『GOAT』3回目

今日はジーヴァンの心の動きを探ろうとずーっと目を凝らしてたのですが、もう可哀想で可哀想で……。その後でジーヴァンの名前の意味を知ったら、もうどうしていいのか分かりません。 対するガンディーは常に揺るぎない自己を持っているのに、ジーヴァンは心があった部分に穴しかあいていないから。

テルグ語映画(バーフバリ)見てタミル語映画(囚人ディリ)見て、おまけに家でボリウッド(バンバン!)見て、トドメに韓国映画まで見て気持ちを整えて行ったのに、結局 #GOAT 全力で見ちゃってまたタラパティに全情緒を奪われてしまったよ。一体どれだけの演技をあの3時間でやってのけたの?

私いつもタラパティが心配だった。見る映画のほとんどで最愛の人を亡くす役を演じているから。そして常に違う表現でその痛烈な心の痛みを見せてくるから。それは恐らくトラウマの再現で、だから彼が俳優から政治家に転身すると知った時、実は彼のために喜んだ。もう、それをしなくてよくなったのかと。

でも『GOAT』で彼はかつてない程の激しい苦悩のたたみかけを演じていたのだ。それは親となったものにとっての究極の悪夢だった。映画見てるこちらがトラウマになりそうなくらいの熱演だった。
こんな演技をして、普段は静謐な、あたかも仏像のような表情で過ごせるって、彼はどんな人間なんだ?

今まで彼が演じてきたのは主にガンディーの方だった。 でも今回、初めて挑んだような役柄のジーヴァンの方が、本当は彼の本質に近いんじゃないのか? 幼少期のトラウマで、心に穴があいてしまい、その隙間を……心に擬態する装置を作って埋めてしまった子。 彼は初めて自分を表現したんじゃないのか?

それを彼は俳優としての自分への惜別のつもりで演じたのかもしれない。だからこそあんなにも鬼気迫る演技ができた。 それをやってしまった上で、彼は演技から離れることができるのか? 政治は彼のパフォーマンスを満足させることができるだけの舞台なのか?

あなたは俳優を続けるべきだよ、タラパティ……。

午前0:57 · 2024年9月9日

芸術というのは自己表現なので基本自分自身を偽れない。絵画も彫刻も文学も。それができるのは演技だろうけれど、それとて自分自身をさらけ出すのが要求されるから偽るのは至難の技。自己をさらけ出しつつ他人を、架空の人物でさえも完璧に演じられるのが名優ならば、タラパティは間違いなくその一人

午前2:15 · 2024年9月9日

様々な巡り合わせでタラパティという俳優の存在を知ることができ、ファンになって、インドの方々と彼の映画の初回初日(FDFS)を祝うことができるようになったことを本当に嬉しく思い、能う限りの感謝を捧げたい思いです。 タラパティ、俳優やめないでよ、え~~~~~ん!!

午前2:43 · 2024年9月9日

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