の母はすごく大変だったと思います。
台風の目のような人なので
母が泣いているところを何度も見かけました。
それが子供の頃にとても苦しかったです。
なので祖母に対しては今でも
好きという気持ちと嫌いという気持ち
感謝と憎しみ両方の気持ちがあります。

祖母は今年の冬に入院したのですが
どんどん自分の力で食事ができなくなり
お見舞いに行っても夢うつつという感じで
目を開けていても焦点が合いません。

私は死に目に会えなかったのですが
亡くなる1週間前にお見舞いに行きました。
手を握って「おばあちゃん」と声をかけると
しばらくすると一瞬目に光が戻って
「ああ」と言ってまた寝ていってしまいました。

誰かで構わず火炎放射器をぶっ放していた頃は
殺しても死ななさそうな人だったし
本人もそのように言っていたのですが
何ともあっけなく
最近になってようやく実感が湧いてきたという感じです。

ただ最後はあまり苦しまなかっただろうな
というところが慰めではあります。
ろうそくの火を消すようにふっと消えていってしまった
という感じがしました。

4月頃までは認知症が入りつつも普通に話をしていました。
その頃、孫たちひ孫たち数名でお見舞いに行ったことがありました。
名前と顔がうまく結びつかなくなっていて
何回も何回も名前を聞き返すということをした後にしみじみと
「あれ、私こんなにたくさん産んだっけ?」と言うので
みんなで笑ったことがありました。

直接産んだのは2名ですが、そこから広がっていたということです。
そして祖母の性質というのは
良くも悪くも私の中で生きているなと感じます。
祖母が残してくれたものを
これからも大事にしていきたいと思います。

カバー写真:
UnsplashのSasha Freemindが撮影した写真

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