「物事をつきつめることができない」コンプレックス
私には「物事をつきつめることができない」コンプレックスがある。
だから職人や学者タイプの人にものすごい憧れがある。
何か一つのことについて、ある一定以上できるようになった人は
また別のことにトライしても、やはりある一定以上のクオリティで
できるようになっている印象がある。
私は移り気な性分のためか、適当な性格のためか、
そのずっと手前で「もういいかな」「これ以上やってもな」
という気分になって辞めてしまうことが多い。
越えるべき「ある一定のライン」がどこにあるのか見えていない。
地図に描いてあるように目に見えてわかれば、
「どうしたら越えられるのか」
「あとどれくらいがんばればいいのか」と考えようもあるのだろうけれど。
最近、藤村シシン先生という、
古代ギリシャ研究家の方YouTubeにはまっている。
まるで自分の目で見てきたように生き生きと話をされるから
すごく話に引きこまれる。
(ご本人も冗談で「あのときは本当に大変だったな」とか
「あいつ2000年経っても変わってないな」とかおっしゃる)
古代ギリシャに興味を持ったのは学生時代に『聖闘士星矢』にはまったことがきっかけとのこと。
けれども、ただのファンを通りこして研究者になるには、一次情報にあたったり、無味乾燥な文献を読み込んだり・・・
研究者の生活がどんなものかはわからないけれど、コツコツ積み上げたり、面倒くさい作業が多そうなイメージがある。
一つのキーワードからあふれるようにその物事について語るには、裏にそれを支える莫大な情報や体系づけられた知識が必要のはずだから。
ただ歯を食いしばってがんばるには限界があるだろうけど、
ファン(愛好家)と研究者(プロ)を分ける線は
どこに、どんな風に存在して、どうしたら越えられるんだろう。
わからなさすぎる。
もちろん、性格的な向き不向きはあるだろうし、
愛好家が悪いわけじゃない。
でも、愛好家として楽しむ選択をすることと、
愛好家にしかなれないというのは違うし、
越えた先の世界を味わってみたいという気持ちがある。
なんとなく、ボルダリングのように、
「次にどの石に手をかけようか」と
考えてやっていくことの連続なのではないかと思う。
(今回初めて考えてみたけれど)
『モモ』(ミヒャル・エンデ)に登場する、
道路掃除夫のゼッポじいさんの言葉を思い出した。
興味を持って、トライしてみたら次にやることが見えてきて、
それを越えたら
また興味を持つことが出てきてトライする…
ということを繰り返し続けられる人が
あるときふと気づいたらずいぶん遠くまで来ていたことに
気づくのかもしれない。
私はちょっと先を見すぎ、結果を欲しがりすぎなのかも。
次の一歩のこと、目の前の一歩のことを見て、
その一歩一歩を大事にできたらと思う。