「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
二週間前にママが死んだ、49歳だった。
1年半前の夏に特殊なかおつきの子宮頸がんと宣告されて、
まあそんなに長くはないだろうな、と思っていたけれど
まさかこんなに早いとはおもっていなかった。
覚悟はできていたけど、やっぱり悲しかった。今だって悲しい。
でもわたしは元気だ。
普通の大学生活を送り、アルバイトをし、恋人とデートに行き、友人とげらげら笑いながら、ふつうに生きている。幸せだ。
わたしは一人っ子で、パパとママは別居していたので
今は3LDKの分譲マンションにひとりで住んでいる。
そんな状況だから、周囲の大人はわたしをひどく心配する。そりゃあそうだと思う。病院でもお葬式でも「大丈夫?」「がんばってね」と何度いわれただろう
そういう周りの人を見ていると
「つらくあること」を強制されているような気分になる。
わたしとママは親子と思えないほど性格も価値観もまるで違ったし
わたしの正義をふみにじってくるような人でもあったから、わたしはママのことをちっとも尊敬していなかった。
けど、わたしのことを愛してくれたし、仲はよかった。2人で何度も海外旅行に行ったし、ショッピングにもランチにもよく行っていた。ママのことは好きだった。
悲しい、けどつらくない。
学生のうちに母親が死んだら、もっと悲しくてつらいもんじゃないんだっけ
なんでわたしは幸せに生きられちゃってるんだろう?
すごく考えて、このことばにたどり着いた
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
大好きな本、村上春樹『ノルウェイの森』の代表的なフレーズ。
この本については前も記事をかいたことがあるけど、昔はそんなにこのフレーズに惹かれなかった。理解はしてたけど、はっきりと納得はしていなかった。
ママが死んでもわたしの頭の中にママはいて、
綺麗好きだったママに倣って戸棚の中のお皿を片付けてしまうし、
洗濯機に柔軟剤をいれるタイミング、洗濯物を干す配置、乾いた後のたたみ方。
すべてママの生きていたころの通りにしている。
こんなことしたらママは喜ぶかな、という価値観で動くこともある。
わたしは無神論者で、宗教色のあるものが基本的に苦手だから
「魂」なんてことばは使いたくないのだけど、
死は結局その人の実体・カタチを失うだけなのではないかと思う。
ママが死んでも、わたしとママの関係性はつづいているから
『ノルウェイの森』作品中でも言及されていたけれど
「生」がこっち側で、「死」があっち側
なんてことはなくて、
「死」はあくまで「生」のなかに含まれているものなんだなあ
と実感しています。
遺産のこととか、ママの仕事の手続きとか、
そんなものに追われている。
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